Wednesday, June 09, 2010

パラダイムシフト

 HMV渋谷店の閉店のニュースが駆け巡る。驚いたなあ。

 といっても、閉店したことが驚きなのではない。それに対する多くの人の感想があまりにも的外れで、驚いたのである。

 感想にもいろいろあって、大きく分類すれば次の2つに分かれる。「いつも通っていたお店がなくなるのは残念だ。」というものと、「CDはもう売れないんだなあ」というもの。前者は、それは理解できる。馴染みの店が無くなるのは哀しいものだ。大規模店であれ小さなお店であれ、自分の記憶が剥ぎ取られるような気持ちになる。僕は通っていた大学の近くにオフィスを構えているのだが、学生時代から続いている食堂なども次々と閉店して、もはや残っている方が少数だ。別に売り上げが落ちたわけではないだろう。単に後継者がいないだけだ。おとうさんおかあさんがおじさんおばさんになり、おじさんおばさんがおじいさんおばあさんになる。そしていつか突然シャッターが開かなくなる。時が経ったことを思い知らされる。ああ、自分という人間の閉店はいつなんだろうとか、まだ漠然だが、しかし強制的に思わされる。HMV渋谷店も同じだ。あの店も所詮キラキラレコード20年の歴史ほどもなく、だから僕からすれば開店したお店が閉店するだけであり、学生街の定食屋の閉店ほどの衝撃はない。でもそこで渋谷で青春を過ごした若者にはそれは有って当然のシンボルであり、それが無くなる衝撃は想像に難くない。

 後者の「CDはもう売れない」というのはどうなのか。もちろん総出荷量は落ちているのだろう。だからあながち間違いではない。だが、それでお店が潰れるのではない。HMV渋谷店をCDが売れないことの象徴として捉えるのは明らかに誤解だし、シンボル的なお店でもあったが故に誤解はさらに大きな誤解へとつながっていく。まあ多くの人が誤解したところで僕の仕事にはほとんど影響しないのだが、音楽業界でCDを売ることを生業にしているものとしては、ちょっとだけ私見を述べておきたいと思ったのである。

 まず、CDショップが閉店になるにはいくつかの理由がある。1つには売り上げが下がり、経営が成り立たなくなったというもの。もう1つは経営の形態が変化して整理統合の対象になったというもの。簡単にいえば、第一勧銀と富士銀行が合併してみずほ銀行になったら、駅前に競合して2店ある必要はないよね、だから1店は閉店しようねというものである。HMVは今年3月にTSUTAYAを経営するCCCの傘下となった。それは銀行の合併のようなものであって、渋谷駅前に大きなTSUTAYAがある以上、そのすぐ裏にHMVが競合する必要はなくなる。当然の話だ。飲食業会では同じ会社が別ブランドをいくつも平行して経営しているケースがあるが、それは居酒屋と牛丼屋とイタリアンとカフェなど、同じ飲食であっても業態も提供する料理もまったく違うから成立するわけで、CDショップで売るものは基本的に同じものである。よほど特色を出して「ウチはラテンの輸入LPだけしか扱わないとかなら成立するだろう。だがHMV渋谷とTSUTAYAでは、基本は他社が製作したヒットものを大量にさばくというものであって、そこに違いはほとんどない。だとすれば渋谷の一等地でほとんどビル1棟借りきりの状態のお店2店舗というのは、真っ先に効率化の対象になる。これはCD業界特有の話ではなく、生き残りのための買収や合併はどの業界でも繰り返されていることであって、たまたまHMVがそうなったというだけの話である。感傷がつきまとうのは当然だが、それをCD業界全体の落ち込みにイコールの形で投影するのはナンセンスである。

 それと肝心の「売り上げの減少」だ。これはもちろんCD全体の売り上げが下がっているというのは事実だろう。だが、HMVの売上げの落ち込みはそんな全体の数字以上のものがあるはずなのだ。それはHMV特有の事情ではなく、タワーもその他のCDショップも免れられない現象である。その大きな理由は2つ。1つは通販の台頭であり、もう1つは趣味の多様化である。

 通販の台頭は、まさにamazonのことである。現在新しい情報を得るソースは雑誌や店頭からネットに移った。そしてそこからダイレクトに通販サイトに誘導される。各メーカーのサイトはもとよりメンバー自身のブログにだってamazonへのリンクは貼られる。YouTubeの映像はブログにダイレクトに埋め込まれ、そのすぐ下にamazonがあれば、普通そこが最大の購買機会になる。今もネット通販は不安だという人も少なくない。だがそれはもはや少数派で、多くの人は気軽にポチッと購入するようになっている。僕などもそうだ。むしろ以前に増してCDを買うようになってきているし、第一、今やキラキラレコードの売上げは、ショップ経由とamazon経由ではほとんど同じになってきている。だとしたら、かつてのショップでの売上げの5割をamazonに持っていかれてしまっているとしても不思議ではない。売上げが全盛期の5割を切れば、当然経営は難しくなってくる。もちろんショップはショップでいろいろな策を講じているだろうし、ショップの面白さというものは決して無くならないと思いたいので、もっと頑張ってもらいたいとは思っているし、一般のリスナーにもショップでの出会いをもっと体験してもらいたいと思う。だが、現実には通販の伸びにショップが押されているというのが現実で、それがHMVの経営を圧迫しているというのが最大の要素なのだろう。

