Thursday, October 06, 2011

普通の日

 僕は今こうして普通に会社で仕事をしている。朝に大きなニュースが入ってきたものの、こうして普通に会社へとやってきている。ツイッター上では悲しいと、大きな喪失感と、涙が止まらないと、多くの人が多くの声だ。そりゃあ僕も驚いたけれども、こうして普通に仕事をしている。

 親が死んだら、普通は会社を休むだろう?

 最近は誰もが声を上げられるし、その声を多くの人に届けられる。だから調子に乗っちゃってまあ、我こそはもっともその人のことを理解しているかのようなパフォーマンスが繰り広げられるのが、なんか気に入らない。ホームページにかの人の写真をドーンと載っけたのは誰だ?その人はどこでどうやってその写真を準備したのだ?仕事だろう。御大の様態が芳しくなくて、だからいつでもその日が来てもいいように、前々から準備をしていたのか。

 ストアには献花がされているという。そのストアは、ロゴマークの看板の電気を落としたというが、それでも営業はしているのだ。札束を持って銀色のヤツを買いに行けば売ってくれるのだ。仕事をしているのだ。みんなバリバリ仕事をしているのだ。

 それでいいと思う。親が死んだのではないのだ。普通に過ごせばいいのだ。感傷などクソくらえだ。

 長年の友人が電話をかけてきた。僕も彼も、機械がもたらした可能性に夢を託して独立したクチだ。そして、かの人の年齢が実感よりも若かったことに考えさせられたと言った。2分ほどその話をして、今一緒にやっている仕事の話に移った。立ち止まっている暇などありもしない。

 そうして今日という1日は過ぎていく。明日も同じように過ぎていくだろう。あなたは今日、悔いのない1日を過ごしましたか。明日も悔いのない1日を過ごせそうですか。たとえ明日が自分の最後の1日になったとしても悔いのないくらいに?

 その問いにこたえることが、僕らの悼みなのではないだろうか。彼のスピーチを何回か聞いて、改めてそう思った。


 とはいえ、一つの時代に区切りがついたことは間違いないことだと思う。