Monday, May 31, 2010

遺伝子



 土曜の夕暮れ、京都の法然院の列に並んでいた時のこと。奥さんが「なんで犬はどんな犬もワンワンと鳴くのかしら、鳥は種類が違うとああもいろんな鳴き方をするのに」と聞いてきた。面白いことを聞いてくるな。確かにそうだ。犬はどれもワンワンだ。もちろん日本語でワンワンで、英語だったらvow wowだ。だがそういう人間の言語の問題とは違ったレベルで、やはり犬はワンワンで、鳥はチュンチュンとかホケキョとかカーカーとかコケコッコとか様々に鳴く。聞く側の認識能力ではなく、遺伝子がそれを決めているのだ。

 なぜ法然院というお寺に並んでいたかというと、その日その晩、川本真琴&前野健太のライブが行われ、それを観るためにわざわざ京都までやってきたのである。9年ぶりのアルバムを出した川本真琴のライブは観たいと思っていたものの、東京で時折やっているライブにはさほどに気持ちが向かなかった。だが、法然院。このお寺は斬新的な和尚さん梶田住職がいて、「お寺が新たな出会いの場になれば」という思いで「法然院サンガ」という寺ライブをずっと行っている。お寺でライブ。このシチュエーションにとても興味があって、いつか機会があれば観てみたい、体験したいと思っていた。そこに川本真琴がプラスして、これは是非とも観に行かなければと思い立ったのである。

 5月も終わりというのに山の夜は底冷える。なのに障子は開け放たれた中でライブが始まった。出演者も観客も、口々に寒いと言う。ああこれはライブという名の修行だなとか思った。辛いと思えば辛くなる。だが、苦痛とは肌が感じるのではなくて脳が感じる感覚である。だからある瞬間からちょっとだけ背筋を伸ばしたりした。そして、これは辛くなんてない。このライブをこの場所で観たいと心から思っていたじゃないかと、思うようにした。それでもなお、風は冷たく、修行のようなライブ体験が続く。2人の出演時間は合計で2時間半。ライブ自体はとても良かったが、終わった時にちょっとだけホッとしたのは偽らざる安堵の気持ちだった。

 川本真琴のライブは、まあこんなもんだろうという感じだった。キーボード弾き語り。声は独特で、日々多くのデモ音源を聴く僕からみても、独特のトーンの声は突出している。こんな声のデモが来たら、きっと僕は興奮するだろう。そしてすぐにでも一緒に仕事をしようと言うだろう。だが、それだけで売れるとは限らないんだということを、彼女の今は証明してくれている。もちろん売れるという意味が何を示しているのかによっても変わるだろうし、9年ぶりのアルバムだって、世間的には知られていなくとも、キラキラレコードのアーチストたちよりは売れているだろう。だが、過去の彼女のビジネス的成功から比べたらきっと誤差の範囲で、やはり売れているとはとても言い難いはずである。それでも今でも彼女が音楽を続けていて、そして大成功の頃にはその音楽活動を続けられない状況にあったことなども、音楽とビジネスの複雑な関係を明示しているようで、おもしろいなあと思った。アンコールで2人がセッションをした時に、前野健太のギターで「愛の才能」を歌った。メジャーの頃の歌としてはこれ1曲。1番を前野健太が歌い2番を川本真琴が歌うという流れだったのだが、片手にマイク片手に歌詞カードという状況で、しかも間違う。明らかに何かが切れたようなテンションで、ああ、昔の歌はキライなんだなあというのが伝わってくる。そりゃそうだろう。だったら封印すりゃいいのに。ここに来ている人とか、今後ライブハウス規模のライブに来る人は、まあ聴いてみたいという期待はあるだろうが、無理強いしてまで聴きたいなんて思ったりはしないだろう。それに、そんないやいやそうなテンションになるのは、お客さんに対してもあまりいいことではないはずだ。

