Tuesday, September 27, 2011

機会の平等無き社会

 昨日の判決について様々な議論が噴出している。様々というが、実際はこの判決の不当性について語る声が多いような気がする。もちろん僕自身が見たい意見を見たがっているという点はあるだろう。だがその点を差し引いてみても、やはり判決批難の声ばかりが目立つ様相のように思える。そんな中、「この裁判官が良心を持っていればこんな判決は出せなかったはず」という言葉がいくつか目について気になった。良心を持っていればこんな判決を出せなかったというのはどういうことなんだろうか。それは個人の良心によって職責を超えた判断をすることを認めるという意見なのだろうか。僕はそれは違うと思う。まったく誤った意見だと思う。

 もちろん人には心がある。そこには良心も悪意もあるだろう。今回の裁判官は明らかに踏み込んだ解釈と判断をしている。証拠として採用されていないことがらを状況証拠として推認して、有罪判決を導き出している。これはこれまでの法律の運用からすると明らかに踏み込んでいる。踏み込むとは一体なんなのか。それは個人の心をそこに過剰に当てはめるということだ。ある人から見た「良心による行い」は、対立する人から見れば「悪意に満ちた行動」に映る。今回の判決は、小沢支持の人からみれば「悪意に満ちた行動」であり、判決だと映るはずだ。だが、それは裁判長の心の価値基準に照らせば、「良心に従った結果」そのものだったのだろう。この裁判官には「良心」があったのであり、その「良心」を過剰に判決に盛り込んだため、証拠無視の推定有罪を推認したのである。小沢支持者にとっては悪意そのもののとんでも裁判長と映ったのだろう。

 僕は、今回の判決は不当だと思う。だがそれは裁判官に良心がなかったからなのではない。彼に法の番人として法を守ることへの意識が欠けていたから導かれた不当判決なのだ。

 現在の政治の世界で、小沢一郎というのは官僚に対抗できる実力と信念を持つ唯一無二の存在であると思う。だから彼の手足がこの裁判で縛られているというのがものすごくもったいないと思うし、縛っている者たちは千回八つ裂きにされてもまだ足りないとさえ思う。その既得権益者によってこの国の進歩が止まっているのだ。その点は改めて確認したい。当然今回の判決も彼の手足を縛ろうとするものだし、そういう点でも納得は行かない。

 だが、今回の判決のポイントはそこではないと思う。

 僕はこの社会に生きる上で、公平に生きたいと思う。法律は誰に対しても平等であるべきである。それが担保されるから、安心して生きていけるのである。誰かが自分に危害を加えようとしても、最終的には法がそれを防いでくれる盾となる。裁判は公平であらねばならない。有罪を言い渡す場合は、明確な証拠がなければならないというのが、その公平さを担保する大きなルールであり原則だったはずなのだ。そのルールが今回破られている。これを許せば、社会の公平など簡単に吹き飛んでしまう。

 僕らは法の下の裁きを受ける権利がある。公平なルールで裁かれる権利がある。それは誰にとっても等しく平等にある権利であって、それはすなわち、機会の平等ということそのものなのだ。

 どんな社会が理想なのか。それはその人その人の哲学によって変わってくるだろう。僕は、機会が平等にある社会が理想だと思っている。就職しようとするときにも、コネですべてが決まるのではなく、公平な試験によって決めてもらえる。頑張った人は評価され、頑張らなかった人は評価されない。もちろんそこで敗北した人にも最低限のセーフガードが整えられているということは必要だが、いくら頑張ってもステップアップできなかったり、家柄がいいからトントン拍子に認められるようなことは、社会としてはおかしな話だと思う。その逆は、結果の平等社会だ。頑張っても頑張らなくても同じ生活。善行をしても犯罪を犯しても同じ。小学生の運動会で全員一等賞というのはどう考えてもおかしい。その究極がかつての社会主義国家なのだろうか。結果の平等は悪平等そのものだ。

 今回の判決は、証拠が無くても有罪は可能だということを示している。それは、等しく裁判を受ける権利を著しく侵害している。すなわち、この判決は機会の平等そのものを否定する判決になってしまっているのである。僕らはいつ告発され、無証拠で有罪を受けるかもしれない。それは、この国に安心して暮らし続けるルールとしてはまったくもって不適当である。

 政治は政治家そのものの人間的力量で動いていくものである。しかし、司法はそこに属する人員の人間的力量を排除してもなお公平に動いていかなければならない。そうでないと裁判官によって判決が変わるということになり、決められた法律がルールではなくなるからだ。そうなったら、僕らが公平に裁きを受ける権利が侵害される。それはまったく困ったことである。裁判官には(悪意と表裏一体の)良心など要らないのである。要るのは、法律をどう公平に適用するのかということに腐心する法律の番人としての遵法精神だけなのだ。