Monday, September 26, 2011

信頼できるシステムの崩壊

 僕らは一人で生きることは出来ない。だから社会というものが形成されるのだ。そこで何故生きられるのか。それは、その社会というものを信じているからだ。子供は親を信じて生きる。成長したら人は社会を信じる。青信号は渡っていいはずだし、電車は決められた通り目的地に向かうはずだし、レストランで出されるものは食べても大丈夫なはずだし、国家は国民を守ってくれるはずだ。それを信じられなかったら、どうして生きていくことが出来ようか。

 もちろん、人間のやることに完全は有り得ない。青信号でも突っ込んでくる車はゼロではない。電車は遅れるだろう。レストランで食中毒はたまに起きるし、国家が予期できない災害で人が死ぬことだってある。親が子供を虐待死させることさえ完全には無くならない。

 そういう不幸な出来事が起きた時に、社会は何らかの備えをする。突っ込んできた車の運転手は裁かれる。電車が著しく遅れたら払い戻しされる。食中毒が起これば業務停止になるし、災害で被害を受ければ国は対応をしてくれる。虐待された子供は保護され、親は裁かれる。もちろん時計を元に戻して不幸をなかったことにすることは出来ないだろう。しかしそういう対応をすることで被害を最小にしようとするし、不幸を起こした者にはペナルティが科せられるという共通認識があるから、誰もが不幸を起こさないように最大の注意を払う。

 だから、僕らは必要以上に不幸な出来事を恐れずに、一定の安心をもって生きることができるのである。

 しかし今、社会に対する信頼は最近がらがらと音をたてて崩れつつある。

 原発の問題はその最たるものだろう。事故を起こした責任は追及されようとしない。食の安全は確保されない。国は安心しろというものの、安心できる根拠は示されない。そのことを語り始めるときりがないのでこの場では控えるが、原発事故とその後の対応は信頼が大きく崩れたきっかけとなった。

 今日、石川知裕衆議院議員をはじめとする小沢一郎氏の元秘書3人への東京地裁判決が出た。有罪だった。これだけを言うと「秘書は悪いヤツ」「その親分の小沢一郎はさらに悪いヤツ」というイメージが植え付けられるだろう。だが、ことはそんなに単純なことではない。今回の裁判は単に秘書3人が政治資金規正法違反に問われるということで終わる話ではなく、小沢一郎の政治生命への影響というところに発展する。むしろ小沢一郎の足を引っ張るためにこの事件を立件したと言って間違いないだろう。だからこそ、民主党が小沢代表の下で政権を取ろうというタイミングでの大久保秘書逮捕だったわけだし、国会開会の3日前での異例の国会議員逮捕だったわけである。

 もちろん、それには両論がある。石川議員含む3人の元秘書のやったことが悪質極まりないという人もいるし、本来は報告書への記載ミスを指摘されて修正すればいい程度のことという人もいる。さらには、記載されているのだから隠蔽でもなんでもないし、そもそも違法行為ではないという人もいる。どれが本当なのかは誰にも判らない。だが、同じような記載ミスは沢山あるし、西松建設からの献金も小沢一郎だけではなく、他の人たちは記載さえしていないことを考えると、やはり公平な取扱いとはとてもいいがたいし、逮捕のタイミングなどを考えても異常なことだと言わざるを得ない。法の正義とは何か、その公平な適用とは何かを考える時に、このような異常なバランスが目の前で起こり、これまで罪になど問われなかった事柄で一国の総理大臣候補を追い落とすようなムーブメントが起こりえるというのは、とてもショッキングな出来事だった。

 僕は、この事件で法や社会への信頼が著しく揺らいでいると感じている。これまで原発事故でも信頼は失われた。官僚の腐敗でも信頼は失われた。それらのほとんどは経済的な私欲に基づいた社会の歪みだった。そりゃあ作った米や牛乳を捨てたくないだろう。捨てさせたら補償しなきゃいかんから「安全だよ」と言いたいだろう。自分の故郷を捨てたくないだろう。批難したいという人に補償はできるだけしたくないだろう。退職金は満額欲しいだろう。訴えられたくないだろう。臭いメシは食いたくないだろう。そういう人が社会の公益を優先して私欲を抑えるのは、本来いけないことだが人情的に判らなくもない。社会に私欲優先の意識がはびこるとそこにあるべき信頼は崩壊する。そして現に崩壊している。子供を虐待する親を責める資格がある大人はどれほどいるんだろうと思うくらいにこの社会はヤバい。それでもなお、信じなければ生きていけないのだから、なんとかして信じたいと思ってきた。

 だが、今日の元秘書たちへの判決は、法の正義への信頼さえも崩壊しつつあるように感じられる。法の下僕らは平等であるべきだ。しかし、その信頼が失われている。ソ連や中国の警察組織を信じられるだろうか。北朝鮮の警察組織を信頼できるだろうか。そこに公平があると思っているだろうか。メディアはやたらと批判する。僕らもそういうニュースを見て「ああ、日本人でよかったな」と思ってきた。しかし、今や日本の警察検察に対して全面的な信頼を置ける人はどのくらいいるんだろうか。それでも裁判所は公平だと期待していた。だが、今回の判決で、その期待も儚いものだなということを知った。もはや日本というシステムの隅々にまで不信が浸透している。

 僕らの世代が子供の頃には、いい大学に行きいい会社に入ろう、そうすれば終身雇用で生涯中流の安定した暮らしというものが約束されると、そんな期待があった。だから疑問も持たずに多くの若者は受験勉強に勤しんだ。だが、今となってはそれも幻想。良い学校に行ったからといって安定などしない。不況で倒産リストラは当たり前だし、そんな状況で、どうして青春を犠牲にして勉強に打込めようか。

 それでも不況はある意味仕方のないことでもある。良いときもあれば悪いときもある。だが、正義に不況などはない。あるのは不正義がまかり通る社会かどうかということだけだ。どんなときであっても、個々人がプライドを持って暮らし、正しくないことへは正しさを求める勇気を持ちさえすれば、いつの世の中も公平で正しい社会を実現することは可能なはずだ。しかし今回のように裁判所が不当を許し、社会のバランスを崩し、社会正義への不信を増大させるようになってしまったら、僕らはこの社会で安心して暮らしていくことなど出来ないし、そこで頑張ろうという意欲は沸くはずもない。ことによっては、日本国民の不安だけを増大させる結果を生んだ、とんでもない判決だったと僕は思う。

 なんか、話がまとまってないなと自分でも思う。判決の報道を知り、さっきの石川議員の記者会見を聞き、その後徐々に出てくるニュース速報のうねりや方向を見るにつけ、判決のどこがポイントなのかや、問われている問題が何なのかを報じているニュースが極めて少なく、一方で自民党の石原幹事長の「議員辞職を求める」という発言ばかりが報じられていて、かなり絶望的な気分になってきている。多少まとまりに欠ける文章になっているのはそのためだ。だが、何か今日のうちに書いておかないとマズいような気がしたので、殴り書きではあるけれども、こんな感じになった。

 ああ、つらいよ。