 前野健太のことはほとんど知らずにここに来た。本人もほとんどが川本真琴のファンなんだろうというようなMCをしていて、だからといって特に自虐的になることもなく、淡々と歌う。淡々とというのはちょっと違うな。きっとそれが彼の独特のスタイルなのだろうが、眉間に激しく皺を寄せ、一言一言を噛み締めるように歌っていく。歌うというよりもつぶやくような絞り出すような歌い方。情念がこもっている。

 僕は前野健太という人の歌に一種の衝撃を受けた。言葉は比較的漠として、イメージをイメージとして積み重ねていく。その言葉とこの言葉が結びついたら特定の情景が像として浮かび上がり、その像にこちらの想像が加わって、感情が生まれる。そんな歌だった。ラップなどで韻を踏むというような、そんな表面上の言葉遊びではない、意味とか感情を持った言葉遊び、隠喩というべきか、そんな面白みを持っている。かといってそんなことを勉強によって獲得したというのではなさそうな、感覚によって生まれているような、そんな印象だった。

 だからライブ終了後、前野健太のアルバムを買った。正確には僕がトイレに行っている間に、奥さんに買ってもらったのだが、どれを買っていいのか判らないでいる奥さんに、前野健太は「これです、これを買ってください」と言って、2009年1月に発売した、オリジナルとしては最新の『さみしいだけ』というアルバムを進めてきた。そしてそのアルバムの封を開けて、直筆のサインをしてくれたという。日常的にそういうことに囲まれているインディーズレーベル人間としての立場からはさほど珍しいことではないのだが、だが自分が聴きたいと思って買うCDにサインをしてもらうということは、やはり嬉しいものだ。立場が違わないとその嬉しさが理解出来ないというのはまだまだ自分も未熟だなとか思うものの、そういう意味でもいい経験が出来たなと思う。

 そのCD。彼のホームページには曲名が並んでいて、その中で1曲だけ外部にリンクが貼ってあるのが「鴨川」という曲だ。プロモーションビデオがYouTubeにあるわけで、そういう意味でもそれはこのアルバムの中でも一押しの曲なのだろうと思うのだが、この曲がこのライブの最後、川本真琴とのセッションとして歌われた。場所も京都、「鴨川」というタイトルの歌はまさに締めにふさわしい。1番を川本真琴が歌い、2番を前野健太が歌う。これが、とても良かった。哀しくて切なくて、だけどありそうな夢への希望。2つの声はまったく違うし、歌い方もまったく違う。それを並べることによって全く別のものになってしまうような気もするが、だからといって別のものになってしまうことが悪いとばかりはいえないのである。本来ある姿という幻想にこだわるあまり、別のものになってしまうことを人は恐れる。だが、原点を忘れることなく、変化することは可能だし、むしろ不可避なのである。それが不幸になることもあるだろうけれど、幸福にすることだってできる。それは誰にだって出来る。そんなことを、僕は寒い風が吹き抜ける法然院方丈の間で感じていた。

 帰宅後、サイン入りの前野健太のアルバムを聴いた。ギター1本のライブとは違い、バンド形式のCD音源はかなり違和感を与えてしまうものだった。これはソロシンガーの宿命でもあり、多くのミュージシャンが抱えている問題でもある。ライブで聴いた感動が強ければ強いほど、その違和感はリスナーに失望を与える。僕は今このブログを書きながら、「鴨川」を繰り返し繰り返しリピート再生して、聴けば聴くほどそのバンドバージョンが当たり前のように感じてきた。曲にも固定の姿などなく、その根本に刻まれているなにかを、その時のいろいろな理由を持ってある特定の形にアレンジされるのみである。そのことは判っていながらも、じゃあそれを普通のリスナーにいちいち説明することが出来るのかというとそれも難しく、今回のようにリピートで聴くことによって「慣れ」ることを期待するのもまた難しく、そういうことがこの前野健太の大きな前進を阻んでいる一つの理由かもしれないし、それは彼にのみある問題ではなく、多くの弾き語りシンガーとも仕事をする、まさに僕自身の課題でもあるような気がしてならない。