Friday, October 07, 2011

読んでいる本

 英語本読書の日々を一旦休止し、最近は日本語の本を少し読んでいる。堀江敏幸のゼラニウムという短編集を読んだ。名前は知っていたものの読んだことがない作家だったけれど、先日エッセイ集の中で「水野忠雄先生のこと」という一文があって、それを立ち読みして気になるようになった。水野忠雄というのはロシア語の教授で、私も早稲田で授業を受けたことのある人だ。水野先生は昨年亡くなった。僕は卒業以来親交など無かったのだけれど、一昨年だったか、同級生で今は新聞社のロシア支局長を務める友人の結婚式に出席され、僕とは隣のテーブルになった。在学中からふくよかな方ではなかったけれど、一昨年拝見したときはさらに痩せ、眼光鋭い老人になっておられた。だがロシア語を教えていただいた約20年ほど前は、目もとが柔和で優しい印象の人だった。堀江氏のエッセイでは、そういう水野先生の柔らかく人懐っこい感じが描かれていた。それで、作品も読んでみようと思ったりしたのだった。

 他には、吉田修一の新作『平成猿蟹合戦図』を読んだ。面白いと評判だったが、個人的には終盤で無理矢理つじつまを合わせたような印象で、なんかイマイチだった。結局兄は一つのパーツとしてそこにはめられているだけだったのか、暗くて不幸な人という以上の人間描写があるべきだったんじゃないのかという気がする。ストーリーを展開することに登場人物をはめていくべきなのか、それとも登場人物が描かれることでストーリーが展開されていくべきなのか、その辺は諸説あるだろうし、僕が絶対に正しいという自信も無い。が、自分としてはストーリー構築的には少々ご都合主義的だったのではないかなあと感じたのである。じゃあ自分に書けるのかと言われれば全くそんな自信はないし、芥川賞作家に素人が何をいうのだという気もしないではないが。

 で、現在読んでいるのがグレッグ・イーガンの『万物理論』。1995年に描かれた2055年の世界。ここで主人公は情報採掘ソフトに「○○について僕は約120時間で精通する必要がある。それは実行可能か?」と声で指示をする。するとコンピュータはある単語について知っているのかと主人公に問い、その単語への主人公の認識度合いを確認してから「120時間あれば話を聞きながら相づちを打てるようになるには十分です。当を得た質問をするには足りません」と答える。主人公が「ではどのくらい?」と聞き「150時間です」と答える。

 現在は2011年だ。執筆時からは16年が経過している。16年前とはどういう時代なのか。Netscapeのバージョンがまだ1の頃。その2年前にmoziraが開発された。例のWindows95が発売されるのがその年の末である。当時はまだ「ホワイトハウスの犬(のムービー)が見られる」「ある大学のコーラの自販機が売り切れているかどうかがモニターできるんだ」と喜んでいた時代だ。その頃、自分がある問題に精通するのに何時間必要かを答えてくれるソフトを想像しているというのがすごいなあと思う。現在はわからないキーワードを打込めば即座に答え(らしきもの)を返してくれるという状況まで来ている。そういう状況になってくると、この本に描かれている未来は、執筆当時よりもリアルな近未来に思えてくるし、だから、そういうソフトが登場するということは荒唐無稽というものでなく、むしろそこまでの壁は何なのかということがより理解できる。とても面白いなあと思う。

 そこで描かれているシドニーでは、2030年代あたりから都心部の衰退が始まって、オフィスや映画館、物理的実態を持つ美術館などがみな時を同じくして廃れたという。小売店舗も都市部には存在しない。もちろんこれは小説の中の描写に過ぎないのだが、あまり非現実的なことだとも思いにくい。それが良いのか悪いのかという議論とは別に、確実にそういう方向へと向かって行っているような気がする。そういう意味で、この小説はとても面白いと思う。2055年まではあと44年あり、僕自身がその近未来を体験することが出来るのかどうか判らないが、小説はそういうことを疑似体験させてくれる。面白いなと思う所以である。