Tuesday, May 05, 2009

伝わる言葉


 言葉をたくさん並べるのは良い。だがそれが心を隠すことにつながったり、心があったかのように振る舞うための免罪符になったりするのでは意味がない。というか逆効果でしかない。時間を埋めるための言葉、スペースを埋めるための言葉。見栄えは良いが、無駄である。そんなものに付き合わされるのは勘弁だなと思うけれども、しかしながら、情報の洪水というのはそういうものであり、その中から意味のある言葉を探すことはもう途方もない重労働のような気がする。

 忌野清志郎の死に際してのニュースについてmixi上で書かれていた日記はあっという間に1万を超えた。ニュースに関連しない日記にしてもとても多かった。周囲にはミュージシャンたちが沢山いるが、彼らの日記にもお悔やみの言葉が並べられていた。悲しいと、残念だと、心の叫びがたくさん連なっていた。

 だが、どれもこれもクソだと思う。そんなに衝撃か。そんなに悲劇か。レコード店には清志郎コーナーが作られるだろう。連休初日の死だったから、どのくらいのお店でコーナーは出来ているのだろう。金曜日の午前中に発注がかけられて、なおかつ在庫が倉庫にあれば、土曜日にはお店に着く。しかし土曜日の未明に亡くなった清志郎の商品を発注できるのは早くても7日の午前中。お店に着くのは8日。それからのコーナー作りでどれだけの意味があるのだろう。お別れの会が9日に開催されるというから10日のワイドショーまでは話題になるだろう。だからギリギリ間に合うかもしれない。一部のお店では既存の在庫だけでコーナー展開も出来るだろうが、ほとんどのお店ではスカスカなコーナーしか作れないだろう。

 悼んだとしても、せいぜいその程度の関心でしかないと思うのだ。RCのCDとかLPを持ってもいないやつらになんの悼みだ。もちろん、もう20年くらい彼の活動を注視していない僕の悼みだってその程度だ。僕の日記だって同じようにクソだ。意味がない。

 それでも書かずにはいられないのだね。たとえそれが免罪符だと中傷されたとしても。出来ることならクソ情報の洪水の中に埋没して、誰の目にも触れることなく漂流して欲しいと思った。