Monday, September 19, 2011

コンセプト

 人は誰しも自分が価値あるものだと信じたい。価値あるものとはなにか。そこにもいろいろな考え方があるだろう。生きる価値があるということ。その考えで言えば誰もが価値あるものだ。それを信じているからみんな死なずに済んでいる。だがそれとは別の、生きる価値以上の、他人の生にも意味のあるという意味での価値。そういうものが、あるものでありたいと願うのだ。

 僕もそんなことを考えながら生きている。生きる上でそんなことを考えていると、結局「自分とは一体何物なのか」「自分には何ができるのか」「生きる意味とはなにか」ということを思わずにはいられない。思うことで、混沌の海だった思考は漠然とながらも一つの方向に収斂していく。生きるということは数え切れない選択肢を選択していくことであり、一つ一つの選択は何らかの価値基準によって決定されるものである。人が言葉を発するとその言葉が言霊となり発する者だけでなく聞く者さえも縛っていくように、自らの選択はまた自らを縛っていく。縛られることで、自分の行動規範は確固としたものになっていき、人格を形成していく。つまり、ある程度の人生を過ごしてくれば、どんな人にも自分の哲学というものは出来上がってくるのだ。

 だが、その哲学を具体的客観的にどういうものなのかということをきちんと説明することが出来る人は少ない。歩けるけれども歩くメカニズムを解説できる人が少ないのと同じ。喋れるけれども言語の文法を解説できる人が少ないのと同じ。行動はできてもその行動規範としての哲学を説明できる人は少ないのだ。

 哲学を説明できないということは、最終的には自信を持った生き方ができていないということでもある。しかし、人は自分の生き方に自信を持ちたい。意味がある人生を送っているという確信を持ちたい。だから、自分の行動と近似の行動をしている人の生き方を参考にしようとする。そのモデルとなるべき人物の生き方を、メカニズムとして解説されれば、参考にしようという市井の人はより確信を持った生き方をできるようになる。そのモデルには、おそらく誰もがなれるのだ。

 解説されるべきメカニズムは、既に自分の中にある。問題はそれをわかりやすく解説することだ。解説するために自ら客観的に理解することだ。それを端的な言葉で表現できれば、メカニズムはコンセプトとなり、強い訴求力を持つようになる。持てば、そのコンセプトを自らの生き様に重ねて自信を持つ人が出てくる。そうして影響を広げていくことができるようになるのだ。

 言うのは簡単なこと。だが行なうのは難しい。

 しばらくは自らのコンセプト作りにチャレンジしてみたいと思う。