Wednesday, July 28, 2010

それぞれの道

 つい先日CDリリースについてのメールのやり取りを始めたばかりのミュージシャンと、今日の夜ミーティングを行うことが昨日決まっていたのだが、ほんのさっき電話があり「やっぱ今回は見送りますわ」と言われた。こちらとしてもそれなりに可能性を感じて声をかけているのだから、ハイそうですかというわけにはいかない。だがその言葉のあまりの軽さに、つい「ああ、そうですか。それでは」と返事をしてしまった。彼は当初今回の話にものすごく興味を示し、「こんなアイディアもあるあんなアイディアもある」と速射砲のようにメールを送ってくれて、まあそのアイディアにはビジネス的観点から見ると素人っぽいものも多かったが、その過程で僕も彼のサイトなどをいろいろと深く見る中、意欲はものすごくある人なんだなあと感じていた。そういう彼に対して20年レーベルをやってきた者としてのアドバイスやなんかも重ねて来て、やっと今日ミーティングをしようということになっていたのに、突然1本の電話でいきなり、しかもかなり軽い口調で「やっぱ今回は見送りますわ」と来た。かなり力が抜けて、「わかりました」と反射的に答えた。話はそれで終わった。

 もちろんそれは音楽に限らないことだと思うが、音楽は決して1人で完結するものではない。いろいろな人との関わりの中で成立するのだ。無論創作活動そのものはとても孤独な作業である。誰かと相談して決めるようなことではなく、自分の奥底にあるエゴのようなものを絞り出して出来るのが芸術である。だが、それを他人に評価してもらうことで価値が決まるという以上、それは個人的な輪の中で完結するものではないのである。自分の部屋でギターをかき鳴らして悦に入るだけでいいのなら別だ。しかしライブであれCDであれ他人に聴かせたりする以上は、他人との係わり合いを無視して前進など有り得ないだろう。

 だが今回のミュージシャンは僕にいろいろなことを質問し、いろいろなアイディアをもらい、そして最後は「見送り」という結論を下した。理由も何も口にすることはなく。いや、見送るのはいいのだ。キラキラレコードだけがレーベルではないし、相性というものもある。条件だってあるのだから、自分の諸状況を鑑みて辞めるという結論は当然あるだろう。だが、一度はやりたいと言い出した直接のミーティングをすることもなく、辞める理由も口にせず辞めるのは、周囲の人間のことをどう考えているのかということを疑問に思わずにはいられない。レーベルとしてバカにされたとかいうことを言っているのではないのだ。僕が感じた不可解な思いを、おそらく彼の周囲にいてライブなどに誘われたりしている友人たちに対しても、彼はさせているのではないだろうかということが重要なのだ。アーチストとファンの間には個人的な関係はなくてもいい。だが売れない頃に支えてくれた恩人たちというのは、どんなに売れているスターにもいるはずで、そういう人たちを核にして、支持の輪は広がっていくものだ。そういう自分の近くにいる人たちに対して不快な思いや失望を感じさせるようでは、その先はないのだろうと思う。彼は30を超えている。これまでの活動の中で、気づかないうちにそういうことを繰り返してきているのではないだろうか。それは覚悟とかいう以前の話であり、そんなことを感じたから、僕は反射的に彼の辞退を受け入れたのではないかと、今は思う。



 25日に遡るが、福岡でライブを見てきた。デスパレイションというバンドの4年ぶりの復活ライブだった。ボーカルでリーダーの吉留くんだけがそこに残っていた。僕の知らないベースとドラムが彼をサポートし、ステージは始まった。吉留くんは23日に突然電話をかけてきた。「久しぶりにライブをやるんです、まだまだ諦めてません、復活するんです。そのことをとりあえず報告したくて」彼らの停滞後4年も放ったらかしにしていた僕に、彼はまだ連絡をしてきてくれたのだった。なんの偶然か、僕は翌24日から27日まで福岡に行くことになっていた。友人たちとの飲み会の予定も24日で、25日の夜は偶然にも空いていた。なんかの運命なんだなとか思った。僕がライブを観に行くことで何かになるとかいうことではないだろう。CDだって次のリリースがあるかどうかも判らない。だが、東京にいる僕が福岡に行って時間が空いているという非常に偶然のスケジュールで彼らがライブをやる。なんか嬉しかった。実際に見るとブランクは隠し様も無い。まだまだ以前の感覚を取り戻すには時間と努力が必要だろう。だが、彼ならやるだろうという気がした。それには明確な根拠はないけれども、いろいろな偶然が状況を作っているような気がするのだ。そしてそういう偶然は、実は偶然なんかではなくて必然なんじゃないかと思うのだ。



 ここしばらく騒いでいた、出れんのサマソニ。所属バンドのカノープスが投票では24位になり、その後の成り行きを待った。システムとしては、ファン投票で300位までに入ったバンドやソロミュージシャンの中から審査員が選考し、さらに絞られた中からライブ選考が行われ、出演者が決まるということらしい。投票を大々的に呼びかけている割には最後は審査員のフィルターがかかるわけで、なんか胡散臭いなあと思いながらも、カノープスが本気で頑張っている様子なので、僕も応援することに。

