Thursday, March 19, 2009

2人のイチローさん

 2人のイチローさんがバッシングを受けている。大リーグマリナーズに所属のイチローさんと、民主党に所属の小沢イチローさんの2人だ。
 
 書いている時点ではWBC二次予選のベスト2を賭けたキューバ戦目前。アメリカに上陸してキューバ戦と韓国戦の2試合で9打席ノーヒット。こんなイチローをいつまで使い続けるのか、原監督にイチローの特別扱いをやめろという声が多いのだそうだ。もちろん見ていて僕自身もお腹のどこかで治まらない感覚がある。イチロー何してるんだと。もっと打てよと。相手を圧倒するような、そんな結果を出してみろよと。3割200本ではなく、ここぞというところでの1本を見せてみろと、そう思う。だが、だからといって今ここでイチローを外せというのではない。やはりここでは使い続ける以外に道はないのだと思う。
 
 そもそも、イチローにはどちらかというと否定的な立場だ。偉そうにといつも思う。だが、それも彼の追い込み方なんじゃないかとも思うのだ。ビッグマウスは批判を呼ぶ。だから結果を出さなければいけないのだ。そういうプレッシャーを彼が利用してようとしていたとしても何の不思議もない。自らの道を行く。それは非常に大変なことだし、それをやっている人で、その点は偉いと思う。これまでも結果を出してきている。そういう結果を出した人はこれまでかつてなかったのだ。ただ、なんとなく好きにはなれないのだが。
 
 そういう結果を出している人に任せるというのは、洋の東西を問わず、時代を超えて普遍的なセオリーである。かつてシカゴカブスでマイケルジョーダンが活躍していた頃、彼には必ずマークがつくのだ。接戦の試合終盤であればそのマークも二重三重になる。5対5で行われるバスケという競技では、1人に2人がマークを行うということは、要するに他にノーマークの選手ができるということでもある。ジョーダンに較べると凡庸な選手かもしれないが、NBAのトップチームで競った試合の終盤にコートに立つということは、もうそれだけで並外れた才能の持ち主であることは間違いない。その選手がノーマークであれば、サッカーで言うフリーキックを得たようなものである。だから、ジョーダンにマークを集めて生まれたノーマークの選手にボールを回せば、シュートの確率も相当なものだ。しかし、ブルズは必ずジョーダンにボールを回すのだ。そして、ジョーダンは残り1秒を切ったところでシュートを決める。2人3人と彼を囲む敵チーム選手のガードをクリアして、見事にシュートを決める。なぜか。それは彼がものすごい選手で成功の確率が高いからではない。彼以外に回して失敗したら非難轟々だが、もしもジョーダンで失敗したとしても、誰からも文句は出ないからである。
 
 イチローはというと、彼はまだジョーダンほどの神がかった存在ではないということかもしれない。そもそもホームランバッターではないし、逆に彼だけが打ったところで、所属のマリナーズはもう何年も優勝から遠ざかっているのである。全ての責任をイチローに押し付けるのは酷というものだし、そもそも昨日の韓国戦は、初回に浮き足立ったダルビッシュの責任も大きいのだ。まあ22歳の投手に全責任を負わせるわけにもいかないだろうし、1点しか取れなかった打線全体の責任もあるわけで、じゃあ誰がということになると、結局名誉も責任もともにリーダーにあると言うことになってしまうのだろう。
 
 とはいえ、イチローにすべてをなすり付けるのはどうかと思う。今イチローを外せと言っている人は、きっとイチローが引退をするような時が来たら、絶賛と賞賛を惜しみなく与えるのだろう。僕はそういうのをあまり快く思わないし、だから、成功した時も過度に褒めそやすことなく、今回のように苦しんでいる時も敢えて非難の声を挙げたいとは思わない。ましてやまだ可能性が残っている時点なのだ。今日の試合でどうなるかはまだ判らない。このチームはあるいみイチローを中心にまとまっているチームであるし、こういう力のある選手たちをまとめるにはある種のカリスマ力が必要なのだ。それがかつては長嶋茂雄だったし、前回のWBCは王貞治だったし、そして今回のチームでは、原監督ではなくイチローだということはおおよそ認められた認識だろう。そのためにも彼は頑張ってきているし、その功績も大きいのだ。そんなイチローと心中するくらいの覚悟なくして、日本チームを応援する資格などあるかと言いたい。野球の人気がなくなったと言われ、日々の野球中継を見たりしない人が、話題だからといってWBCを見て、盛り上がって騒いで、そして不振のイチローをバッシングするのだと思う。そういう姿をウザイと思う僕は、今日のWBCの試合に期待をしつつ、もしもイチローの不振が続いて負けたとしても、それも彼の歴史の一つだろうし、日本野球の歴史の一つなのだと思う。
 
