Tuesday, May 18, 2010

流線型と比屋定篤子『ナチュラル・ウーマン』を聴く



 Twitterで誰か(誰だったか、結構有名な人だったと思う)が「いい」と紹介していて、それでamazonで購入。最近はそういうケースが増えてきた。流線型と比屋定篤子の『ナチュラルウーマン』。いい。

 なにか、夏なのだ。暑さにやられて、木陰に逃げ込んだような。じっとりとした湿度の高い空気なんだけれど、風が心地よいという、そんな印象。音楽がそういう季節感を持つってどういうことなんだろう。例えば大瀧詠一の『A LONG VACATION』などを思い浮かべる人もいるかもしれない。だが僕の頭の中にあるある種の原点は、山本達彦『TWO WAY SUMMER』だったりする。あまりに古い曲だからか、YouTubeにもまったく出てこない。amazonで売っているベスト盤にも出てこない。小学生か中学生の頃、なぜか家にあったこのカセットを繰り返し聴いていた。多分夏だったのだな。気怠い九州の夏。気怠いとかいう単語をしっかり認識していたかさえもう判らないけれども、同じ季節に沢山聴いていた他のTVソングスとはまったく違って、この曲には湿度の高い夏を感じていたことだけはハッキリしている。

 この比屋定篤子さんというシンガー、かつてはエピックとかのアーチストだったらしい。その後の変遷とかはまったく知らないし、ウィキにも情報は殆どない。まあアーチストとしてのビジネス的成功をしているかというと、決してそんなことはないのだろう。いや、メジャーで数枚のアルバムをリリースしているのだったら十分な成功か。

 成功かどうかはともかく、このCDは良かった。仕事がら一つの音楽に執着して何回も繰り返し聴くということが珍しかったりする中、これはもう10回以上聴いているし、きっとまだ聴くだろう。徐々に気温も上昇し、これからの季節に、もっともっと聴くだろうと思う。夏の木陰の風の心地よさは、きっとギターの音色が演出しているのだろうと思っている。ギターの音がとても爽やかだ。このギターに絡む鍵盤が、時にピアノだったり、時にハモンドオルガン(?)だったり、とにかく絡み方と微妙なディレイが、一種の思考停止を生み出し、それがなにか、夏の気怠さに似ているような、そんな感じなのだ。それに比屋定篤子のボーカルが乗ってくるのだが、とても微妙にリズムがズレているように聴こえる。いや、リズムはズレていないのだ。だがズレているように感じる。僕などもレコーディングの際に「ジャスト」のタイミングをどこで決めるべきかを苦慮することがあって、打楽器などだったらアタックの瞬間がジャストオンタイムなのだが、ボーカルは音の出だしが必ずしもアタックタイミングと同期する訳ではなく、その結果、ジャストのリズムよりも前から息は吐き出されるべきということが起こる。比屋定さんのボーカルというのは、声そのもののイントロ部分というものがあって、そのイントロ部分がリズムのオンに合った時に、微妙なズレを生じさせるのかもしれない。だが結果的にそのズレが、場合によっては聴き難さにつながることもあるのかもしれないが、僕の耳には、空気中の水分がベタベタと肉体に絡み付くような、湿度の高い夏を思い起こさせることにつながって、ギターや鍵盤の音とミックスされた時に、気怠さと心地よさの妙につながっていたのである。

 面倒というか小難しいことを書いてしまって反省している。単純に、真夏の海辺リゾートって、暑いんだけれども魅力が合って、そんなことを思い出させるような、いい音楽だったのである。聴く人によってまた印象は違うだろう。それでいいのだと思う。



 また、このCDの中に『サマーインサマー』という曲があった。それがカバー曲だとは最初気付かなかった。この曲だけがとてもポップで、異様な存在感を放っていた。八神純子の1982年のヒット曲である。ああ、そういえばこの人は秀逸なメロディメーカーだったなということを改めて気付かされた。ザ・ベストテンでの姿が思い出されるし、声がよく伸びる、歌が上手い人というのが当時の僕の印象だ。だが、その歌のうまさだけではなく、メロディが抜きん出ているということは、こうしてカバーされるとよくわかる。メロディーは音楽の命だなと思う。もちろんそれだけが音楽の要素ということではないし、ある程度売れなければ、カバーされることも無ければ、仮にカバーされてもそれがカバーということにさえ気付かれないのだが。