Wednesday, September 07, 2011

価値観について

どこから始めれば良いのかよく判らないなりに話を始めよう。

 大阪ローカルの番組での武田氏の発言に対して一関市長が抗議をしているという。「農家の感情を逆撫でする非常識な発言」だとか。その発言とは「東北の野菜や牛肉を食べたら健康を壊す」というものだったそうだ。

 人は生きる上ですべてを自分で対処することが出来ない。だから社会というものが出来るし、そこに所属し、依存もする。依存する以上、そこに対する敬意を払うべきだし、責任も発生する。国や自治体には本当に頭が下がる思いだ。でも、だからといって無批判に盲目的信頼を置くというものでもないし、そうであってはならないとも思う。

 僕らには、自由というものもあるのだ。

 先日厚生労働大臣になった小宮山氏がタバコ税を段階的に700円までに持っていきたいと発言して問題になった。僕は、くそくらえと思った。僕自身はタバコなど吸わないし、だからむしろ周囲でタバコを吸う人が少なくなって欲しいと思っている。でも、他者の自由を侵害してまでそうあるべきとは思わない。なぜなら、他人の自由を侵害するということを認めたら、いつ自分の自由も侵害されるか判らないし、その時に反抗できなくなるからだ。

 タバコについてはいろいろな人がいろいろな立場や観点から発言をしている。愛煙家は「タバコがそんなに高くなるのは困る」という。そして財務大臣は「税を決めるのは財務省の所管だ」といった。いずれも、税の問題である。要するにお金のこと。僕はそれはどうでもいいと思っている。僕が問題に感じたのは厚労相の「健康の観点からみて、タバコはやめた方がいいでしょ」という発言だ。健康という大義名分を使って税を取ろうとする。税をどこで取るのかはともかく、個々人の健康に対するリスク管理を国が指図するのかというのが問題なのだ。もちろん国民の健康を考えるのは間違っていない。タバコが健康に良くないのも常識と言っていい。だが、タバコは嗜好品であり、違法なものではない。本当に国民の健康を害する危険極まりないものであるならば、法で禁止すればいいのだ。それはしない。で、タバコの害を知った上でそれを吸っている人は、リスクを判った上で吸うことを選択しているのだ。その選択が「間違いだ」と国が言い、間違った選択を国が正してあげるから、その方法として税を上げますよと言っている。タバコを吸っている人には自分で禁煙する能力もないだろうから、国が税で経済的に締め上げて禁煙させてあげようということだ。そんなバカな話があるか。

 でも、バカな話はそこら中にある。宮城県知事は「詳細な数値を出したところで消費者の皆さんは理解ができない(ので、安全か安全でないかを提示するだけで良い)」と言った。要するに自治体が安全と言えば安全なので従いなさいということ。じゃあどう安全なのかという検証は県民にさせない。それでいいという人はいいけれど、他人の判断に任せてはおけないという人は絶対に安心など出来ない。事実宮城県知事は「500ベクレル以下であれば、どれだけ食べても全く問題がない」とも言っている。どういう科学的見地からそれを断言できるのか。「食べ続けた結果健康を害したという報告は受けていない」というならまだしも、「食べ続けても全く問題がない」だ。あきれてものが言えない。

 放射能についての認識がその程度の人たちによって基準値が引き上げられ、その基準値未満の作物は「不検出」として出荷されている。それが健康にとってどうなのかは判らない。タバコもそうだ。吸った人が確実に10年以内に肺がんになるというのかというとそうではない。煙草を吸い続けてぴんぴんしている人もいれば、吸わなくても肺がんになる人もいる。確実な因果関係が言えるのかというと実は微妙だ。では、だからといってタバコをOKにして、これまで禁煙エリアだったところでも喫煙OKとすべきなのか。そうではないだろう。喫煙による健康被害を恐れる人は少なからずいて、だから受動喫煙をしなくてもいいように禁煙エリアが設けられているのが現代の日本だ。つまり、自分の健康を自分でコントロールしたいという人がいるから、社会はそうなってきたのである。

 これは価値観の問題だ。健康を大切にするから煙草は吸わないという価値観。逆に、健康も大事だが多少のリスクを承知の上で煙草を吸いたいという価値観。どちらが正しいということではない。どちらもその人にとって大切な価値観なのだ。その両方を守るためには、禁煙エリアと喫煙エリアを明確にするということが必要で、タバコを吸う人は自分の吸える場所が少なくなっても、吸わない人のことを配慮して。煙草を吸いたくない人は、一部の喫煙エリアを認めることで吸う人のことを配慮する。それが文化的な社会の在り方だと、僕は思うのだ。

 同様に、放射性物質に汚染されているかもしれないものをどこまで許容するのか。汚染による健康被害について、チェルノブイリの経験である程度判ってきていることがある。そして、科学的に証明されていないことも沢山ある。つまり、不確かなことしか僕らの前には提示されていないのだ。ある意味「お化けはいるかもしれないし、しないかもしれないし、暗いところでは気をつけてね」と言われているようなものだ。お化けを信じていない人は、一切大丈夫、暗いところでも平気ですと言うだろう。しかしお化けが恐い、いないとは思いつつも怯えてしまうという人は、暗いところは避けようと思うだろう。それは、感じ方だし価値観だ。お化けが恐い人に「怯えるな」というのも怖くない人に「怯えろ」というのも筋違いなこと。両方の感情と価値観は尊重されて然るべきことなのだ。

