Thursday, June 10, 2010

闘いの本旨

 遅ればせながら菅総理の就任おめでとう。それとご苦労さま。オレどんだけエラいのかって口調ですけど、まあ、選挙民さまですから。1票の重みはとても重いよ。その重みを選挙の時だけでなくいつも感じながら仕事しとくれ。

 で、鳩山さんもご苦労さま。小沢さんもご苦労さま。辞されても、闘いは続くよ。それは何のための闘いだ? 正しい社会への闘いなんだと思う。時に人は矢折れ力尽き、精も魂も尽き果て、休みたくなる時もあるでしょうよ。でも休みは禁物。適度の疲労回復以上に休んだら、それは後退であり、それまでの努力が水の泡だ。もちろんどんな偉人も歴史の駒の一つに過ぎず、一つの駒が役目を果たしたら、今度は次の駒が登場だ。そうして大きな将棋は展開されるのであり、激烈な攻防が展開されて、いつ終わるとも知れずに時間だけが過ぎて行く。その攻防に庶民は翻弄されるけれど、それはもう仕方ないのだね。その翻弄を否定したら、どんどんと沈下して行くことを甘受しなければいけなくなる。問題は、その沈下が時代の流れによって起きる悲劇なのか、権力者達の搾取意図によって起きる悪意なのか、そういうことなのだと思う。

 だから、政治が何をもって行動を起こしているのかを注意して見なければいけない。僕はそう思うのだ。

 この数日での世論調査の変化で、参議院選挙の行方も大きく変わってきたらしい。2人区での2人擁立について、「共倒れだ」と叫んでいた人たちも「2人とも当選が予想される」と笑顔に変わったという。だが、その考えそのものが間違っているのだと、僕は思う。なぜか?選挙とは民意を反映させるためのもので、政治家が仕事を確保するためのものではないからだ。民意とは何か。それはどのような政治状況を期待するのかということそのものである。かつての中選挙区では、3人区で8人くらい立候補するが、自民1人社会1人その他1人とか、あるいは自民2人社会1人という感じで決まっていた。自民3人も無ければ、社会3人もない。それは単なる談合である。当事者はそうは言わないだろう。だが立候補する人数を調整することで結果を操作しているとすれば、国民の意思を明確にするための闘いを候補者側で排除していると言わざるを得ない。それでは永遠に政権交代は起こらない。交代の可能性がないから政治に緊張感が生まれないし、国民のための政治を行おうという気持ちが政治家に起こってこない。それではいけないというのが小選挙区の導入だったはずだ。参院選は小選挙区とはまた違っている。だが、この2人区に対する行動というのは、小選挙区導入の精神がどうで、それに対して関係者がどう考えているのかということのひとつのリトマス試験紙になるのだ。

 つまり、2人区に2人を立てるというのは、勝つか負けるかではなく、国民に結果を委ねるということそのものなのである。共倒れを恐れるというのは、政治家や政党、支持団体の側の論理であって選挙民の論理ではない。もしも共倒れを恐れて1人確実に勝とうというのであれば、それは独占していくということを望んでいる選挙民の希望を最初から奪う行為であって、選挙民への裏切りそのものだと思う。ずっと中選挙区でやってきた談合と同じである。大切なのは、2人区に2人を立て、2人とも勝つためにより良い政治を展開して行こうということである。それが支持されれば2人とも勝つし、支持されなければ2人とも負ける。それでいいじゃないか。負けたら再び臥薪嘗胆して捲土重来を期すのである。いい政治のために努力するのである。政権交代可能が制度的に担保されていればそういう態度も可能になる。勝った側も次に負けないようにいい政治をしようと努力する。その繰り返しが政治を良くして国を良くするのであって、2人区に1人立てるという行為は民主主義の自殺行為に他ならないのである。

 僕が小沢さんを支持し、今の民主党を支持するのは、政治の選択権を国民に委ねようとする姿勢という一点であって、細かな政策の云々についてはどうでもいいと思っている。今はまさに移行期であって、今の制度をもう少し改善し、それが定着していく中で、ようやく細かな政策について議論できる下地ができてくるのだろうと思う。今の2人区に2人という戦略は、目前の闘いに勝利するための戦略であると同時に、国民に選択を委ねていくための不可避の行動なのだと思う。ここで談合して勝負を避けるのでは、そもそも民主党が本当に政権を獲得する意味がない。ここで勝負を避けて勝利を目指したら、結局は権力だけの闘争ということになってしまい、かつての自民党や社会党となんら変わらなくなってしまうのである。

 スポーツだったら勝利が何より大切だ。だが、武道はそうではない。礼に始まり礼に終わる。礼の精神が無ければ、勝ったところで無意味なのだ。同じように政治もスポーツとは違うのである。やろうとしている政治的理想というものがあり、それの実現に向かって努力をするのが政治だ。その過程で選挙もある。選挙で負ければ理想の実現は出来なくなる。だが、選挙で勝っても理想に反した行動をとったのでは意味が無くなる。世の中には理想もなく権力に固執して選挙を闘っている人たちがいる。むしろそういう人がほとんどだろう。だからこそ、2人区に2人立てようとすることにはとても意味があるし、内閣支持率が際限なく低下していながらもなおその姿勢を崩さずに進もうとしたのは、それこそ選挙の勝利よりも全勝か全敗かの判断を民意に委ねることを優先したということであり、権力よりも理想を優先したということなのだろうと感じているのである。

 そして今、菅総理に変わったことで民主党の支持率が回復した。その回復ぶりもどうなんだろうと思うが、それを受けての政治家の人たちの豹変もどうにかしていると思う。ここに来て「2人区に2人立てることは間違ったことではない」と言っている人がいるらしいが、それが小沢さんの意図を最初から理解した上で言っているのだとすれば、その人は本来非小沢の人であるはずがない。だがもしも、勝てそうだからその戦略に乗っかろうとしているのであれば、非小沢親小沢に関係なく、利権屋さんということなのだろう。本当はどういうことなのかは知る由もないが、お願いだから後者じゃないことを祈りたいのだ。