Monday, April 26, 2010

生き様模様眺め

 袋小路に入るというのはこういうことだ。生きるということは往々にして大きな希望に包まれたところから始まり、その希望が次々と潰されながら時を過ごすものである。最後にはそのすべての希望がなくなって、その現実に直面して、絶望に包まれたところで終わり。それですべてが終わりになるのだ。

 つい昨日訃報が届く。もう27年も会っていない高校時代の同級生で、特に仲が良かったというわけでもなんでもない。在学中にだってそんなに多くの言葉を交わしてもいなかったし、だから、その訃報を特段に残念に思うということもない。だが、45歳の同級生が3年もの闘病生活の末に逝ってしまったというのは、距離感の多寡に関わらず何をか考えさせられずにはいられなかった。

 その中で感じたのは、人生ってなんだろうということである。僕は日常的にミュージシャンたちと関わって生きていて、彼らはとても高い壁に挑んで過ごしている。音楽で成功するというのは一体なんなんだろう。メジャーデビューをすることか。それとも100万枚のセールスを叩き出すことか。もちろんそれも一つの成功の形だとは思う。だが、それは一つのピークであって、ゴールではない。死ぬ間際にそのピークを迎えて早生するのであればある意味美しいともいえる。だが、実際には若いある一時期に絶大な人気を得て、成功と言われるようなセールスを叩き出し、あとはある意味下降線を辿っていく。どんなスターでもそれはなかなか避けられない現実だ。

 下降線を辿る時、ある一線を超えるとビジネスとして成立しないという状況になってしまう。他での収入を探さざるを得なくなる。その時に、ミュージシャンは「プロ」という立場やプライドとどう折り合いをつけていくのかが、きっと問われると思うのだ。それは人生そのものであって、ことはミュージシャンに限った話ではないだろう。僕らは複雑な問題をいろいろと抱えながら生きていて、その問題の中で時に喜び、時に泣く。問題と状況は複雑に絡み合うために単純には判断しにくいが、ミュージシャンの生き様というのは、そういった問題をシンプルな形で見せてくれているともいえる。それゆえに、この仕事は面白くもあり、切なくもある。

 音楽を表現するというのは、ある特定の人種にとって生き甲斐そのものである。僕が接する「ミュージシャン」にもいろいろとあって、それを生き甲斐と思い込んでいるだけの似非ミュージシャンも少なくないが、稀に真のミュージシャンも存在する。だがそれは必ずしもセールスと直結しないのが難しいところだ。世間的にはセールス無きところに評価など無い。だが、セールスを超えたところのミュージシャンというのも現実にいる。それは僕や僅かな「ファン」たちとミュージシャンとの間にしか存在しない評価ではあるものの、そういう真のミュージシャンが、生き様として音楽との関係性をどう成立させようとしているのかということが、僕にはとても貴重な体験だなあと思えて仕方ないのである。

 かつてメジャーだった人のライブを来月見に行くことになった。その人も音楽とプライドと不器用との狭間でもがきながら今に至っているのだと、伝聞だけで勝手に感じている。何事も思うようにばかりはいかないのが人生で、だから普通は諦めたり止めてしまったりする。だが不器用であるが故にそれでもそこにしがみつくしか出来なくて、今に至っているのかもしれない。だがそれでいいのだと、僕はこれまた勝手に思うのだ。そんな不器用で、セールス的に落ち込んだかつてのメジャーを今でも忘れ去ることが出来ない幾ばくかのファンたちの前に立ち、何らかのコミュニケーションを結ぶことができるのであれば、それはそれで十分に幸せなことである。その十分な幸せに包まれていられるのであれば、それはそれでいいのかもしれない。もちろん、それを逃げ道として最初から努力をしようとしないのは論外なのだが、いろいろなトライをして、最後に見つけた空間がそういうものであるのなら、それがひとつの目指すべき場所であるような、そんな気がしたりもするのである。