Tuesday, February 10, 2009

ベンジャミン・バトン


 フィッツジェラルドの奇作が映画化。つってもそんなに広く知られているわけでもなく、僕もそれほど知っていたわけではない。映画の宣伝で知って、たまたま劇場へ観に行く。
 
 観ていて思ったのは、大河ドラマの総集編だなという感じ。2時間半を超える大作で、少々長いなと思うかと予想していたが、結構サクサク流れていくようで飽きずに見られた。宣伝でいわれているのが「老いた状態で生まれて、若返っていくという、数奇な運命を背負った男の物語」ということで、それはどういうことなんだとか、興味は湧く。でもそんなことが本当にあるはずがないと、どうしても思ってしまう。というか、そんなことがどういうことを意味するのかが理解できない。ちんぷんかんぷんだ。僕の想像力の範囲を超えた設定で、だから興味があるんだという場合と、それ故に興味を持ち得ないという場合があるだろうが、僕の場合はかろうじて興味を抱くことが出来たのだった。それにしても奥さんが強く「見たい」と言わなければいってなかったかもしれない程度ではあるのだが。
 
 それで思ったのは、話のキモはこの設定にほとんどすべてがあるわけで、文章で読んでいると想像力を掻き立てざるを得ない。それが出来なければ読むことを放棄するしかない。つまりこういう奇異な設定をどうとらえるのかということが読者に問われているわけで、この映画は、だから、デビッドフィンチャーによる想像力を観客の我々が追体験するということなのだと思う。なるほどそう来たかねという感じで。
 
 ベンジャミン・バトンをブラピが演じるのだが、これが結構面白い。老いて生まれるということはこういうことなのねというのは実際に見てもらうしかないのだが、顔はシワシワで、声もゴホゴホで、でも成長過程(?)にあるから背は子供並みだ。だが子供並みの身長で顔もシワシワだといっても、やはりそこにはブラピがいないとビジネスにならないわけで、特殊メイクを施したブラピが幼少期(?)にも登場するのだが、その顔の皺は割と自然に見えるのだが、どうしても背が低いブラピの姿がとても奇妙で面白い。感じとしては、ディズニーキャラクターなんかの顔が異様に大きくつくられているような、そんなアニメキャラクターが実写で登場という感じに見えて、数奇で悲しいのだろうが、どことなく滑稽に見えてしまうのだった。
 
 ヒロインのケイト・ブランシェットも若メイクや老いメイクをいろいろしているのだが、どの年代も非常にサマになっている。だがさすがに少女時代は別の子役さんが演じている。まあそれは仕方ないだろうなとも思う。同様に死ぬ間際の幼児時代(?)のベンジャミン・バトンもブラピではなく子役が登場。そこもブラピに特殊メイクさせて、CG合成のような感じで、幼児なのに顔はブラピというような徹底ぶりを見せて欲しかった。そんなに幼児時代の時間は多くないんだから。
 
 見ててそんなに悪くない作品。でもドキドキとかワクワクとかハラハラとかとは一切縁のない作品。やっぱ大河ドラマは1年かけて毎週見るべきなんだなとか思ったが、ブラピが出なかったら成立するのかという気はするし、じゃあブラピがテレビドラマに1年を費やすのかというと、それも現実的ではないと思ったりした。