Monday, May 10, 2010

テレビの識見

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 谷亮子が民主党から出馬へというニュースが流れた。まあこれについてはいろいろな意見があるだろう。谷さんに議員としての仕事ができるのかということ、しかもロンドンオリンピックを目指しながらという中で。その疑問は当然だろう。でもきっと選挙戦で、全国の応援とかで飛び回ったら、ものすごく演説は盛上がるだろうし、ニュースバリューはあるだろう。いろいろな意味でのプラスマイナスはあって、それをすべて勘案して公認をするのだろうし、有権者もそんなプラスマイナス、さらには他の要素も含めて総合的に判断するのだろう。それでいいし、その結果がどうなろうと、それが現在の日本の意思ということになる。それを議員も政党も落選者も、そして国民自身も心から受け止めなければならないのだと思う。

 だが、きっとマスコミだけは自らの立場など勘案せずに、とにかくいろいろなことを言うのだろう。さっきのニュースでもあるコメンテーターが「谷さんの出馬のニュースを聞いて、やるせない気持ちになった。谷さんがどうだということを言うつもりはないが、谷さんは今喫緊の課題となっている普天間のことについてちゃんと勉強されているのだろうか、もっと識見の高い候補者はいなかったのだろうか」などと言っていた。

 チャンチャラおかしい。どういう上から目線でそんなことが言えるのだろうか?

 まず、最近マスコミが金科玉条のようにしているのが世論調査だが、その世論調査が正しいということは、基本的に世論調査に応じている国民の問題意識がきちんとした現状認識に基づいているということであるべきだ。だとすれば、国民のほぼすべては問題意識を持って日々のニュースに向かい合っていなければならない。そうなのだとしたら、谷亮子もきちんとした現状認識とか問題意識を持った、高い識見のある一国民であるということになる。しかし、それはコメンテーター氏は否定しようとしているのだ。

 では、コメンテーター氏を「やるせない気持ち」にさせた谷亮子が、たいした認識も意識も持っていないダメな人だと仮定しよう。そうなると、そんな人が結構な割合で国民には存在しているのか、さもなくば多くの国民はきちんとしていて、例外的に存在する超ダメ人間というゾーンに、谷亮子はカテゴライズされるということになる。どちらにしても、国民全体、もしくは谷亮子個人を「ダメ人間」と定義することになるわけで、よくもまあそんなことを公共の電波を使って喋れるものだなと、あきれてものが言えない。

 まあ後半の「谷亮子だけがダメ人間の代表だ」という気持ちはまさかコメンテーター氏も持ってはいないだろう。本音からすると、国民の大半は大した識見などは持っていないということを彼もかんがえているのではないだろうか。とすれば、日頃の世論調査は、そんな大した識見を持っていない大衆に、形ばかり質問をしてみて、それを材料に自らのコメントを構成しているということになってしまうわけで、自らの報道活動の根本を揺るがしてしまう。そんな簡単なことが、この人は判らないのだろうか? 理解に苦しむ。

 もっと識見のある候補者はいないのかと本気で思っているのなら、自分で立候補すればいいじゃないか。そう言ったら、おそらく「いや、自分には自分の仕事があるから」というだろう。しかし、高い識見を持って周囲からも一目置かれているような人は、同様に自分の仕事があり、周囲からも不可欠の存在だと見られているのである。そんな中で政治の世界に進出出来る人を探すのは結構大変なことだし、進出する人も大変な想いを乗り越えて踏み出しているのだと思うよ。それを批判したり蔑んだりするのは簡単だけれど、その中からいい点を探して、いい点の比較で候補者を戦わせようとすべきなのが、本来報道する人たちの役割なんじゃないか? 水戸黄門の悪代官みたいな候補者がいればさすがに粗探しをすべきだが、善良で一途な町娘みたいな立候補者をつかまえてため息をつくことは、少なくともジャーナリズムの仕事ではないと思うのだ。