 趣味の多様化。これはどういうことかというと、まさにキラキラレコードのようなインディーズの音楽ということなのだろうと思う。インディーズのCDは、なかなかショップに置いてもらえない。もっともっと力を付けなければと自らの反省にして頑張っているのだけれど、それでもショップで置いてもらうというのには高い壁が有るのも事実である。でも、だからといってインディーズの音楽が内容として劣っているわけではない。もちろん玉石混淆であり、ダメなものだってたくさんあるのは事実である。メジャーの方が厳選されているといえるだろう。だが、そんなインディーズの中でも良いものはたくさんあって、そういうものをちゃんと発見して支持してくれている人たちも多い。そういう人は、近ければタワレコ渋谷か新宿に行くだろう。この2店は特にインディーズの在庫が豊富で、他所になくてもここにはあるというケースが多い。だが100%ではない。行って無ければ注文できるが、通勤途中にそれがあればまだしも、わざわざそのために出かけるのだとすれば、注文に1往復、届いたと連絡が来て取りにいくのに1往復。片道の電車賃が250円だとしても、2往復では1000円かかる。CD1枚買うのに電車賃1000円は無いだろう、普通。それしか方法が無いのであればそうするしかないが、amazonでポチッで送料無料とくれば、まあ普通はそちらを選ぶ。しかもほとんどのインディーズCDがそこにはあって、ジャケットと曲目が簡単にチェックできる。キラキラレコードのamazon売上げが上がってきているというのもそういうことが大きな理由なのだろうと思う。20万枚の在庫数を誇るタワー渋谷店でも、現在流通しているCDをすべてそろえるのは難しいだろう。ましてやタワーの平均在庫数は8万枚程度だと聞いている。デパートなどに入っているCDショップの在庫は1万〜2万枚だ。それではメジャーのアーチストでも代表作くらいしか置くことができない。インディーズの商品を全部揃えるなんて夢のまた夢だ。10年くらい前なら、それでもインディーズのCDを欲しがる人は少なく、それを売り逃しても誤差の範囲でしかなかっただろうが、趣味の多様化によって相対的にメジャーアーチストのCD売上げを食うようになってきて、結果としてメジャーアーチストのメガヒットが出なくなり、一方でインディーズの総売上が上がってきているといえよう。世の中で発表されるチャートでは今でもインディーズは泡沫に過ぎないだろう。しかしライブ会場での売上げとamazonでの売上げは全体として伸びてきており、それを反映しないショップ売上げのチャートにはほとんど意味がない。それはつまり、「100万枚が出なくなってきた→その他のアーチストたちも売れていない→ショップの売上げも下がってきている→HMV渋谷も閉店になる→CD業界は厳しい」という見方が実に表面的で、本当は「リスナーが多様な音楽を好むようになってきた→その嗜好に対応するには極めて幅広い商品対応が必要になる→1店舗に置ける在庫数には限界がある→ショップではリスナーの嗜好に対応しきれなくなってきた→通販がそれをカバー→インディーズの入手がますます容易に→リスナーの選択肢が広がり、相対的にメジャー的な人たちのCDが選択される確率が減る→商品の多様化&タイトルの分散化→メガヒットが出にくくなる→チャート上位でも小枚数に→CDは売れなくなったという誤解」というのが正しいということなのだ。
 
 これからはますます多様化が進むだろう。かつてのメジャーアーチストたちも続々と自主レーベルを立ち上げるようになってきた。これは彼らが「このくらいの売上げをキープできればいいか」という割り切りをするようになったということであり、それは決して向上心からとか野心からではなくて、自分たちの限界を自ら規定するという動きなのであって、決して褒められるものではないのだが、だが人間には限界はあるし、かつての名声で食って行こうという思いは誰も止められないし否定も出来ない。かつてはそれが環境的に許されなかったけれども、現代のようにダイレクトな情報伝達がどんどん容易になってくるにしたがって、それが可能になってきているというだけのことである。それはつまり、インディーズという在り方がかつては非常に存在しにくかったけれども、現在は比較的容易に自由に存在できるようになってきたということと似ている。かつての常識は既に非常識となり、その中で絶望をするのか、希望を膨らませるのか、それは個々の考え方に委ねられているのだろうと思う。