Sunday, August 21, 2011

数と力

 民主党の代表選挙が行なわれる。らしい。本当に行なわれるのかさえ僕は懐疑的に見ているが、それでも一応はあるらしい方向で報道は進んでいる。

 今回の代表選挙では、現執行部側の政策を引き継ごうとしている勢力が野田佳彦財務大臣を推していたが、大連立発言と増税容認姿勢で批判にさらされ、急遽前原誠司前外務大臣を担ごうとしている。けれども前原氏にしても違法献金問題が解決しているわけではなく、立候補し、仮に民主党代表イコール総理大臣ということになったら確実に火だるまだろう。それもあってか、前原氏は慎重姿勢を崩していないが、だとすれば現執行部の跡を継げるのは一体誰になるというのか。

 そんな情勢で、菅総理大臣の「若い世代に引き継ぎたい」という言葉を真に受けたか、これまで代表候補などこちらも思いもよらない人たちが次々と名乗りを上げそうな勢い。もちろん推薦人を集めなければ立候補さえ出来ないわけで、今手を挙げそうな人たちが全員立候補なんてまず無理だ。そういう人たちは要するに今後の代表レースに出る資格を作るため、代表選前に名前を売ろうと懸命なのだろう。小泉氏も何度自民党総裁選に敗れたか。目標を実現する前には、足場固めも必要だし、そのためには立候補も難しくともテレビに出られる機会を得るのは悪くない。それにもしかしたら最大勢力のみこしとして担がれる可能性だってないわけじゃないのだから。

 最大派閥とは言うまでもなく小沢一郎を支持するグループのことだ。400人からいる民主党議員のうち、約140人がいるといわれている。それに鳩山グループ約40人を加えたら民主党の過半数に届こうとする。民主党の場合自民の派閥とは違って比較的緩やかで、複数のグループに所属する議員もいるし、グループのリーダーに必ずしも従うとは限らないので単純に読むことは出来ないが、それでも小沢グループが圧倒的な影響力と結束を持っていることは間違いないし、だから、代表選挙に出ようとする人たちが無視することは出来ない。むしろ、なんとか助けを借りたいと思うのが普通だろう。助けを借りられればグループを持たない候補も推薦人で苦労することは無くなるし、あわよくば代表、すなわち総理にだってなれるかもしれない。だから馬淵氏や小沢鋭仁氏はもちろん、小沢氏を排除してきた側にいる野田佳彦でさえ小沢氏に挨拶をしにいく。

 これをして、またメディアは小沢氏を叩き始める。きっかけは自民の石破茂氏が「また小沢詣でがはじまった。かつての自民党派閥政治を見る思いだ」と発言したことだ。その発言に一斉に乗り、「数が正義なのか!」と言いはじめた。

 では、数を否定して民主主義は成立するのか?他の何を信じるべきというのか?その否定は、選挙も否定することになる。そのことを石破氏もメディアも理解しているのか?

 数は力である。そのことを否定してはいけない。民主主義とは基本的には様々な課題を解決する上での意見集約方法であり、僕らが社会に生きる上で、前進していくための最大のエンジンだ。これを否定するなら、独裁を認める以外に方法はない。

 問題はいくつかある。まずは意見の集約をするふりをして数を操作することだ。ある場合は金だろう。お金で意見のない人の頭数を買うということ。これは民意をねじ曲げる。電力会社がメディアにものを言わせないために広告宣伝費を大量にバラまくのは判りやすい例だといえよう。

 次に、数の数え方をブラックボックスにするということ。どのような方法でその数が導かれたのかが不明な数は、民意とはかけ離れる。メディアがよくやる世論調査はこの好例だ。

 また、声を荒げるのも大きな問題だ。話し合いの場で大きな声で叫ぶことで議論を進展させないこと。以前の株主総会で、総会屋と呼ばれる人たちがよくやっていた手だ。最近ではジャーナリストと呼ばれる人の何割かがこの手を使って他の意見を封殺しようとしているのをよく見かける。

 最後に(他にもあるかもですが)、少数意見の無視も問題だといえる。数は力というが、正義であるとは限らない。力があるものがその力で他を苦しめるのは正義とはいえない。民主主義で忘れてはならない点は、少数意見に配慮をするということである。なぜなら、民主主義を成立させている母体集団で民主主義が成立するのは、対立する意見はあっても分裂はしないということが前提になるからだ。分裂すると話も出来ない。話が出来ないのに採決などは出来るわけがない。そうなると民主主義は崩壊する。だから、少数意見に対しても配慮し、同じ集団であり続けることを多数側が配慮することが不可欠になる。それが正義だ。同時に、少数意見の側も多数の意見がなぜ多数を占めているのかということに対しての考慮と配慮が求められる。なぜなら、少数意見が多数意見との折り合いを付けずに頑になることもまた、民主主義を崩壊させる元になるからだ。

 
 話は途中だが、今日はもうあまり時間がない。そうやって書いていた文章をアップせずにいることが何度もあったし、それがブログ更新をおろそかにする原因だと思っているので、今日はこの辺で、尻切れとんぼになるけれども、とりあえずアップします。言いたかったことは、数をなんでも汚職の温床のように報じることも信じることも、きっと間違いだということ。小沢氏などずっと野党だったし、約1年の幹事長を経て、与党内での活動をほぼ禁じられ、曖昧な証拠(現時点では裁判所によって証拠採用がほぼ却下されたものばかり)で起訴までされている身で、なぜそんなにも人が集まるのかを、みんなもうちょっと考えた方がいい。そしてメディアがなぜこうも執拗に集中攻撃をしようとしているのかを、もっと考えた方がいい。この国の民主主義は、公平を装った欺瞞集団と、何も考えずにずっと安心と思い込んでいる愚者の群れによって崩壊寸前だと強く危惧する。そんな集団と群れによって作られたあの施設が崩壊して国民全体の安全が脅かされている今だからこそ、みんなもっと考えるべきだと思う。民主主義の崩壊によってもたらされる未来は、放射能の恐怖など比較にならないくらい恐ろしい社会だと、僕は思う。