Monday, June 21, 2010

公平性

 お相撲の話、またまたワイドショーがヒートアップしている。野球賭博問題。このままでは名古屋場所が開けないのではないかと。

 バカじゃないか。どうしてそんなに問題を複雑にするのだろうか。解決方法は唯一でシンプルだと思う。名古屋場所を開くということだ。そして賭博疑惑を持たれた力士と親方はすべて責任を取る。責任の取り方は、解雇もしくは引退(親方は廃業)だ。なにも名古屋場所が悪いのではない。賭博をしていた人が悪いのだ。場所を中止になんかすれば、真面目にやっていた力士がかわいそうすぎる。

 高校野球なんかで部員が不祥事を起こしたら連帯責任で甲子園出場を辞退するような話もよく聞くが、それも変な話だとずっと昔から思っていた。そこまで連帯責任にするのなら、全国の高校球児のたった1人でも不祥事をしたら、甲子園大会そのものを中止する方がまだましで、名古屋場所を中止するというのはそれに匹敵する愚行である。悪いのはあくまで個人で、その個人を罰したら済む話だ。もちろん数十人の力士がいなくなるだろう。そこに新しいスターが生まれるチャンスがある。再活性化する良いチャンスでもある。

 こういうことを言えば、「まだ疑惑であり、確定するまでは推定無罪なんじゃないか」という反論もあるかもしれない。しかしそれは公平ではない。疑惑段階でロシア人力士を解雇したじゃないか。立件されていない(未だにされていない)時点で朝青龍を引退に追い込んだじゃないか。つまり、相撲界のルールは疑惑の段階で辞めさせるというものなのだ。だとしたら、日本人力士の時だけ厳重注意では済まされない。それでは公平ではない。そんな公平じゃない裁きを堂々と行うこと自体が、相撲という勝負の世界を信じられなくさせることを関係者は理解するべきだろう。もうずっと日本人が優勝できないという事態が続いているのも確かだ。だがそれは日本人が弱いからであって、外国人力士に門戸を開いた時点でそれは覚悟するべきだった。憂慮する気持ちが関係者にあるのも頷ける。しかしその対策としては、日本人力士を厳しく指導して強くさせるか、さもなくば今後一切外国人力士に門を閉ざして鎖国状態にするかでなければならない。すでに入れている外国人力士を揶揄して辞めさせ、その一方で日本人力士の不祥事には「厳重注意」という甘い対応をするというのは、フェアではない。いろいろ辛いだろうが、この際辞めてもらうしかない。ドルジだって日本にチャンスを求めて渡ってきて、努力の末につかんだ地位を追われたのだ。その忸怩たる思いが賭博力士の思いと比較して軽んじられて良い訳は無い。


 一方で政治の話。要するに日本人は情緒で他人を判ずる傾向が強いのだと思うのだが、小沢一郎を政治と金の問題で追い落とすことに成功したある種の勢力があって、僕はそれをとても不公平なことだと感じている。相撲の話と違うじゃないかといわれそうだが、そうではない。推定無罪とか、疑惑の問題とかが大切なのではなくて、その業界に於けるルールの公平性が大切なのである。小沢一郎の政治と金の問題、既に最新の状況としては検察が2度目の不起訴を決め、検察審査会という謎のグループがその決定について検討をしている段階だと思うが、問題の争点としては結局政治資金報告書に記載した時期がズレているという点だけしか残っていなくて、それでも政権政党の幹事長を追われる理由にされていて、幹事長を辞任した今もなおメディアはそれを取り上げている。

 この期ズレの問題の出発点は、西松建設からの不正献金問題だったわけだが、それで秘書が逮捕されている。だが同じような献金が自民党の大物政治家達にも複数渡っていて、その人達のことは一切不問にされている。一方は秘書逮捕から始まり任意の聴取、さらには度重なるキャンペーンによって政権党の要職を辞任で、一方は不問。そのアンバランスさが公平ではないと思うのである。小沢一郎が悪いなら悪いで、だったら同様の行為や疑惑があれば公平に批判と対処をすべきなのだ。今は小沢が政権側で自民が野党側であり、政権側に批判的であるべきだと言う人もあるだろう。だが、この問題が起こった時点では自民が政権側だったのだ。むしろそちらに批判的であるべきなのに、そうはなっていない。個人が徹底的にターゲットにされてしまうというのでは、同じ土俵に上がっているとはとても言えないのだ。

 政治家はクリーンでなければいけない。それはその通りだろう。そのクリーンとダークを分ける境界線というものがあるはずで、それを明確にすることが大切なことなのだ。過去に1点の曇りもあってはならないというのであればそれもよし。法に触れないことであれば大丈夫というのであればそれもいいだろう。たとえ起訴されても最終判決が出るまでOKというのか、それとも起訴された時点でアウトなのか、線引きは判断する人によって微妙に違ってくる。民意とか言うけれども、それは個々に違った様々な人たちの違った意見の平均的なポジションが、民意ということになるのである。そこには当然異論も噴出して然りだ。識者の中にもある基準としての民意に不同意な人が出てきて、メディアで声高に主張反論することだってあるだろう。それらの結果どこにルールが落ち着くのか。それが大切であって、その明確なルールの下に、政治家のクリーンが判断されるのであれば、その基準がどこにあろうとかまわないと思う。だが、現状の政治とメディアと司法の、そしてその結果としての支持率という魔の数字には、基準など無い不公平な状態があるといえよう。それはまさに、突如飛び出した大相撲の問題と根が同じような気がするのである。

 だから、大相撲では比較的新しい過去に、外国人力士達をかなり問答無用で排除した事実がある。だから、日本人力士にも同じ基準を適用すべきだし、それが唯一正しい道だと思うのだ。同様に、政治家にも、小沢一郎が本当に悪いというのなら、同様の行為があった場合にはすべて疑惑段階で悪人のレッテルを貼り、政界からの排除を激しく主張すべきで、さもなければ、献金疑惑で不問にされた多くの自民党議員と同じように、小沢一郎についても不問にすべきなのだろうと思う。ルールの適用を恣意的に使い分けるようなことがあったら、そこに正義は無くなってしまうのだから。