Friday, October 14, 2011

中立性と自己中心的行動

 最近注目したニュースは、ベラルーシの専門家の話だ。「ベラルーシの民間の研究機関、ベルラド放射能安全研究所のウラジーミル・バベンコ副所長が12日、東京都内の日本記者クラブで記者会見した。東京電力福島第1原発事故を受け、日本政府が設定した食品や飲料水の放射性物質の基準値が甘すぎ、「まったく理解できない」と批判、早急に「現実的」な値に見直すべきだと述べた。」というもの。

 僕はこの副所長の意見に対してどういう見方をするべきなのか、少々迷うところがあった。なぜなら、このニュースはいくつもの要素を孕んでいると思ったからだ。

 まず、僕らは自分の見たい意見だけを目にしがちであるという現実があって、だからどうしても偏った考えに陥りがちである。放射能は危険だ、安全を死守せよという立場の人は、往々にしてもっと規制を厳しくせよと言う。その立場に対抗するような意見には激しい反論をするか、そうでなければはなから耳を貸さないという態度を取る。一方で原発推進の立場の人は、推進の理由が何であれ、推進に寄与する意見を大いに受け入れ、反原発に繋がる意見を排除したがる。僕は、両者の態度は基本として同じだと思う。

 そういう態度は、必ず間違いを犯す。完璧な人間はいないのだ。情報を完全に取り込むことができずに偏った知識で問題を見た場合、本人の理解力とは別に、誤った判断をしてしまうのだ。後に自分が間違っていたと気付いたとしても、そこからは引き返せなくなる。だから、どんな時も中立で公平な立場を維持し、両方の意見をちゃんと聞き、両方の意見に含まれている正しい部分と間違った部分を見極めるように務めることが必要だと思うのだ。

 僕は東京でさえ危ないと思って関西に移住したクチだ。東京が本当に危ないのかなんてわからない。危なくないのかもしれないし、危ないのかもしれない。それは数年後、十数年後にならないとわからないし、ある人には影響が出てある人には影響が出ないということだってある。インフルエンザが大流行しても全員がかかることはないし、流行していないのにかかって死んでしまう人だっている。だからこの放射能問題も何が正解なのかはわからない。ちなみにインフルエンザの予防注射も僕はやらない。かといって予防注射をする人が愚かだなんて言うつもりは無い。人それぞれが自分の考えで動けばいいだけであって、どれが正解なのかということは事前に判るものではないと思う。

 しかし、危ないことがわかってからでは遅いということで移住している。その場合、その選択が正しかったと思いたいという欲求は確実にある。誰でもそうだ。自分の選択が正しいと思いたい。そうでなければ日々を不安と後悔に包まれて生きなければいけなくなる。それはいやだ。だから、自分の選択が正しかったことを裏付けてくれるような話に乗りがちだ。原発がいかに危険かと、東電と政府がどれだけ極悪な組織なのかと、海も田畑も汚染されまくりだと、東京も住めたものではないと、そんな話についつい擦り寄ってしまう傾向は否定出来ない。

 でも、それに乗ってしまったら自分の中の公平な目というものは死ぬ。今は正しい結果を生み出せていたとしても、次に起こる何かの問題の時に必ず間違う。それを避けるためには、やはり中立な立場をいかにキープするのかについて心を砕く必要があると思う。

 そういう思いで今回のニュースを見たとき、ベラルーシという単語をなぜ今ここで持ち出さなければいけないのかということが疑問として頭に浮かぶ。そして、日本の飲料水の基準が暫定で200ベクレル/kg。ベラルーシは10ベクレル/kg。20倍の開きがあるという。この時、どの基準が正しいのかはなかなか判らない。ベラルーシがそうなっているだけで、10ベクレル/kgというのは本当に正しいのかはわからない。本当は100が正しい値で、日本が高過ぎてベラルーシが低すぎるのかもしれない。「ベラルーシでは内部被ばくの影響を受けやすい子どもが摂取する食品は37ベクレルと厳しい基準値が定められているが、日本では乳製品を除く食品の暫定基準値は500ベクレルで、子どもに対する特別措置がないことも問題視。「37ベクレルでも子どもに与えるには高すぎる。ゼロに近づけるべきだ」と指摘した。」とあるが、実はここが大切で、10ベクレル/kgだって高すぎるということなのかもしれない。だとしたら10も200も同じく危険だといえるだろう。自然界にも放射性物質はあって、だから生きている限り常に危険という究極の諦めに突き当たるもいいだろう。
 
