Monday, July 20, 2009

「それは増税か」という人の政治観

 税とは何か。それは富の再配分である。

 富の再配分というとなにか奪ったり奪われたりするような印象があるが、僕はこう思うのだ。例えば会社に入るとどこかの部署に配属される。営業部に行く人もいるだろうし、総務部に行く人もいるだろう。営業部の人はお金を稼ぐのが仕事である。しかし総務部の人はお金を稼がない。企業というのは利益の追求が大命題であるから、営業の人がその命運を左右する。営業成績(売り上げ)が悪ければ会社は傾くし、営業成績が伸びれば会社は躍進する。成績がいい営業マンは言うだろう。「誰がこの会社に貢献しているんだ。成績がいいオレの給料を上げてくれ」と。だがこの論法に乗ってしまうと、お金を稼がない総務部の人には給料など要らぬということになってしまう。だが、総務の人がいろいろなことを仕切ってくれるから営業マンは営業にだけ打ち込むことが出来るのである。開発や製造の人たちがいるから売るべき商品があるのだし、宣伝の人が効果的な宣伝をすることでその商品の魅力が高まるのである。決して営業の人だけの努力で会社が動いているのではない。だから、営業マンの稼いだお金が一旦会社の金庫に入り、それを各社員に配分するということになる。

 税というのはそれの国家版の再配分なのだ。稼いだお金を全国民が安寧に暮らせるように再配分する。それは個々への直接的な配分もあるだろうし、社会基盤のインフラを整備するということもあるだろう。稼いでくれる者(個人法人)へは徴収するだけではなく、さらに稼げるような手助けもしていいだろう。ただ単に稼げない人へ哀れみを施すのではなく、自立して稼げるようになるために教育もするだろうし、まあいろいろだ。その配分の仕方によって、国は良くもなるし悪くもなる。そこには政治や官の国家観や哲学というものが如実に現れるのだと、僕は思うのである。

 日曜日のテレビを見ていて、自公の幹事長が民主党の子育て手当政策に対して 「(配偶者がいて)子どもがいない世帯は、増税になるんじゃないですか」と激しく詰め寄った。これに対して民主の幹事長は「それはそうです」と答えた。自公はしてやったりという顔をして「詰めが甘いんですよ、詰めが」と畳みかけた。

 だが、この討論を見てすごく虚しい気分に僕はなる。なぜなら、それこそ当事者たちの国家観が出ているなと思うからである。

 自公の攻撃のポイントは「子育て手当によって増税の家庭が出る→ほら、民主党の政策は増税ですよ」というものだろう。それによって民主党が増税を意図しているというように印象付けたい考えがにじみ出ている。というより前面に現れている。だが、それではどういう政策ならばいいのだろうか。子供のいる家庭には手当を上げて、子供のいない家庭の税制は現行通りというものか、あるいは子育て手当などやらずに現行通りかのどちらかであろう。もちろんその手当というものをどう呼ぶのか、幾らにするのかは細かい話で、その可能性をすべてここで挙げることなど不可能だ。簡略に説明すると、A(子供家庭への配分)、B(子供のいない家庭への配分)として、
(1)「Aを増やす、Bを増やす」、
(2)「Aを増やす、Bをそのまま」、
(3)「Aを増やす、Bを減らす」、
(4)「Aをそのまま、Bを増やす」、
(5)「Aをそのまま、Bをそのまま」、
(6)「Aをそのまま、Bを減らす」、
(7)「Aを減らす、Bを増やす」、
(8)「Aを減らす、Bをそのまま」、
(9)「Aを減らす、Bを減らす」、
の9通りしかない。
自公の説明によると、民主の政策は(3)にあたるのだろう。Bが増税にあたるんじゃないかということで攻撃しているわけだから、(3)(6)(9)は有り得ないことになる。では、その他の6つの中ではどうなのか。同じように誰かの配分を減らすことは良くないことになるのだとすれば、(7)(8)もダメだということになる。では、「どちらかがそのままでどちらかが配分増える」という(2)(4)と「どちらも配分増える」の(1)ではどうだろうか。これなら自公の攻撃にも曝されないということになるが、ではその配分増はどこから来るのか。しきりに「民主の政策は財源が不明確」というのが自公の主張だが、配分増にはどこかからの徴収が必要になる。それは結局同時代のどこかから徴収するか、どこかを削るか、未来の世代から借りてくるかしか有り得ない。それがいいのかということになる。結局、自公の主張というのは(5)の両方そのままということになる(だから現状そうなっている)はずで、それが良いのかどうかということが政策の上で問われるのだ。単なるばらまき政策だと、批判される。実際にそれには策といえるほどの哲学も国家観もない。だから麻生さんの経済政策は評価されていないのだ。

