Thursday, March 19, 2009

『きいろいゾウ』by西 加奈子


 田舎に住むある夫婦の物語。都会に住む自分にとっては遠いようでとても近い、人間の内面について描かれた現代のファンタジーだと感じられた。
 
 先日ズームインスーパーで辛坊治郎さんがニュース解説をしていたのだが、最近政府紙幣なるものを検討しようとしている議員さんがいるという。だがこれには大いに問題があると彼は指摘。なぜなら、一時的には潤っていいのかもしれないが、それによって起こるのは貨幣というものへの信頼の失墜であり、ハイーパーインフレを起こすのは必然だという。戦後まともな国家では一度も行われていないことであり、なぜならそんなことを実施すると歯止めがかからなくなり、結局は国民が持っている全ての金融資産を紙切れにしてしまう可能性があるという。彼の結論は、政府紙幣等、考えるだけで有害だというもの。これが前の財務大臣である伊吹文明氏の言葉を引用したものだというからちょっと意外だったが、至極まともな考え方だと思う。
 
 で、なぜそんなことを書いたのかというと、今回読んだきいろいゾウでは、しあわせのあり方について作者の一つの考え方が書いてあったからだ。具体的なことはぜひ読んでもらいたいところだが、僕はそれをLoveという言葉、愛という言葉の重みということなのかなと感じたのである。昨今はその言葉はとても軽い。愛とか、好きとか、言葉にするのは簡単だ。別にお金がかかる訳でもないのだし、だったらどんどん言おうという圧力はいろいろなところから起こってくる。恋人から言葉による確認を求められることもあるだろうし、世の中にはバレンタイン等の社会風習が蔓延し、義理チョコも一つの礼儀みたいになってきて、それで別に好きでもない人にもチョコが配られたりする。そんなことだから、本命チョコだってその価値は薄まる。本当に好きとは、本当に愛しているとはいったいなんなのか、ただ言葉で愛していると言えばそれは成立するのか、言われれば安心していていいのか。逆に、言わないと愛していることにはならないのか。
 
 言葉の愛情表現はいくらでもできる。そして現実にどんどん行われている。しかし実はそれが愛するという言葉への麻痺を起こし、価値を毀損し、今度は言葉以外での愛情の確認を必要とする状況を欲するようになるだろう。でもそれは愛なのか? 確認するのは何のためなのか? それは自分が愛されているということの確認なのか、それとも、言葉を発するものが、自分は相手を愛しているということの確認なのか? そもそも確認しなければ不安であるという状態は、愛というべきなのか?
 
 もちろん、そんなこと(何が愛なのかということを規定するという作業)を確認する必要なんかないし、普通に読んで面白い作品だ。奥さんの視点での日常と夫の視点での日常が並列して記されることで、心の微妙なすれ違いを表現している。すれ違いというのはどんな場合にももちろんあって、同じ空間に居たとしても眼の位置が違えば視点は変わるし、見えるものも違う。自分が気持ちの中で考えていることと別人格が思い描く心象風景も違って当然だ。一方にとって何の意味もない事柄をもう一方が殊更に重要視していることもある。そんなことが見えて面白い。そのすれ違いは、ある時は思いやりであり、ある時はすきま風だ。僕らは実際の自分の生活の中で毎日起こるそういうすれ違いを、思いやりとすきま風のどちらに押しやってしまうのかは、結局は自分の心次第だということに気づく。この物語でも、当初は思いやりの交換で実に幸せな空間と時間が展開される。これは日々のコラムかエッセイかと思うし、このまま何事も起こらずに終わるかもしれない、終わったとしてもまあいいか、心地よい読書時間を過ごせたからなあと納得しそうになるが、やはりそこは小説だ。物語は途中から大きく展開する。その変化のダイナミズムは意外でもあるし、そこへ至るなだらかな状況の変化は、作者の力量を感じさせる。一部ちょっと強引かなと思うところもあるし、その強引さを生み出した設定が本当はどうだったのかという点については結局明らかにされないままに終わってしまうのだが、まあそういうところも許せるかなと思う。それだけ、描かれているお話と、その奥にあるテーマ性が、今の自分にとっては身近に感じられ、読後の清涼感と、もう少しこのまま読み続けていたいという余韻を残してくれただけで、出会えてよかったと思えたのである。
 
 出会いはブックオフ。100円コーナーに普通に置いてあった。とてもお買い得。普通の書店で買ったとしても惜しくない1冊。