Tuesday, February 17, 2009

役目

 いやあ、世の中いろいろなことが次々と起こるものだから、ブログに書くのも追いつかない。今朝のニュースに飛び込んできた、中川財務大臣の醜態は、最初に映像を見て唸った。自分が写っている映像を見るとついつい目を逸らしたくなるが、そんな気持ちになった。別に中川大臣の身内でもなんでもないのに、そんな気持ちになったというのは、やはり日本人として恥ずかしいという思いになったのだろう。あれは恥ずかしすぎるし、世界へのパフォーマンスとしても、即刻解任すべきだった。そうすれば、ああいう態度は国のリーダーとして相応しくないと日本が思っているという意思表示になるけれど、そうしないと、日本人はあれでいいと思っていると誤解されかねない。悔しいなと思う。
 
 で、今日の話題はそれとはちょっと違う。
 
 先週のどこかで、読売か朝日のどちらかの朝刊に、ママさんを雇う会社の話題が取り上げられていた。子育て中の女性が、子供を連れて職場で働く写真が載っている。そのママさん、「自分が1日中子供の相手をして、自分のことをなんにも出来ずに今日もまた1日が過ぎていく。"自分"が無くなっていくようなもどかしさ、虚しさを感じた」と言っていた。仕事はお金のため、人生は家庭にあるというのは男の勝手な解釈である。人並みに教育を受け、社会に出た経験のある人にとっては、家庭や子育てに価値があるということは十分に承知しながらも、しかし自分が社会のためになっているという実感を得るために、仕事、労働というものに大きな意味があるのだということをあらためて知らされた。
 
 そういう「働きたい」女性を無理に家庭に押し込めているのが現在の日本の社会なのだろう。幸せの形はいろいろとあり、専業主婦で子育てが究極の幸せだと思っている女性もいるし、そうではなく社会で働くことが幸せだと思っている女性もいる。どちらかの価値観を無理に押しつけることなど出来ないはずなのだが、現実問題としては働きたい女性の職場といえば比較的単純作業のパートしかないという現実は、どちらかの価値をもう一方に押しつけているということに、結果的になっていやしないだろうか?
 
 それをこの会社は乗り越えている。たとえ時間的にはパートと同じになったとしても、しかしながら仕事をする上での知識や技術、ノウハウの蓄積が出来るということは、企業側から見ても大きな意味があるといえよう。普通、女性は勤めても辞めていく。結婚や出産を機に辞めていく。辞めると経験の蓄積は一瞬にして無になり、次の人が入ってきたとしても同じように働き始められるわけではない。その人を育成してもやがて辞めてまた無になるのなら、簡単な仕事だけやらせておこう。これが、女性を戦力としない理屈である。で、それに対して僕の就職時期頃からは総合職とかいって、男と同じように働いていく女性のポストを用意するようになった。しかしそれでは男と同じように転勤をいわれることもあり、家庭での男女の役割というものが暗にある分だけ、そのハードルが高くなってしまい、結局は辞めてしまったりすることも多い。
 
 そうすると、結婚しても、子育てをしても、なお仕事をしていくことが出来るという第三の選択をしていければいいのだろうが、そういう職場はなかなかない。それで「自分が無くなっていく」という絶望感を持ちながら生きていく人が無くならないという悲劇が起こる。そういうことを、誰かが解決しなければいけないのに、誰もやっていない。そこにはそれなりの理由があると思う。やはりスタッフがちょくちょく休まれたら仕事にならない。子供が熱を出したら医者に連れて行かなければいけないだろう。それはワガママではないのだ。でも共同で仕事をしようとしている仲間にとっては、そんな勝手なことをという気持ちが湧いてくる。野球のチームが守備について、セカンドの選手がグラウンドに現れない。聞けば子供を病院に連れて行っているという。そんなバカなと思うだろう。そのバカなことが現実の職場で起こってくる。それでは職場のモチベーションは維持できない。
 
 報道ステーションの特集で、チョークを製造する会社の話が取り上げられていた。そこは、障害者を積極的に社員として採用しているという。最初は養護学校の先生が子供たちを2人連れてやって来たのだという。この子たちを働かせてくださいと。そんなことは出来ませんとお断りしたら、それでもあきらめずに先生はやって来た。社員が無理なら研修生でもいい。ここで働けなければ彼らは一生働くということを知ることが出来ないんです。それで、2週間の研修生受け入れを行うことにした。そして2週間の期間が過ぎたとき、社員たちが社長を取り囲んだ。彼らを社員にしてやってください。彼らが出来ないことは自分たちがフォローしますから。それで仕方なく社員にすることにした。最初に社員となった障害者は50を過ぎた今も社員のまま働き続けている。いい話だとおもった。
 
 そういうこと。普通に考えれば採用は有り得ないと思われている人事。それによるメリットとデメリットは常にある。そういうちょっとだけユルイ感じの家庭的経営が許される会社なら、そういう人事も可能なのかもしれない。それをユルイという表現で片付けるのも変な話だな。その会社は、多少の合理的なメリットを譲ってまで、そういう人事を実践してきている。それは、力だと思うのだ。究極まで合理性を突き詰めた経営をしている会社がたくさんある中で、同じ土俵で競争するのだ。同じように合理性を追求しないと負けてしまう。それを知りながらもあえてママを採用する。職場に子供を連れてきていいという。大変だろうと思う。だが、それでもその職場の結束は強まるだろうし、企業の競争力は、数字に見えないところで強まっていくだろう。そういう会社が勝ち残るような社会になっていかなければいけないのだろうと思うのだ。
 
 そして僕は一体どうなんだろうと考えた。キラキラレコードとして、一時期社員が4人いた時期もあった。だが現在はそうではない。雇用を維持するということがどれだけ大変なことなのかは身に染みて理解している。だが、企業をやっている以上は、苦しくとも雇用を維持できるようにならなければいけないと思うし、さらには、今回の例のような、意義深い採用活動をしていけるようになっていきたいと思う。別に慈愛の精神とかからではない。それが生きている上での自分の力になっていくと信じるからだ。だがそのためにはまず力を付けていかなければいけない。そうでなければ、どんな人も「ここで働きたい」とは思わないだろうから。