Friday, January 23, 2009

ソラニン


 青春マンガ、ソラニンを読む。ソラニンというのは主人公たちがやっているバンドの代表曲のタイトル。その歌詞はページの中で紹介されている。意味があるようだが、そこまで丁寧には読まないで進むことももちろん可。僕だって噛み砕くような解釈はしていない。まあマンガとはそういうものだと思うし、流れるような中でその歌詞にまで注意を向けられないとしたら、それはそのマンガの力ということになるのかもしれないし、単に僕自身の姿勢の問題かもしれない。映画とかだったら、そこで主人公が時間をそれなりにかけて歌うシーンを作ることで意識に植え込むことも可能だし、そこに字幕まで入れたりすればもっと印象を強めることが出来る。なんたって読み飛ばすことが不可能なのだから。
 
 そもそもこのマンガでは、それほど意味のないカットと心情モノローグみたいな黒バックに白抜き文字などを駆使した、どちらかというと文章に力を入れた表現が散見される。それはある意味小説的でもあり、読者は一定レベル以上の読み込みを要求されていたりするのだが、だからといってそのすべてを読み込む必要はない。きっと編集者とのやりとりの中でギリギリこのネームに至ったのだろうと思うが、きっと作者としてはもっともっと深く文章を読ませたかったのだろうとは思う。
 
 で、この歌詞が別れの歌になっていると登場人物が2度語る。何との別れなのかはネタバレになってしまうから触れないでおくが、歌詞についての触れ方としては2種類の別れだと定義されていて、しかしながら全編を通じて他の種類の別れとも通じたりする。人は一般的に別れを繰り返して成長するものだし、そういうものが青春でもある。このマンガ自体はやはり別れというものを根底のテーマにしているし、それは同時に現実というものをどう見ようとするのかということについて触れているようにも思うのだ。
 
 好意的にみれば。
 
 全体の流れとしてはグングン読めるし、悪くない。だが読み終えてスッキリしないのは事実だ。本のオビにはいろいろなところで大絶賛されているとか書かれている(まあ出版社が作るオビだから割り引いて見なければならんのだろうが)けれど、それはどうしてそんなに絶賛するのだろうかという気が正直するのだ。
 
 それはいくつか理由がある。まず、このマンガの重要なモチーフにバンドが使われていて、主人公たちのバンドに対する取り組みというものが非常に逃避的であり、言い訳の材料にされているようで、インディーズレーベルを主宰している立場からすればどうにも我慢できないのである。ただ練習するだけでライブをしようとしない。ライブに否定的なのではなく、ライブをやらなければと思っているにもかかわらず、やらない。録音した音源をレコード会社に送って1ヶ月で結論が出ると本当に思っている。結論が出なければバンドを辞めるとか言う。そして結論が出なくても、辞めない。人生賭けるとかいってすぐに仕事を辞める。そして簡単に復職しようと思うし、会社もそれを受け入れる。
 
 すべてがご都合主義で、成り行き任せだ。成り行き任せが悪いのではない。生きていてそんなに思う通りにことが進むばかりではない。だから思う通りに進まないのは悪だと思っていたら精神的に行き詰まるし、ある程度成り行き任せにしておかなければいけない面も確かにある。だが、それは目標や戦略を設定することを放棄して良いということとイコールではないはずだ。戦略を立て、実行してみて、予想と違う結果が出たときに機敏に方向修正をする。その方向修正が正しい成り行き任せであり、その時の感情にまかせて行動をしていくことはただの無鉄砲であり、無軌道であり、無責任なのだ。
 
 だがこのマンガの主人公たちはそういう後者の成り行き任せを実践している。もちろんいつの時代も親の世代から言われることに反発しては上の世代が若い頃に犯した間違いを再び繰り返す、それが若い世代の標準的な姿である。だからそれ自体を非難することにたいした意味があるとは思わないし、誰が言おうと言うまいとそういうことを繰り返していくことを止めることなんて出来ない。しかしこのマンガではそういう青春群像を過剰に美化し、肯定している。そういう作品があること自体はいいのだが、それが書評などで絶賛されてしまうということに、「こういう生き方で良いのだ」という誤解を与えてしまいはしないかとか危惧したりするのだが、まあそれも自分がオッサンになってしまったということの証なのだろうか。
 
 この中で僕が嫌いな点が、本筋とは別のところで2ヶ所ある。ひとつは、主人公たちの近くにいるミュージシャン(?)が、あっさりとプロデビューしてしまうという点。それはあっさりとしすぎだろうという気が心の底からする。僕がこのマンガをご都合主義だと断じる理由の一端はそこにもある。もうひとつは、主人公の彼氏の父親が、主人公に生きる意味を仮託するシーンがあるが、それはないだろうと思うのである。それはあまりにも自分勝手な意味であり、その瞬間には美談のような雰囲気も漂うが、しかしながらそれを是とするのであれば、結婚さえしていない人に対して過剰すぎる重荷であるし、そういう重荷を託すには、主人公たちの結びつきは強いものではないし、強いものにするためには彼氏自身が自らの責任と引き替えにしながら宣言するという過程が必要なはずで、そういう過程を経ることなく、その親が主人公にその言葉を軽々に言うなどとは、まともな責任感を持った大人の行動としては絶対に是認出来ないものであり、非道い話だと思わざるを得なかったのである。