Thursday, March 05, 2009

Never let me go/カズオイシグロ


 カズオイシグロはイギリスの作家。名前からしても完全な日系であり、そもそもが長崎県出身。数年前に原書を買ったけど読むまでに至らず、本棚でホコリをかぶっていたら、奥さんが翻訳の文庫本を読んで絶賛し、急遽読むことに。日本語で。
 
 結論から言うと、面白かった。ネタバレしないように感想も控えめにすべきだが、面白かった。奥さんが絶賛したのと同じような面白さではないのかもしれないが、僕なりにも面白かった。
 
 人には役割というものがある。自分探しの旅をする若者は、自分の「役割」を探したいのだと思う。それが旅ごときで見つかるほど簡単ではないと思うが、自分というものを知るには、他者との出会いや前々別の価値観と遭遇し、その中で現在自分が当たり前と思っている価値観が絶対ではないのだということを知ることが大切であり、その意味で、旅はまんざら役に立たないものでもないだろうと思う。その中で、自分たちの役割を漠然とでもつかむことが出来たとしたらそれは幸せなことだ。だがそれは本当に幸せなことなのだろうか。役割を知るということは、逆にいうと可能性を摘んでいくということでもある。あれやこれや、将来の自分の姿を思いめぐらせることは楽しいことだ。子供の頃ならプロ野球選手に憧れただろう。だがある程度大人になればそれが夢でしかないのだということを知る。その夢を諦めていく。そういう諦めの中で、人は「自分に出来ること」を知っていくのだ。それはある意味切ないことでもあるのだが、じゃあその切ない過程を経ずして大きくなるということが幸せなことかというと、それは全くそんなことはないのである。自分は何でも出来るは、自分は何も出来ないというのとほぼ同義であって、そういう人が今とても多いということが、社会問題の中でもとても深刻なことなんだろうという気がする。
 
 話がどんどん本題と逸れていってしまうが、まあネタバレを避ける意味では仕方が無い。主人公キャシーが語る物語は幼い頃から今に至るまでの成長をつまびらかにしていくが、その背景というものが現代劇的な日常とは若干かけ離れている世界で、だからこの作品をSFと称することもある。事実この作品をベースにした映画が製作されるというニュースが流れ、キーラ・ナイトレイが主演に抜擢されたということだが、この新作映画をSF映画と紹介している。SF? たしかにこれをSFと言ってもいいのかもしれないが、それにしては宇宙人も飛行船も出てこないし、レーザー光線銃のような武器も出てこない。むしろ音楽を聴く方法がカセットテープだったりして(文庫本の表紙もカセットテープ)、レトロな雰囲気が満載だ。要するに近未来のようで、過去のようで、時代背景なんてどうでも良くて、設定がSFであろうとそうでなかろうと、書かれているのは人生そのものであり、役割というものと可能性というもの、そして選択とは名ばかりの決められた道というものへのリスペクトこそがここに描かれているのだと思った。
 
 
 今日もあるバンドがキラキラレコードにやってきて、キラキラレコードからCDを出す件について話をしたりした。CDを出すということはいろいろな意味でリスクがある。そこに突入するということは本気になるということであり、それまでのなあなあでやってきた活動とは決別するということに他ならない。当然覚悟というものが要る。しかしながら今日やってきたバンドの中で2人はそこに突入しようという気構えがあるけれど、2人はその覚悟がまだ無い。もっと自分たちでも出来ることがあるんじゃないかという思いが残っているようなのだ。ただ、口に出てくるそういった理由というものは、漠然とした恐怖が根底にある場合がほとんどで、要するに自分たちの音楽についてそこまで本気になっていくことが怖かったりするのだ。可能性を探ることが無意味だとはいわないし、探ることによってある種の絞り込み、それが諦めであったりする場合もあるが、そういう絞り込みが出来るのなら、それで自分の役割とか、道を見つけていくためのプロセスとして意味あることである。問題は、今提示されているキラキラレコードというフィールドでの可能性探しに踏み込まないとすれば、じゃあいったいどこでどういう方法で可能性を探るつもりなのか。それを考えずにキラキラレコードという方法論を却下するのであれば、それは単なる逃避になる。その逃避をした結果、自分の役割というものを永遠に知ること無く、40過ぎのオッサンになってしまうのだとすれば、バンドマンとしてこんなに哀しいことはないだろう。
 
 人生は喜びに満ちあふれているばかりではない。苦労も苦悩も伴う時間の連続だ。学生時代、同級生に「嫌な勉強をして卒業後も会社に行って働いて苦労し、そして最後に死ぬんだったら、今苦労をしないで死んでしまった方が楽じゃないかな」とか真顔で問われたことがある。それも一理だ。だが、僕はそうは思わないのだ。嫌なことも苦しいことも、それはあるだろう。だが、そんな苦労の連続の中に少しだけの楽しさや喜びというものも確実にあって、それが僕らの生きる意味であるとしても何ら不思議は無いし、実際、そういうことのために僕らは生きているのではないかと思うのだ。そういう喜びと苦しみの総和を考えたときに、多少なりともプラスになればそれで大成功なのだ。それにそもそも、僕らがこうして生まれてきたのは、肉体的精神的な痛みを超えて親が生んでくれたからなのだし、そのことを考えただけでも、自らの生を軽んじるのは許されないように感じたりするのだ。今生きていることの理由。それはスタート時点としての出自の問題と、ゴールとしての目標の問題とを併せて、いろいろと考えさせられた物語であった。