Saturday, March 07, 2009

国策捜査という世論操作

 いろいろな問題が新たに登場している。検察は世論を味方に付けるために様々なソースをリークという形で次々に繰り出している訳で、それにマスコミが乗ってしまっているだけなのだが、そのリーク情報の出方にあっさりと乗っているメディア人もいれば、それに懐疑的な姿勢を示すメディア人もいる。全部が乗るのも全部が懐疑的になるのもおかしな話で、いろいろな人がいて、いろいろな態度を示すのが、それは能力の差という意味でもバランス感覚の差という意味でも立場の差という意味でも妥当なことであって、それはいいのだが、それでも冷静に見て、一方が発言者不詳の形で発言することは全面的に支持されて事実だとして伝えられるのに対して、もう一方は本人自らカメラの前に立ち発言していてなおその真意を探るどころか表面的な言葉さえ曲げられてさらに懐疑的な感想を付与されて伝えられるということが、同じメディア人のフィルターを通して行われたりするということにあきれてしまう。
 
 そもそもリーク情報というのは不公正そのものだという気がする。もちろんそういう形でしか伝えられない真実というものもある。内部告発なんてそういったものだ。企業の社員がその企業の悪事を氏名公表で発言するのは難しい。だから発言者不詳でそういった事実の公表が行われること(これにしても会社内での立場を失った人が腹いせで言うケースもあり、無批判に真実だと信じることもできないのだが)は多々ある。だが、今回のような検察のリークはそういうものとは違う。捜査権を持った極めて独立性の高い組織が行うものであり、そういった意味では氏名不詳発言と同等に扱うのはどうかと思う。しかも問題の一方の立場であり、相手方をクロだと決めてかかっている立場の組織が小出しにする情報が公平であるはずが無い。そしてその情報を基にメディアが事実というものを構成し、その事実に基づいて相手方を「クロだ」と言うのは簡単だ。だが正義ではない。それはまるで「三角形の角の総和は何度ですか? その理由も説明せよ」という問いに対して、「総和は180度です。なぜなら、先生がそういったから」という答えをするようなものである。これは答えとして正解をあげられないものだ。角の総和は確かに180度だ。しかしもし「総和は190度です。なぜなら、先生がそういったから」という答えだったらどうだろう。最初の答えが正解というのなら、後の答えも正解にならざるを得ない。なぜなら、180度である根拠も、190度である根拠も、「先生がそういった」ということに他ならなく、先生が言うことが全て正しいということを認めるのであれば、後の答え、すなわち三角形の角の総和が190度であるということも正解として認めるようにしなければ理屈が合わない。
 
 また、会見後の世論の行方を見ていると、小沢一郎の国策捜査発言に対するバッシングというものが大きな流れとなっている。が、これはどうしてこのような流れになってしまったのかが不可解でしようがない。というのも、当の小沢一郎自身は、国策捜査という言葉を使っていないからだ。「政治的にも法律的にも不公正な国家権力、検察権力の行使だというふうな感じをもっております。」というのが彼の言葉であり、発言の他の部分を見ても、やはり国策捜査という単語は使用されていない。国策捜査というのは政府が主体として行われる刑事事件捜査のことを指すもので、この単語を使うということになると、それは政府、すなわち現在で言えば麻生政権が恣意的にそういう捜査を指揮しているということになってしまう。しかし、小沢政権が誕生することを快く思わない勢力は何も麻生自民党政権だけではない。官僚組織そのものも小沢政権誕生に不快感を示す勢力であって、麻生政権が指示しなくても、官僚組織としてそう動くことが妥当だと思うし、僕個人の意見としては既に先日のブログでもそのように書いてきたつもりだ。どうしてそういうことを書いたのかというと、やはりいくらなんでも政府が主体的に国策捜査をするというのはあり得ないと思うし、もっというとあってはならないと思う、というよりも、そんなことは考えもしなかったというのが本当のところだ。だから、そういうことを言う人の中には、選択肢として、可能性として、国策捜査もあるのだろうという気がする。そういう意味でこの国策捜査という単語が飛び出したのはどうしてなのかということを考えると、ニュースなどで見る限りは、自民党の党役員の約2名の発言が元なのではないかと思っている。この人たちはかねてから軽卒過ぎる発言を繰り返してきたし、さもありなんという気もしているが、その言葉に載せられるかのように「そんな発言をするのは良くない」とかコメントしてしまっている前原誠司には、その軽さと状況判断力の無さにあきれるばかりだが、メディアも多くがその誤った論調にそった報道をしていて、ああああ、この国はそう簡単には前進しないなということを改めて思い知らされたような気になった。
 
