Friday, May 07, 2010

才能のゆくえ

 一昨日、天空快のライブに行く。



 天空快はキラキラレコードからリリースをしているアーチストである。2004年の3月にファーストアルバムをリリースしているからもう6年が経過している。初めてオムニバスアルバムに曲を収録したのが2003年の6月だから、初めて出会った時からすればもう7年以上の付き合いになる。初めて出会った時、彼は天才だと思った。それ以来、かなりの思い入れを持って仕事をしてきた。公には出来ないやり取りも少なからずある。そして今、天空快は岐路に立っている。

 もう4年ほど一緒にやっているドラマーのアマノ君が、この日のライブを最後に脱退するのだ。正確には脱退ではない。しかし当分はライブをやることを考え直すという。8月8日に天空快としてはライブを予定しているが、そこにアマノ君がいる可能性は極めて少ない。

 僕もキラキラレコードと天空快との関係をどうすべきかという問題を抱えている。このところ動員は増えないし、CDセールスも芳しくはない。天空快の藤原くんもそういう流れの中、どう頑張っていいのかを決めきれずにいる。いや、音楽が好きな点は変わらないし、新曲も止まることなく生まれている。だが、それを世に出すすべを失っている。キラキラレコードでは2008年の12月のマキシシングルリリースを最後にリリースが行われていない。先日のミーティングで、僕としてはまだ前向きにリリースを続けていこうという提案をしているが、そこにはどうしても予算とかの問題がつきまとうし、アマノ君の脱退などもあり、どうなることやら結論はまだ先になりそうである。

 ビジネスを考えれば、もういい加減に整理をした方が良いのかもしれない。だが、そう簡単に割り切れないのが面白くも切なくもあるところだ。なぜなら、僕はまだ彼の天才性を信じて疑っていないからである。良いものが売れるとは限らない。実際にそんなことは数多く経験してきた。だが、それでも良いものを売りたいと思うから、こんな仕事を20年も続けてきているのだ。

 どんなアーチストにも旬というものがある。作る作品のすべてが素晴らしいということはそうそうある訳ではない。スポーツ選手だって世界記録を出せるコンディションとチャンスが同時に訪れるのは稀だし、その機会をピークとしたら、あとのチャレンジはすべて2番手3番手である。ミュージシャンだってそうだ。素晴らしい作品を1度でも生み出すことができたら、残りの作品はその最高作品へのオマージュでしかない。常に新作が最高であってほしい。だが、現実は必ずしもそううまくいく訳ではない。そのオマージュも一定以上のクオリティを保っていれば別だが、往々にしてギャップの大きさに、作り手は苛まれるのである。

 趣味で続ければ? そんな悪魔のささやきも聞こえてくるだろう。趣味は楽だ。だが趣味での活動は所詮趣味でしかない。プロスポーツ選手が引退するとすぐに太るし、トレーニングを続けない身体では全盛時のパフォーマンスなどとても望めないのと同じように、精神が休みに入ったら、持てる才能だって錆び付いてしまう。アートは適当な偶然の産物ではなく、精神を絞って削ってナンボの、過酷な創作活動なのだ。趣味などで続けられるともし本当に思うのだとしたらとんでもない勘違いだし、そんな作品を評価するのは身内か信者以外にはありえない。

 しかし現実には生活があるし、家族があるし、全精力を注げるのにも限りはある。そんな中でどのくらいのことを天空快に強いることが、僕に許されるベストなのか、正直言って測りかねているのが実際のところなのだ。

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 最近、僕はPriscilla Ahnを熱心に聴いている。
 


 彼女のことは2006年のインディー盤で知った。5曲入りの紙ジャケCDは鮮烈な印象で、もう何度聴いたかしれない。そして先日偶然に彼女の近況を知る機会があり、amazonで新作を購入したのである。2008年のアルバムと、2009年にフジロックへ出演した際に日本だけでリリースしたミニアルバムの2枚。いい。確かにいい。でも、2006年のインパクトは既にそこにはない。

 なにがそう感じさせるのかというと、インディー盤に含まれた5曲のうち、3曲が使い回されていることだ。しかも代表曲の『DREAM』などは、バージョンこそ違えども3枚すべてに収録されてしまっている。ベスト盤じゃないのだから、そういう扱いはやめてくれよという、ある種の失望感があったのだ。もちろん、いい曲を聴かせたいという想いは判らなくもない。それを聴きたいという人を裏切らないようにするための措置なのかもしれない。だがそれは、裏を返せばその曲を超える新曲を作れていないということに他ならないのだ。

 だから過去の名作にしがみつく。手っ取り早いが、それは麻薬だ。一度手を出すと、それでいいのだと思うようになるし、それを超えることは出来ないんだという諦めの心が無意識のうちに芽生えてしまう。過去の作品は過去の作品、自分には今の作品があるんだというような、そんな気持ちでなければ超える作品は生まれない。もちろん、2008年2009年のCDにも新曲は入っている。それらも悪くはない。だから熱心に聴いているのだ。でも新曲を旧曲が超えていないのだということを、本人やスタッフから宣言されたようで、なにか心の奥でしっくりと来ないのである。

 彼女にとってのピークとは何なのか。それはインディー盤で見せた輝きのことだったのか。そういうことは実は良くある。インディーズでヒットを出すからビジネス規模が大きくなり、多くの人に聴いてもらえるチャンスが生まれるのである。ということは、その時期に最高楽曲を出してしまっていたとしても不思議ではない。それを恐れて最高楽曲(があればだが)を出し惜しみしていたら、インディーズでのヒットもなくてチャンスもつかめないかもしれないのだから、もどかしいばかりだ。だが、それを軽々と乗り越えて、次々と最高楽曲を更新していくようでなければ、成功の資格は無いということなのかもしれない。



 才能が結実するというのは、とても難しいことである。それはもちろん、才能というものがそもそもDNAのようにあらかじめ決まった未来を約束しているものなのか、それとも努力の過程で偶然の運をつかみ取る、そんなご褒美のようなものなのかは、いまだに僕には判らないことなのであるが。