Thursday, July 09, 2009

言葉の真相

 ニュースステーション時代からの習慣で、今も毎日報道ステーションを見ている。オンタイムに見られない時はビデオで見たりもしている。ある意味習慣だ。報道ステーションになってからは古館さんのキャスターぶりを見ているわけだが、古館さんといえばやはりプロレスアナだし、F!中継が強く印象に残っている。彼の真骨頂は、フレーズの切り方であり、印象的な言葉をどうやって捻り出すかというところにある。その言葉には中身がなくても構わないのだ。だがニュースではどうしても内容をまとめるような役割が求められ、ニュースの終わりに感情移入をしたような一言二言を述べるのだが、うちでは「なんか古館さんの言葉には中身がないよね」という会話が繰り返される。なんか情緒的な言葉を並べることで終わっている。そもそも古館さんというのはそういう部分で伸びてきた人なのだし、それを変えようとしなくてもいいと思うけれども。

 で、昨日マイケルの葬儀(?)のニュースの後に毎日新聞に載っていたコラムを引用して話をまとめようとした。そのコラムで紹介されていたエピソードでは、行われる予定だったイギリスでのライブにドクターを同行させて欲しいというマイケルの主張があり、その理由としてマイケルは「僕はマシーンなんだ、だからオイルを差してもらわないと踊れない」といったらしい。その言葉をとらえて古館さんが「なんか、うーんと思いましたね」的なことを話したのである。だが、その話を見て決定的な違和感を感じたのだ。なぜなら、僕も偶然にそのコラムを読んでいて、そのコラム自体をクソだと思っていたからである。

 何故僕がそう思ったのかというと、そのコラムではマイケルは既に過去の人だと断じられていた。今回の死亡についてミュージシャンたちにコメントを求めたのだけれどほとんど断られて、執拗に断る理由を聞いてみたところ、「だってマイケルに影響は受けていないから」と言われたのだという。確かにマイケルの全盛は80年代後半だ。ジャクソン5の時代を含めても70年代から80年代にかけての時代であり、90年代に入ってからは主立った活動をしているわけではない。人生後半はスキャンダルにまみれたといっても過言ではないだろう。つまり、20代の人たちに取ってはマイケルとは過去の人であり、彼の影響など受けていないというのが、筆者の論拠であった。

 だが、そうなのか? 僕は40代半ばで、彼のライブも生で4回も観た。その衝撃は大きくて、だからもちろん20代の人たちが僕と同じ印象を持っているとか言ったら、それは違うだろうとか思う。だが、だからといってミュージシャンがマイケルの影響を受けていないなんてことはないし、もしもそういうことを本当に口にしたのであれば、それはあまりにも無知すぎるとしか言いようがない。つまり、コラム筆者の論拠なんてクズミュージシャンの戯言に基づいているに過ぎず、そんなコラムに「感じた」なんて言っている古館さんは一体何を読んだんだろうかと首を傾げずにいられないのである。

 では、なぜ20代のミュージシャンが影響を受けていないとはいえないのだろうか。それは彼が20世紀最大級のポップアイコンであり、彼の音楽の決定的な部分はミュージックビデオの革命というところにあったということである。彼が大きな注目を受けたのはムーンウォークだし、スリラーのビデオだった。今のようにYouTubeですぐに見たい映像を見られる時代ではない当時、その映像を見るのは決して簡単ではなかった。しかし、当時の若者は見た。それ以降PV番組が盛んに作られ、 PVそのものも盛んに作られた。それ以前にもPVはあった。だがそれは今でも演歌歌手のビデオによくあるような、スタジオで単一トーンの照明をバックに撮影された一発撮りのようなものが多くて、マイケルのスリラーのようなビデオは正直衝撃だった。その後彼が主立った音楽活動をしなかったからといって、それで忘れ去られるようなものなんかではない。例えばビートルズなども活動は実際に60年代で終わっている。しかし、今もって若いミュージシャンはビートルズに影響を受けまくっている。音楽的な部分で言えば、ビートルズとはまったく違う音楽をやっているバンドたちもいるだろう。しかし、ビートルズがそれまでの音楽シーンというものを根本的に変え、リスナーと音楽との関係を変えたという事実があり、ジャンル的に違った音楽をやっているミュージシャンであっても、ビートルズと無関係というのはあまりにも表面的だと言わざるを得ない。同じように、マイケルも音楽とリスナーとの関係を大きく変えた希有な存在である。マイケルの音楽を聴いたことがない(考えにくいが)ような人がいたとしても、彼がミュージシャンであるのなら、その影響を完全に排除するなどは所詮不可能なことである。

 だから、マイケルの後年の人生がたとえ華々しい音楽活動と離れていたとしても、それで彼の人生そのものを卑下したりすることは間違っているし、同じように今になって娘の一言で彼の人生に対する見方が変わったりすることも間違っていると思う。音楽を多少なりとも志した人間にとって、一瞬であってもその影響が世界に及ぶということはそれだけで他のものに代え難い幸福であり、そのために人生の他の部分を犠牲にしても構わないと思えるほどの奇跡である。いや、もちろん人生を通して成功の連続の方がいいのだろうが、しかし、それを実現させるためには自分の信じる音楽そのものを裏切る必要があったりもするし、だったら、その一瞬のためにすべてを捧げようというミュージシャンこそ本物であるし、そういう本物を本物として評価するようなことが、少なくとも音楽に関わって生きている人間ならば、取るべき態度だし姿勢だと思うのである。そのことを考えても、コラムの筆者は本物の音楽関係者などではなく、所詮音楽ビジネス関係者に過ぎないのだなあと思ったのである。