 放射性物質の恐怖について、どこで線を引くべきか。これも確たる拠り所はない。だから人によって気を遣うラインが変わってきて当然だ。宮城県知事の500ベクレルってなんだろう。食べ続けたら蓄積されるのに、そのことへの考慮ってなんなのって思う。電力会社が作ったPRで、プルトくんは「プルトニウムは飲んでもほとんどが体外に排出されるから安全なんだ」と言ってたらしいが、宮城県知事はそれと同じ考えなのだろうか? つまり誰しも恐れる訳で、自分で安心したい訳で、だから数値をきちんと知りたいのだ。具体的には「何処産の何という食品にはどのくらいの放射性物質が検出されていて、それが店頭に並んでいます。この量のものをどのくらい食べると年間の内部被曝はこのくらいになり、他の空気中から受ける影響と地面から受ける影響と、その他諸々合わせて年間の被曝量はこのくらいになります」ということを知りたいのだ。年間の被曝量をどのくらいなら良しとするべきか。それは人がどこに住み、今何歳で、家族はどうで、仕事はどうでといった様々な条件を組み合わせて判断するべきことだ。本来なら被曝などしない方が良いに決まっている。だが、やむにやまれぬ事情で仕方ない場合、どこなら納得できるのかということを、それぞれがそれぞれの事情に応じて考えるしかない。

 それを、県知事の判断で「数値は言いません。ただ県の言うことを信じなさい」というわけだ。宗教か? 宗教でなければ一体なんなんだ。信じるための根拠を示せというのが当然の要求であるはず。それが出来ないのは何故なのか。パニックになるから?パニックになるのは余程危ない数値が出てるんじゃないかと邪推しますよ。それとも検査が面倒なのか。面倒なら面倒でいいから、検査はしてませんと言えばいい。確実にみんな不安になって買わなくなるから。そうじゃなきゃ、農家を守るためか?農家を守って食への安心には目をつぶるって、本末転倒だと思う。むしろ正しい数値を出さないことで、疑心暗鬼は深まり、逆に農家を追いつめているように、僕は思う。

 今回の様々なことで判ったことは、お上は国民の安全への判断を取り上げたいと思っているんだなということ。安全だと言ってるんだから信じろ。健康に悪いから四の五の言わずに禁煙しろ。給食は安全なんだから弁当なんて持ってくるのは禁止。それって個人の自由について何を考えているんですかって、僕は聞きたい。多分何も考えていないのだ。個人の自由よりもお上の強制権が優先している。発想がそうだ。極めて危険なことだと思う。

 この流れがどこに行くかというと、結局成田闘争という振り出しに戻ることになるはず。成田空港を作る時に用地を確保しようと、広がっていた田畑を買収しようとした。それに不満を持つ人たちに過激派が手を貸して激しい闘争が繰り広げられた。その結果どうなったかというと、今も成田の敷地の中にぽつんと農家が存在している。そのおかげで滑走路は短くせざるを得なかったりするし、そういう過去を経ているために、つい最近まで東京の人は羽田から海外に行くことが出来なかった。ぽつんと存在する農家も、ああいう形を望んでいたわけではないはず。だが一番最初に「お上の言うことを聞いて立ち退け、お金が欲しいならやるぞ」という姿勢を見せたから、態度を硬化させてしまったのである。最初にもっと個人の考えを尊重しつつ「国の発展のためにはどうしても必要なんだ」ということをきちんと説明していれば、もっと違った結果になっていたと思う。今回の「お上が安全というんだから黙って従え、売ってるものを黙って食え」「お前の健康のことを考えてやっているのだから、逆らうなら税金で締め上げるぞ」という態度があからさまになると、その反発も怖いぞと思う。事実スーパーなんかでは東北産の産物はどんどん値が下がってしまっている。これはもちろん東電に一番の責任があるのだが、数値を明らかにしようとしない自治体の責任も決して少なくない。

 『日本改造計画』という小沢一郎の本の中に、「グランドキャニオンには柵がない」という有名な一節がある。日本なら柵を張り巡らせて景観を台無しにするだろうに、グランドキャニオンにはその柵がない。無謀なことをして落ちたらそれは自己責任なのだという話である。これは小沢氏の考え方の一端をうかがわせる話なのだが、やはり日本ではお上が安全に対して口を出しすぎるのだと思う。だから多くの国民が自治体やテレビが言うのなら安全だと思い込むし、そう思わない人を「農家の感情を逆撫でする非常識」だと非難してしまうのである。もちろんそこで安全に口を出すことで、自治体は自分の権威を示したいのだろうし、権威を示す裏には予算的なものもあるのだろう。それが本当に安全を考えているのならいいのだが、実際はそうではないから怖いなあと思うのだ。「500ベクレル以下であれば、どれだけ食べても全く問題がない」というのが安全だと言う根拠なのである。そんなこと、信じてると大変なことになるよと、心の底から思う。

 もちろん、放射能物質に対する反応も、人それぞれでいいのだ。「安心と思う人」「騒いで右往左往する危険の方が放射能よりももっと危険と思う人」「人生をありのままに受け入れるので、影響があっても構わないと思う人」「500ベクレル以下ならどれだけ食べても問題ないという人」「農家のことを考えて率先して食べるべきと思っている人」「太く短く生きるんだという人」「どうせ健康に被害が出る割合は少ないのだから、自分はきっと大丈夫と思う人」「多少の放射線はむしろ身体にとっていいんだと考える人」等々、いろいろな価値観があって、それを否定するつもりなどさらさらない。それはその人たちの価値観だからだ。正しいとか間違っているではない。僕は神も仏も存在するとは思っていないが、だからといってそれを信じている人を非難するつもりもない。それと同じだ。それぞれの価値観はそれぞれに尊重され、守られるべき。だから、放射能は危険だから出来るだけ避けたいと思っている人のその価値感も、同様に守られるべきだと思う。そう思わずに自分の価値観を強制しようとするのは、人であれ自治体であれ、大臣であれ、やはりクソだと思う。