Tuesday, October 11, 2011

ミノタウロスの皿

 ブログタイトルは藤子・F・不二雄のマンガである。ウィキペディアによると1969年の作品。僕は中学か高校の時に読んだような記憶がある。

 簡単なあらすじはこうだ。宇宙船である星に辿り着いたら、そこには地球の牛のような生物が支配しているところで、人間のような生物が「ウス」と呼ばれて飼われている。家畜の「ウス」は食用で、その年のもっとも育ちの良い「ウス」が最高級の食材として「ミノタウロスの皿」として祭典で饗される。主人公は「ウス」の女の子に恋をするが、その子が次のミノタウロスの皿に選ばれる。主人公はなんとか助けようとするが、女の子自身が「ミノタウロスの皿に選ばれることは名誉なこと」だと考えている。

 ミノタウロスというのはギリシャ神話に登場する牛の顔を持つ怪物で、ミノス王がポセイドンを裏切ったため妃が呪いをかけられ、このミノタウロスを生むことになる。「ミノス王の牛」を意味するのがこのミノタウロスという言葉だそうだ。ミノス王はこのミノタウロスを迷宮に閉じ込め、ミノタウロスの食料としてアテネの少年少女を迷宮に送り込んでいる。

 現代では起こりうべくも無い話だ。だが宇宙には何があるか判らない。神話でも人間界の常識は通用しない。しかし、神話にもマンガにも寓意は存在する。それは仮定の話の中に純粋な構図を作ることで、人間世界にあるリアルを閉じ込めるということなのかもしれない。僕も中学か高校の時に読んだこのマンガに、何かを感じた。価値観とは何なのか。僕らは普通に牛を食べている。牛は人間に食われるために育てられている。なぜ人間は家畜を飼うことを、そして食うことを許されるのか。立場が変わったら、僕らも食われることを名誉に思う必要があるのか。人間は牛の言葉がわからない。だから何を思っているのかなんてまったくわからない。食われることを良しとして生きているのか。それとも抗いたいという思いがあるのか。そもそもそんな価値観なんてものはまったくないのか。だがマンガの中では「ウス」は喋る。食べられることを名誉だと考えている。支配層の牛も「ウス」が食べられるのは当たり前だと考えている。姿形が逆転するその世界のことを、僕らは容認すべきなのか、それとも否定すべきなのか。

 中学高校の頃に考えたのはおおよそそういうことだ。しかし今、僕はちょっと違うことを考えるようになってきている。

 社会の中で生きる場合、そこのシステムから逃れることは難しい。もちろんガチガチに支配される社会もあれば、比較的個人の自由裁量がある社会もある。日本は比較的自由な社会だと思う。それでも何でも好き勝手ということは許されない。

 好き勝手ではないということは、社会のシステムが個人の自由を抑制する要素があるということだ。抑制すると反発を生む。社会が上手く回るためには、その反発を抑えなければならない。抑える方法は大きく分けて2つだ。ひとつは、締め付けだ。法的な強制力を支配者側に与えることで、市民はそのシステムに従わざるを得なくなる。そしてもうひとつは、理由付けだ。何故そのシステムに従うべきなのかについて、肯定されるべき理由があれば、人は反発をやめる。名誉を与えるということもいいだろう。勲章が欲しくて命を投げ出す人たちもいる。名誉でなければ経済的インセンティブもあるだろう。優遇政策は有効な手段だ。その他に、価値観の付与という方法だってある。社会のモラル、美徳というものだ。倫理が大事なのはそういう理由もある。

 40代後半に差し掛かった僕の子供の頃の将来像というのは、勉強ができれば褒められるというものだった。だから勉強をする。成績が良くなると褒められる。いい大学に行けばいい就職ができる。そうすればいい人生を送ることが出来る。是非はともかく、それが一つの価値として信じられていた。だから受験戦争という言葉も一般的だった。いい就職をしたいかどうかは別にしても、同級生よりもテストの点がよければ単純に嬉しかった。先生からも褒められる。親からも褒められる。成績が良いということは当時の社会のシステムの中では重要なことだった。そのためなら、高校生という楽しい時代に遊ぶということを犠牲にして勉強に打込むのも当たり前だった。それが当時の価値観だったといってもいい。

 しかし今、いい大学でいい就職という路線が幸せと直結するのか、かなり怪しくなってきた。そもそも幸せって何なんだろう。そういう疑問はさておいても、いい大学いい就職ということで得た人生よって生涯の安心が得られるのか。社会情勢の変化によって安定は次々と揺さぶられる。優良企業だったはずの会社が傾き、リストラに遭う同級生も少なくない。

 今、日本は激しく揺さぶられていると思う。それは景気の問題だけではない。国家財政の先行きの不透明さから来る将来設計の危うさは今に始まったことではないが、それに輪をかけるように、東北の震災と、それによってもたらされた原発事故と放射能汚染。日々の暮らしで安全に息をして安全に水を飲み安全にものを食べるという、そういう基本的な部分まで脅かされている。将来の経済的な安心だけではなく、健康の安心までもが脅かされている。その中で、僕らは生きていかざるを得ない。明らかに年初とは状況が変わってしまったのだ。

 それなのに、変わらなかったかのように暮らしている人も少なくない。不安など無いように以前と同じ暮らしをしている人が驚くほど多い。それは一体どういうことなのだろうと、心から不思議に思う。

 思うに、この現状はミノタウロスの皿なのではないだろうか。様々な理由から、自らが食用として生かされ、望まれる最高の状態で食卓に供されることを望んでしまっている人が多いのだ。そこに価値を見いだし、それを目的として日々を過ごし、多くの人に賞賛されることで喜んで自らの命を提供することをやぶさかではないと思い込んでいる。それに対して違う価値観の人間がいくら叫んで、考えを改めさせようとしても、そんな声など届きはしないのだ。社会のために、自分に出来ることを全力でやりたい。多少の自己犠牲があったとしても、それは社会のためになるのなら喜んで犠牲になろう。そう思っている人に、別の価値観から怒る声など何の意味も持たないのだ。


 あなたの価値観とはなんですか。あなたの人生は何のためにあるのですか。あなたが信じている人生の目的とは、食べられることを最大の喜びと信じて疑わない「ウス」の目的と同じなのではないですか。僕の価値観は違います。食べられたくなどないのです。自分の人生をかけて誰か他人の胃袋を満腹にしたいなどとは思わないのです。だからそんな目的や価値観を強制されることからは逃げますよ。どこまでも力の限り逃げて、食われたりしないように頑張りますよ。たとえその逃亡の努力には限界があって、この社会のどこにも逃げ場などなかったとしてもです。