 民主党の政策が自公のいうように、子供がいる世帯には配分増で、子供がいない世帯には配分減だとすれば、それはひとつの哲学だといえる。少子高齢化という現状があり、それを変えたいという考えがある。子供がいる方が得だと思うのであればそういう流れになるだろう。しかし将来の不安が増大すれば、子育て手当があったとしてもなおその程度の金額では子供を増やそうという流れにはつながらないかもしれない。僕は個人的には子育て手当が月額26000円というのは安すぎるし、それにあわせて高校までの教育費を無料化するとか、さらに優秀な教師が公立に行くような制度を予算面も含めて手当てする必要があると思っているが、そこまで一気に行くことはなくとも、現在の状況を変えるという意味では、民主の子育て手当には意味があるし、その財源が子供のいない世帯の配分減によってまかなわれる(当然そんなに単純な話ではないが)のだとしたら、それは国家観に基づく哲学といえるものであり、単なるばらまきとは違うということになるといえる。有権者はそういう哲学の違いを吟味した上で、「いや、子育て手当を実施すると日本は悪くなる」と思えば自公に入れればいいし、「いや、それで日本は良くなる」と思えば民主に入れればいいのだ。争点はそれだけではなくて他にもいろいろな問題がある。自衛隊に属する人とシングルマザーとではどの争点に重要性を感じるのかが違って当然だし、それぞれの人がそれぞれの価値観に基づいてもっとも重要な争点を決めて、その争点でもっとも国の将来に資する政策を掲げている政党を応援すればいいのだ。応援の程度も、一緒にボランティアになって手伝うレベルもあるし、一票を投じるだけというのもあるだろう。いずれにしても、いろいろな争点でいろいろな価値観で、自らの一票を行使していくのが大切なのだろう。

 話は逸れたが、民主の子育て手当に「増税もあるんじゃないか」と激しく詰め寄る姿には正直呆れた。それは国民は哲学に寄る選択をするのではなく、甘い言葉や甘い政策に流れ、厳しいことを言われると萎縮して嫌悪すると本当に思っているように見えたからだ。今の制度がすべて正しいという観点に立てば今よりも負担増になることすべてが不利で悪ということになるのかもしれないが、実はそうではない。政権が変わるということ、政策が変わるということは、単に現在の制度と新しい制度の比較ということに過ぎず、「自公の政策に較べて、民主は子供がいない世帯には増税」ということを主張する裏には、「民主の政策に較べて、自公は子供がいる世帯には増税」ということに他ならない。その選択をどうするかを言えばいいのに、自分たちのやっていることを基準にして「変化は恐いだろう」というのは、93年の選挙とまったく同じことでしかない。

 もちろん民主が完璧だということではない。まだまだ突っ込まれるべきポイントは沢山ある。だが、突っ込むべきところはもっと別のところであるべきだと思うし、突っ込み方というものもある。だが、自公の現在の突っ込みというのは、政策選択の背景にあるべきものについての認識が「比較選択」ではなくて「危機感拡大と恐怖」であるという本音をのぞかせてしまっているという点で、やはりマズいし、哀れにさえ思わざるを得ないのである。