 
 もう一人のイチローさん、小沢一郎のコメントが面白い。企業献金を全面禁止したらいいと発言したのだが、それに対してものすごい動揺が与野党問わず起こっているという。そしてマスコミもこの発言をどう評価するのかに戸惑っているような報道をする。毎日新聞では「半ば"人ごと"のように語った」などと報じている。
 
 だが、小沢一郎としては自分主体で語る必要などないのだ。彼の視点は「企業献金の功罪はともかくとして、現在のルールに従ってやっていることであり、そのルールをどうするかという問題は、小沢一郎の都合がどうかということとは全く関係がない。メディアも与党も「現在のルールがどうか」ではなく、「企業献金を受け取ろうとしたのが悪いのだ」という論理にすり替えて発言を繰り返しているわけで、それに対して「企業献金が悪いというのなら、全面的に禁止すればいい。みんながそれでいいというのならそれでいい」と言っているだけだ。つまり今回の問題を「ルール違反なのかどうか」という出発点から外れて、「企業が献金をするのは利益誘導したいがためであり、それを受け取る政治家は必ず汚職をしているのだ。だから悪いのであり、責任を取れ」とでも言っているかのような世論誘導があって、それに対して「それが悪いというのなら、企業献金を全面的に禁止すればいい」と言っているだけのことである。別に人ごとで責任逃れでもなんでもなく、ルールが同じところで戦うだけだといっているのである。
 
 どんなことも、ルールというのは公平でなければならない。もちろんあるルールによって有利不利が発生するだろう。例えばスキーのジャンプ競技で、その人の身長によって履ける板の長さが変わってくるというルールがあるが、それによって日本人ジャンパーは不利を被ったと言われている。でも、それでもそのルールは公平なのだ。だったらそのルールで勝負するだけで、そのルールに従った戦略を立てていくのはどんな参加者も同じ条件なのだ。
 
 大学受験などで、国公立では比較的記述問題が多く、私立では選択問題が多いとか言われる。科目数も全然違ったりするし、もちろん個々の大学で傾向や特徴は違っていて、受験生はそれぞれの志望校に応じた対策を講じることになる。記述力がある人と選択問題に長けている人のどちらが頭がいいのかというのは別の問題で、それぞれの大学が全ての受験生に対して同じ問題を課し、その中での判断で合否を決めるという公平さが大事なのである。小沢一郎の発言は、その公平さを言っているだけであって、それを人ごとだと非難するというのは、明らかにいくつかの論点を混同して、混乱した中でとりあえず非難をしているだけだということになるわけだが、しかしそういう混乱した無価値な論旨であっても、大メディアの中で報道され、その論旨に沿った見出しが躍るということが、日本の世論をミスリードしてしまうということはとても問題だなという思いがしてならないのである。
 
 この「企業献金全面禁止」という発言に対して、純粋に評価しているのは社民党くらいのものであり、自民はなんか人それぞれのいい方だが、総論として批判。国民新党は「企業献金を禁止してしまうと大金持ちか、宗教団体、労組出身の政治家しか活動できなくなる」として否定的な見解を示しているし、麻生首相は「企業献金の正当性に関しては、最高裁判決も出ていると記憶している。民主主義を実行していくコストとして、ずっとやってきた長い歴史の結果、今のものがある」と言っているのだし、だとすれば企業献金そのものは悪でも違法でもないという立場のはずなのだが、その首相をして「明らかに違法だから逮捕された」とか言っているし、そういう情緒的で無原則的な発言の方が「人ごと」なのではないかとか思うのだが、どうしてもそうはならず、記事を書く人のそもそもの結論に向かって、発言などの事実を利用した恣意的な記事や表現が反乱してバッシングが行われているのを見ると、人は感情だけで動く動物なのだなあと思ってしまうし、そういう感情先行の世論というものに拘泥することの意味がなんかあるのかという、達観するしかないような気持ちに追いやられていくのを感じてしまうのである。
 
 
 要するに、バッシングにはあまり意味がないし、している側にその瞬間のパッションはあるものの、継続的にし続けるような堅牢さはないのだと思う。しかしその瞬間の風圧はものすごいものがある訳で、それに一喜一憂する人も多いのだろうが、そんなことをしていては何事も進まないし、だから彼らにはそれぞれの立場で頑張って欲しいし、世論なんて気にせずに淡々と活動してもらいたいものだと思う。いや、彼らにとってはこういう意見さえも余計なお世話かもしれないけれども。