 それで、結果が出た。カノープスは選から漏れた。まあ最終的に出演は13組だったので、24位では順位的にも大きなことをいえる資格は無いだろう。だから最終的に出場が叶わなくても文句などは無い。だが、ライブ選考に出るくらいの資格はあったんじゃないだろうかと思う。だがライブに呼ばれることも無かった。これはどういうことなのかな〜と、素朴に思う。

 選考には多少の恣意も入るだろう。それはそれでいいのだ。選考方法については審査員も不満を漏らしているようだ。300位に入らないバンドにはそもそもサマソニに出演することはできないということで、「こんなに才能があってもなんら評価の対象にはならないというこのコンテストのありかたを問う意味でライブチェックに呼び、ust中継もやってもらった。」という。まあ一つの識見だと思う。それでよく見てみると、この審査員の言っていることもどこまで本当なのかと疑わしい状況だった。なぜなら、出場決定の13組の中には300位に入っていないバンドが3組もいるからだ。344位、426位、567位。その辺のバンドが出演決定になっている。おかしくはないのか?その事実に例の審査員はどう納得しているのだろうか?

 要するに、投票などはまやかしだったのだ。多少の恣意はあっていいと思う。審査員による操作が多少の範囲で入るのは当然だ。組織票によって生まれた結果は決して普通の観客の満足にはつながらないからだ。だが、得票でベスト20に入っているバンドが1組も出場になっていないという事実は、いくら頑張っても『出れ』ないということを示している。そして同時に得票で567位のバンドが出演になっているということも、最初のルールが簡単に反古にされているということを示している。こういう企画をやることによって、多くのバンドマンとそこに係わる友人やスタッフたちが踊らされ、あらゆる機会で『出れんのサマソニ』と口にしたり文字にしたりしてくれて、主催者にとってはいい宣伝になったことだろう。出られないバンドマンは、世の中がそんなに甘くないということを知るいい機会になったと思う。成功は簡単なことではないし、世に出るためには多くの裏切りにもあう必要があるだろう。大人の世界はドロドロとしているのが普通だ。そこで成功しようというのだから、純粋な気持ちだけでやっていけるはずもない。だが、それはファンには関係ないことだ。ファンは単純に良いなと思い、CDを買ってくれて、ライブに足を運んでくれて、そしてサマソニの投票をしてくれるのだ。投票は基本的にはファンの純粋な行為によってなりたっているのであって、それをほとんど無視したやり方をしているようでは、このイベントもたいしたことはないなと思う。得票で1位になったバンドのことを「宗教団体に関連している〜組織票の典型」と評していた。そうなのかもしれない。だが、組織票というにはあまりに少ない得票数だ。11500票。宗教団体が本気で組織票を動かしたのならこんな数字にはならないはずだ。僕はトップのバンドが組織票によって票を伸ばしたというよりも、それ以下のバンドが得票を伸ばすことが出来ずに、組織に負けているのだと思う。まあだから、全員が売れていないバンドに過ぎないのだけれど、そんな中、得票を伸ばしたバンドは、理由の如何に関わらず、音楽のレベルに関わらず、せめて1位のバンドくらいは出すべきだろう。そうでなければ、投票してくれた多くのリスナーに申し訳がないと、僕が主催者なら思うし、そう思わないようであれば、そのイベントの質が知れるというものだ。一般のファンをバカにしすぎている。

 僕は、出られなかったバンドが不幸だとは思わない。ダメなイベントには出るべきではないのだ。規模が大きかろうと、小さかろうと、その質には一切関係ない。ギャラの多寡で呼び寄せた海外アーチストがいくら出ていようと、それだけがイベントの売りであるなら、他のイベンターにすぐに取って代わられてしまう。唯一の価値とか真似できない意義を持つイベントが、素晴らしいイベントだと思う。そういう意味でも、この『出れんのサマソニ』という企画にはイベントとしての可能性が託されていると思う。誰の目から見ても公平なルールで、ファンが参加する意義を持ったルールで、一つのステージを盛り上げるための枠を用意していけばいいのだし、もしも投票で選ばれたバンドの質が低いのであれば、イベンターが必死になってトレーニングをさせるとかして、そのステージに相応しいパフォーマンスを出来るように育てればいい。それが出来ないなら、最初から投票制度などを導入せず、送られてきたデモをすべて見て、聴いて、厳選した数組をライブ審査して、無名の数組を発掘すればいいのだ。しかしこの投票制度には事前の盛り上げ的な、安易な宣伝目的があるから、そうシンプルにやっていくことは出来ないのだろうなあ。

 選に漏れたバンドだって、なにもすべての音楽活動が否定されたのではない。他のやり方で実力を発揮して、人気を高めていけばいいのだと思う。サマソニなんて沢山あるイベントの一つに過ぎない。いろいろな方法で実力を上げて、誰からも認められるアーチストに育って、向こうから「ギャラなどははずみますから、ぜひともうちのイベントに出て下さい、メインステージでいい時間で」と言われるようになればいいだけのことだ。もちろん簡単ではないけれど、不可能なことでもないと思う。それを最初から「やっぱり諦めますよ」とか言ってしまうようなバンドには未来はないのだろうし、逆に「やれるまでやり抜きます」と言ってくれるバンドには未来が開かれるのだろうと思う。そして、そんなガッツのあるバンドたちのことを、これからもバックアップしていけるような、そんなレーベルでありたいと思う。