 
 検察と小沢一郎の戦いというものは既に始まってしまっている。だが、これに決着がつくことはまずない。小沢一郎はそもそも体調に問題を抱えている人であり、問題の大きさを考えると裁判が始まれば時間がかかりまくることは必然で、だとすれば最高裁での決着がつくまで彼の命が持つのかということが当然問題になってくる。田中角栄の例を見ても、本人死亡であれば裁判は未決のまま終了する。もしも結審するまで小沢一郎の命が続いたとして、そこで有罪か無罪かという結論にいったい何の意味があろうか。ほとんど意味はないと言っても過言ではなかろう。そうすれば、今回の逮捕が直接の意味を持つものというと結局は現状の政局に与えるダメージということになるし、そういう意味ではこれから起訴に持ち込んだとして、それが有罪なのか無罪なのかということよりも、この逮捕によってダメージを与えたということで、実質的な検察の目的はほぼ達成されていると言っていいのだろう。
 
 これが国策捜査だとは小沢も言っていないし、僕もそうは思っていない。だがこれは結果からすれば国策捜査が与える世論的影響とほとんど同じ結果につながっているということは否めない事実だろう。なぜこういう結果につながることが平然と行われるのか。それは、これだけ批判が高まっていながらなお続いている天下りと同じことだと思うのだ。つまり、法治国家としての日本での正義は法律だ。官僚は操作しやすい政治家たちを政権に置き、分厚い法案の中に数行忍ばせる都合のいい文章で都合のいい法律を作り、それに基づいて天下りも正当化し、批判があっても匿名性で乗り切ってしまう。巨悪って何だろうと思うとき、それは選挙で自らを曝して評価を受ける政治家ではなく、罷免されることが事実上無い官僚たちの悪巧みなのだ。そして、そこと戦おうとするものが現れると、その能力があればあるほど、別枠の問題で足をすくうことを平気で行う。
 
 だが、法律だけで対処できないことをどう変えていくのかということが野党に託されている使命なのだろうと思う。そう思うとき、民主党が今やろうとしていることはまさに革命のようなもので、江戸時代末期における薩長連合のような立場なのだろうと思う。彼らは朝廷を味方に取り入れて江戸幕府を倒していくのだが、その明治政府が、完成されて300年経ちそれなりに完成されたシステムである徳川政権のような微に入り細に入る体制をすぐに打ち出せるかというと決してそういうことはなかった。幕府崩壊以降もしばらくは新しい体制を作るまでに紆余曲折を経てきたし、西郷大久保の両氏が「墓の中まで持っていく」とした、公表できない諸問題も多々抱えていたのだろう。明治政府にも問題は沢山あったのだ。だが、だからといってそれを理由に彼らを断罪し、江戸幕府、徳川政権を維持していくことが当時の正義だったのかというと決してそうでは無い。やはり時代の流れは開国、そして新政府誕生を必要としていたのである。同じように、今も戦後政治が自民党によってもたらされ、それによって起こるいろいろな制度硬直と弊害などを考えたときに、やはり体制の交代というものは必然なのであり、その流れを止めることは許されないのだと思う。
 
 しかし明治政府だって世の流れとはいえ、何の苦もなく禅譲された訳ではない。幾多の争いを経て、犠牲者を多数出しながら、力を蓄えてきたのである。最初の細川連立政権のときにすっきりと政権移行しなかったのもその一つであり、こうして今政権交代目前といわれながらもリーダーたる小沢一郎の足元に爆弾を投げられているということもその一つなのである。もしかするとこれでまた数年政権交代が遠のく可能性だってあるけれど、そして今メディアも小沢叩きに加勢している動きが少なくないけれど、さらにはその報道に載せられている市民も決して少なくないけれど、だからといって民主党が完全悪だというような論調は行き過ぎだし、そもそもの論旨の根拠となる情報の胡散臭さを公平に見ていく冷静さを求めたいとか思うのだが、それも簡単ではないことなのだろう。
 
 なんか話がどんどん逸れていくような気がする。まとめたいが、もうすぐ外出しなければいけなかったりして、とりあえずはこの辺で終わりにしたい。なんとなくだが、僕も含めてこの国はまだまだ未成熟だったりすると思うな。