 要するに、本当に正しい値など判らないのだ。ベラルーシの値より低くても影響が出る場合だってあるし、日本の値より高くても影響がない場合だってあるだろう。僕がベラルーシの副所長のニュースを見て感じたのは、ベラルーシから来ている人の言うことだから絶対に正しいという思い込みが生まれるなという点だ。彼が嘘を言っているというのではない。彼の言うことさえ、正しいかどうかなど判らないのだ。そのことを前提として考えていかないと、必ず間違う。だって、25年後に日本の専門家は海外で事故が起きた時に必ず何かを発言するだろう。その人の言うことは完全に正解なのか。そうじゃないだろう。その人がどういう立場で日本の事故を見ているのかによって答えは必ず変わる。御用学者的な安全論や、自治体の長のような安全論を言う人だって絶対にいる。武田氏や小出氏のような危険を伝えようとする人も絶対にいる。ベラルーシから来た人が必ずしも大正解を持っているとは限らないのである。だからこれも一つの意見として、他の多くの意見と併せて咀嚼していくことが求められているのではないかと思う。

 
 中立性をもった見方をしなければいけないというのは、正しい判断をする上でとても大切だと思うし、それなくして正しい行動は有り得ないと思う。だが、中立性をあまりに重要視すると、今度は中立を見極めることに主眼が移り、結局何の判断も行動も導きだせなくなってしまうだろう。それは本末転倒だ。政治の世界でも「議論を尽くせ」とよく叫ばれる。もちろん議論は大切だ。そして議論をする人たちがすべて中立性を重んじる思考の持ち主であれば、一定の議論を尽くしたところで結論を出せるだろう。しかし、議論をする人たちに中立性が無く、自分の立場を叫ぶだけの、議論に不向きな性質の人たちだった場合は、議論百出したところで結論など出ない。それが個人の中で展開されると、自分の次の行動さえ決まらないということになってしまう。それはダメなのだ。

 最近はいろいろな圧力が世の中に蔓延している。同調圧力というのもその一つだ。「一つになろう日本」というスローガンが震災直後に蔓延した。なんで一つにならなきゃいけないのかという議論をすっ飛ばして「一つになろう」だ。これはたまったものじゃない。先日もこういうつぶやきを目にした。「東北の農作物を食べないという人はいい。しかしオレは食べるよ。食べない人に食べない自由があるように、食べる人にも食べる自由がある。だから出荷するなということを言う人のことを絶対に許さない」と。許さないと言われるとちょっと動揺してしまう。これが、圧力だ。

 先のつぶやきには、欠点があると思う。もちろん食べる自由も食べない自由も存在する。それは煙草を吸う自由と吸わない自由がそれぞれあるのと似ている。だが、タバコはタバコであり、それを買って吸えば吸えるし、買わずに吸わなければ吸わずにもいられる。副流煙を拒絶する人の為に禁煙スペースが設けられ、それも最近はむしろ逆転して喫煙スペースが設けられて、それ以外ではなかなか吸えないという状況になっている。だが、東北の農作物はタバコとは違う。もっと言えば東北という括りも本来おかしい。それを拒絶しようとする人は東北が憎いのではなく、放射性物質による汚染を恐れているだけなのだ。だから、個別にどこでいつ採れた作物なのか、そしてそれにはどのくらいの放射能が検出されているのかを明示すればいいのだ。そうじゃなくて、作物それぞれにベクレル表示などされず、場合によってはいくつかの米をブレンドすることで「国産」という表示だけでいいということになってしまっている。そんなことをされるのであれば、もう出荷そのものを止めて欲しいという極端な意見が増えているだけなのだ。それは例えて言えば、タバコをタバコとして売っていて、それを吸えば肺がんの恐れがありますよと警告文まで表示して、それでも吸うのならどうぞご自由にという話であって、もしも販売している米の中に、米と同じ形状のタバコが含まれていたとすればどうだろうか。ほうれん草の中に煙草の葉が判らないように混ぜられていたらどうだろうか。そういう危険を感じるような状態で「食べる自由もあるから、出荷するなという声は許さない」というのが、かなり間違ったものであるのは自明のことだと思うのだ。

 それでも、食べるよという人は黙々と食べていればいいし、出荷するなと言う人はそれを言い続けていればいいのだと思う。どちらも極端だ。だが、それぞれが安心して暮らしていくための基準や価値観が違うのだから、一方を責めたりするのは間違いだし、責められたとしても、毅然として自分の信じる行動を続ければいいのだと思う。それは正しい自己中心の姿勢だと思う。

 僕らは中立性をもった視点で自らが信じられる答えを出す権利がある。中立性を失うと間違った答えを出す恐れが高まるので十分に気をつける必要があるわけだが、気をつけさえすれば、その結果出した答えに従って、誰が何と言おうと自ら信じる生き方をすればいいと思う。そのために、ベラルーシの人の意見は有益か、武田教授の意見は有益か、官房長官の意見は有益か、東電の説明は有益か、裁判所の判断は有益か。いろいろと考えながら生きていくのは難しい。