Thursday, March 12, 2009

希望との出会い

 拉致被害者家族の田口さんと金賢姫との面会が行われたというニュースはちょっと面白かった。12年ぶりに公の場に現れたという金賢姫は若いのか老いたのかよくわからない。老けているようにも見えるし、それなりに若いようにも思える。田口さんの息子に「韓国の母になります」と言ったそうだが、16歳の年の差は、母子関係というより恋愛関係の方が現実的だ。しかしほぼ同年代の日本語先生の息子なのだから、自分にとっては息子という意識なのだろうし、既に自身にも子供がいる訳で、心持ちはすでに母モードなのだろう。

 田口さんの方も記憶に無い実の母よりも、母のことを知っている年配の女性で、自分のことを見て涙ぐむ金賢姫の方が母的な存在としてはリアルなのか、長年希望していた面会が実現したことの喜びなのか、なんかすごくうれしそうだった。金賢姫が「こんなに大きくなって」と涙ぐんだ時、「(自分の)小さい頃の写真を見たことがあるんですか」と聞いて金賢姫が否定すると「じゃあ後でゆっくり」と言ったのもちょっと笑える。関わりのある人の子供の小さい頃の写真。そこに金賢姫は何の思い出もないはずだ。一般論として僕らも友人の子供の写真とかを見せられても、嫌悪感はないにしても、特段に歓喜の情はない。見せられたら拒絶は出来ないし、なんだかなあと思いながらも一通り見て、「可愛いですね」とか言ったりするだろう。金賢姫もそんな感じだったのだろうか。息子の耕一郎氏もせっかく持ってきたのだし、それ以外に何の接点を見いだせるだろうか。1歳未満の写真には母親も一緒に写っているものも多いだろうし、そこから話を広げていくしかない。1時間半の面接時間は一見長いようにも思えるが、そういう他愛もない話をしていればあっという間に過ぎる短い時間だ。面会後、会見場に再び現れた時には耕一郎氏と金賢姫は腕を組んで登場した。この仲睦まじい光景は、自然なのか演出なのか、そのどちらなのかはわからないけれども、少々過剰であっても今回の面会が成功で意義深いものであったということを示す必要があったという点では必然の光景だったようにも思う。そのくらい両者の追い込まれている現実というのは厳しいものだということなのだろう。
 
 拉致被害者の望みは被害者の無事奪還ということに尽きるだろう。そこに妥協はあり得ず、認定された被害者の他にも被害者の可能性がある人というところまでをどうカバーするのかといった問題なんかも当然あるだろうし、いい始めたらきりがないというのも実際のところだと思う。それは一種の理想であり、現実にはどこかで線を引かなければいけないというのが現実主義の実務者の意見だろう。もちろんその考えにも理はあるし、かといって一歩退くというような妥協をする線をどこに引けばいいのかという問いに答えを出せる人などいないというのも一つの理だ。でもそういうのは全てプランを実行するためのスタート前での机上の空論であり、作戦をどうするのかという時点での話だろうと思う。作戦とは、設計図でもあり同時に宣言でもある。全てのプランは計画に携わる関係者のモチベーションがあがらなければ進むはずがなく、どういうプランを示すことでモチベーションがあがるのかということが重要であって、それによってプランというものが意味するものも違ってくる。例えばこれからビルを建てようという際には綿密で現実的なプランが必要で、実際の作業もその通りに進んでいく。しかしながら試合のプランを立てる場合は、その通りに進むということではないことが多い。だとするとどれだけ選手の志気が上がるのかということが鍵になってくる訳であって、練習のプランは現実的なものが必要になってくるものの、その練習の成果としての技が身に付いていることを前提に、「行くぞー」「オーッ」みたいな、「相手を完膚なきまでに叩きのめすんだ!」というような、シュプレヒコールみたいなものがどうしても必要になってくる。しかし現実にはそんなにうまくいくばかりではないので、ちょっとだけでも「良かった」と言えるようなプレイが一つでも生まれれば拍手で喜ぶような、そんなのが実際なのだろう。もしかするとサッカーの試合で後半43分、5点差をつけられて負けは確定的であったとしても、意地のゴールを決めたりすると溜飲を下げられたりするのである。拉致問題も決して思うようには進展していないし、今回の面会がものすごくいい影響を与えられるかというとそれほどでもないとは思うが、それでも今回の進展に大きな期待とか、希望をつなぐ一筋の光に見えたのではないだろうか。僕らはとにかく希望を持って生きていきたいのであり、その希望の種が客観的に見ればたいしたものではなかったとしてもいいのだ。
 
 金賢姫のいう「お母さんは生きていますよ」という言葉に何らかの根拠があるのかというと、ない。全くない。その言葉に沸き立つことなど出来る訳もないのかもしれない。だがその根拠ない言葉は、同時に金賢姫が言った「希望を持ちなさい」という言葉と重なるような気がしたのである。希望とは、根拠などいらないのだ。要は自分が持つかどうかである。ただ、希望を持つ強い気持ちを持ち得ないのなら、じゃあ自分(金賢姫)のような存在であっても信じる根拠にしてもらえればいい。こうして「お母さんは生きていますよ」とハッキリと言う自信(のようなもの)を持っている存在を、何となく新じればいい。鰯の頭も信心からというのと同じで、信じることで気持ちが強くなれるのならば、数奇な運命を生きてきた自分の言葉や存在を信じればいいと言っているようで、なんか、そんな儚い夢のようなものを見せてもらったような気がして、実に興味深かったし、心地よかったのである。