Sunday, October 09, 2011

魂の行方

 今日の昼間、奥さんが借りてきたDVDを一緒に見た。今年の春頃に見たいなと思っていたものの機会を逸した映画だった。感想をちゃんと書くとどうしてもネタバレになるので、映画のタイトルは伏せておきたい。知りたい人がもしもいらっしゃったら、Twitterで質問してください。

 普通の学校生活のようなシーンが続く。だが、映画の中の学校は普通の学校ではない。その異常さが断片的に描かれるものの、基本はやはり普通の学校のように見える。異常な学校で行なわれていることは異常な欲望のための犠牲なのだが、その犠牲になることを生徒は受け入れる。それを見ていて、「ああ、これは異常なシチュエーションの異常な物語ではないのだな、僕らの周りにある普通の学校で行なわれていることと基本的に同じことを描いているんだな。普通の中にある異常性を、異常な世界での普通の生活に仮託しているんだな」と思った。

 学校を卒業した後、主人公はある期待を持って学校関係者に会いに行く。学生時代に描いた絵について、それが生徒の魂が優れているかどうかということを証明してくれるはずだという期待だ。しかしその場に突如現れた元校長はこう言い放つ。「絵を描かせたのは魂が優れているかどうかを見るのではない。魂があるのかどうかを見るためだ」と。

 魂があるかどうかを見ると言う元校長と、魂があるかどうかを疑われている元生徒。本当に魂があるのは一体どちらなのだろう。この学校の教育は、生徒のためにあるのではなく、学校側のためにあるのだ。さらには、学校がどういう存在を社会に送り出してくれるのかについて期待している社会のためにある。これは僕らの学校にもいえるのではないか。頑張って勉強して、場合によっては青春時代を犠牲にしてまでも成績のいい生徒が生まれるのは何のためなのか。社会が上手く回るため、企業がこき使う人材を獲得するためなのではないだろうか。まあそこまで露骨じゃないにしても、教育はある意味矯正であり、社会に適応するためという意味合いがある。それでもその矯正で個々が幸せになれればいい。だが、幸せという定義についても教育で叩き込まれた場合、その幸せは幸せなのかという問題に突き当たる。映画の主人公たちも、自分たちの運命について、涙を流しながらも受け入れてしまっている。

 僕らも自分の運命とやらを受け入れるしか無いのかな。そんな自分に「魂があるかどうか」を疑ってて、それを当然と思っている「校長」的な立場の人は誰なんだろうか。

 でも、僕はこの世の中でそういう学校や仕組みには抗いたいよ。自由に生きる権利があるんだよって、この映画を観て思った。


 題名を言わずに感想を書くのって、難しいね。でもネタバレを恐れてなにも書かないよりはずっと楽しい。この作品は奥さんが翻訳を読んですごく感動してて、それで僕も読んだ作品。小説を読んでから映画を観るとどうしてもダイジェスト的になってしまって薄っぺらくなるものだ。この作品も全編を余すことなく描こうとすると表面的にストーリーを追うことになるのかもと思って観てた。前半はかなりのペースで展開して行って、おいおいそこをそんなに端折るのかよって正直思った。この学校の異常性はかなり後半になって判っていくのだが、それがかなり最初の段階で示されてしまう。だが、小説で比較的軽く書かれていた後半以降の部分を映画では細かく描写していて、それで物語にも深みが出ていた。小説の映画化は斯くあるべしと思った。小説とはまた違った意味で、秀作だと思う。