Monday, March 09, 2009

コミュニケーション

 ネットに依存をするのは、確認作業が容易になったからだ。
 
 ある人の日記に、移動して見知らぬ土地に赴任して、携帯メールの数がめっきり減ったということが書いてあった。仕事の連絡は履歴が残らないくらいの勢いだというのに。
 
 生活が、乾燥しているのだね。何が足りないのか。それは自分が存在しているということの意味だろう。それまであった人とのつながりが、街が変わることで断ち切られるような思いがする。それまでつながっていたという確信が、幻想だったのではないかという思い込み。そういう感情を持つと、これから現実につながっていく人たちとの間も、また街が変わったときには断ち切られることになるんじゃないか。それなら意味が無い。だから新しい人とのつながりなんて持つ必要が無い。持つことで悲しみが増えるなら、持たない方がいい。
 
 だが、人と仕事以外で関係を持たないで生きていけるほど、人間は強くない。日常の些細なことに接したときに自分はこう感じた、あなたはどう感じるの? こういったコミュニケーションが自分を支える。自分は正しいと思える手応えになる。ウソでもいいから自分は正しいと思いたい。日々の営みなんてそんなものにすぎないのだ。
 
 ではどうやってそういう確認をするのか。一緒に住む人がいれば、日々の生活が全て確認作業になる。数日に1度でも会える友人がいればそれでもいいだろう。だが、学校を卒業し、日々会う機会が少なくなったとき、人はどうするのか。どうすればいいのか。
 
 昔なら、手紙を書くことだ。文をしたため、切手を貼り、投函する。ちゃんと届くのだろうか。どこかにまぎれて紛失したりしないだろうか。もしかすると友は引っ越ししているかもしれない。読んでもらえないかもしれない。読んだとしても返事を書くのは大変だ。便箋を用意し、文をしたため、切手を貼り、投函する。その面倒な作業を強いて申し訳ない。だから返事が来なかったとしても恨むつもりなどない。相手はどうしているだろうか、元気でいるだろうか、こちらの便りを見て微笑んでくれただろうか。返事が来なくても、相手がニコリとしてくれさえしたらそれでいい。そんな思いで数日、数週間過ごすことで、相手とのつながりを確認する。それは単なる妄想だ。妄想であってもいいのだ。なぜならば妄想以上の確認は物理的に出来ないのだから。
 
 僕にはたくさんの友人はいない。だが、両手さえ余る程度の友人はいる。学校を卒業して、そのうちの1人は海外生活となった。今のようにネットは無い。だから当時彼とはもっぱらファックスで連絡を取ったりしていた。東京にも同級生たちは沢山いた。その同級生たちとも仲は良かった。在学中は毎日顔をあわせ、時間が合えば昼飯をともにし、くだらない話題に延々と時間を割いた。けれど、近くにいるそういった同級生たちとはほとんど連絡を取らなくなり、海外に住む一人の友人とだけ連絡を取り合った。
 
 その後携帯電話を持ち始め、インターネットも普及してくる。日々の連絡を取り合う人は増え、手軽に相手の生活に言葉を投げかけるようになる。だが、そこにそれほどの思いがこもっているかどうかはよく判らない。メールにはメールの良さがあり、手紙や電話とも違う距離感でコミュニケーションをはかれるなという気がする。車と自転車と徒歩では違うように、それぞれの利点と欠点があって、そのことを巧みに自分の生活に取り入れられればいいのだが、それが出来ないでいると、結果として不幸になるような気がするのだ。
 
 携帯電話、それと携帯メールは、コミュニケーションの敷居を決定的に下げたと思う。それまでは手紙を送っていたような用事、それ以下の重みしか無い用事でも、まるで自宅に乗り込んでドアをノックするような不躾さがある。それは結局諸刃の剣で、相手に応対を要求するのと同時に応対がない場合のこちらの覚悟を要求する。それは確認の容易さということなのだ。確認を要求するというのはどういうことかというと、こちらの気持ちを醸成すること無く、相手の気持ちだけを明確にさせるという行為に他ならない。「自分はこう思っているんですけれど、あなたはどうですか?」その答がない場合は、ひどいという結果に短絡する。しかし、「自分はこう思っている」という意見に至るには、その意見に至る背景というものが存在する。いろいろな体験をして、そう思うようになっているのであって、相手にもその背景があるのだという誤解、思い込みに基づかなければ、そういう問いを軽々に投げかけることは出来ないはずなのだ。しかし敷居が下げられたコミュニケーションツールによって、世間では日々そういう問いかけが続けられている。そしてその問いに対して明確に答えることが出来るほどの背景を持たない人々は戸惑い、無責任な答えを返すか、しばらく放置あるいは無視という態度に出ざるを得なかったりする。そして質問者にはある種の不信が生まれてしまう。その不信の根源は自分にあるということに気づかずに。
 
 「私のことが好きですか」という問いは、決して「自分はあなたのことが好きです」という前提に立ってはいない。「自分はあなたのことが好きでも嫌いでもないですが、あなたは私のことが好きですか」という問いは十分に成立する。だがその問いをする人はほとんどが「自分はあなたのことが好きなんだ」という意識に基づいてその問いを発していると思っている。だが、本当にそうなのだろうか。好きとはいったいなんなのかということが問われる訳で、手紙の時代にさかのぼれば、一往復の手紙のやり取りが双方にものすごく手間を取らせるということが一応の共通認識としてあるわけで、相手がそれをやれなくても責めたりしない。でも自分はこうして自分の近況を知らせてみようという気持ちになる。見返りを期待しない行為である。好きというのは本来そういうものであるような気がするのだが、メール時代の問いかけというのは、自分からの意思表明を欠いた、意思確認作業であるように思う。その決定的な違いの中に、僕らは知らないうちに組み込まれているように思えてならないのだ。
 
 メールにも開封通知機能があったりする。ブログを書けばアクセス解析が簡単にできる。このブログを何人の人が見てくれているのだろうか。mixiなんかだと足あとを見れば具体的に誰が見ているのかもチェックできる。そのチェックで安心をしたりする。でもそういう安心で、僕らは本当に救われるのだろうかという気がするのだ。なぜかというと、そのチェックが働かなくなったときには大いなる不安に陥れられるのだろうし、チェックによって誰も自分を見ていないということを確認してしまった場合、その時の心持ちとはどういうものだろうかと考えたとき、それは結構恐ろしいものではないかと想像してしまうからだ。いや、それは幻想なんですよ。そんなものは完全に幻想なのであって、ネット上で誰ともつながっていなかったとしてもそれは自分の存在意義がゼロだということにはならないのだし、自分の中での「つながっている」という自覚さえあれば、人は強く生きていけるのだ。たとえそれが妄想だったとしても。妄想の自己想像と、幻想の確認作業。どちらも不確かなものなのだけれど、人はネット上にあるマシン的存在感により本物らしさを感じてしまう傾向にある。それが哀しいところなのだな。
 
 日記を書いたある人に伝えたい。不安や焦燥感はあるでしょう。でもその不安の基は一体なんなのか。それは誤解とか妄想とか幻想にあるんじゃないのかと。僕なんてあなたにとって何者でもないけれど、それでもあなたのその言葉にいろいろ思いめぐらせているし、あなたにとって何者でもある近しい人々はきっともっともっと思いめぐらせているだろう。ただしその思いは言葉となってあなたのところには届かないかもしれないし、ましてや携帯に着信なんかの形で跡を残したりはしないだろう。目に見える言葉よりも大事な言葉はきっとあるのだ。そういうことに思いを馳せる想像力が、人を強くさせるように、僕は思います。