Thursday, May 20, 2010

なかったことには出来なくて

 口蹄疫ってなんだろう。普天間ってなんだろう。人々の怒りや悲しみの叫びは伝わってくるのだけれど、それらに対する深い認識は遠い都会に住んでいる僕にはなかなか出来なくて、それでどこか人ごとのようにしか感じられないでいる。いや、理解しようとは思うんだ。だけどいくら考えたって完全な理解になどはならないし、それ以前の問題として、無限に考えられるほどの時間は許されていないのだ。

 もしも、口蹄疫の蔓延も起こらず、普天間基地もそもそも日本に存在せず。パラレルワールドのようなそんなもしもが起こったならばどうだろうか。その世界は幸せかどうかにも議論はあるだろうが、その議論は脇に置いて、仮にそんなもしもは幸せな世界だとして、だけどそんなもしもは起こらないのが厳然とした事実。だから、僕らはその悲劇を前提にして、物事を考えなければいけないのだろうと思う。

 そう、目の前にある諸問題は、なかったことになど出来はしないのだ。

 対処への方法論は、現実の大きな不幸と、ありえもしない「もしも」の、その間のどこかに見つける以外にはない。それは問題が起こる前に気付かなかったという責任を追及することでもなければ、未来になら検証出来る結果について知る術を持たない現時点の人間の判断を、後になって非難することでもない。

 口蹄疫。消毒薬が足りません。強制的に殺処分をするって誰の見識と判断で?一戸一戸の了解は?10kmならダメで10.1kmならばOKってどうよ。その僅か数メートル、数センチを、口蹄疫は超えていないのか?わからない。どれも判るはずもない材料から判断を下す必要がある。

 そこには覚悟が要求される。それはこれがいいと確信する覚悟ではなく、ダメだった時には矢面に立つ覚悟だ。その覚悟を要求されるのは政治家だ。政治家には覚悟が必要である。それを非難するのは容易い。特に結果が出た後に非難するのは容易い。だが、結果も出ないうちからこうすべしと断言できた者、そしてその判断が誤った場合には全批判を受ける覚悟がない者には、政治家を批判する資格はない。批判する権利があるのは選挙民だ。批判する資格はなくとも、権利はある。それが民主主義というものだ。

 100点があるとしたら、それは過去に遡り、今の問題を手品のように防ぐことだろう。だがそれが出来ない以上、次々と起こる諸問題に対処療法的に追われる以外にないのだ。その時に、理想論ですべてを他人のせいにしていたのでは、問題は1cmたりとも動きはしないし、それは更なる悲劇を生み出し続けるのみだということを、僕らはもっと強く認識する必要があるんじゃないかとか、皮膚感覚のない遠い悲劇を見ながら、思うのである。