Saturday, October 15, 2011

悼む

 ソーシャルネットワークでは誰もが発言者だ。発言をするか、沈黙するかの二者択一だ。発言すれば注目され、沈黙すれば黙殺される。発言はある種の圧力を持って人に迫る。ああ、何をつぶやこうか。そんな毎日を送っている人も少なくないだろう。

 誰もがそんなにネタを豊富に持っているわけではない。だから、発言しやすいネタがあればすぐに飛びつく。そのひとつとして訃報がある。有名な人が死んだ。それは誰もが共通して語れるネタだ。だからみんなどんどんつぶやく。あの人が死ぬなんて。信じられない。まだ若いのに。悲しい。

 本当か? 本当に悲しいと思っているのか? 僕はウソだと思っている。いや、ウソは言い過ぎだ。だが、悼むにも資格はあるだろう。その人のことを過去1年にちょっとでも思ったことがあったのか。青春時代に大きな影響を受けたのか。実際にあったことがあるのか。その人がどんな人だったのか訃報を聞いてからウィキで確認しなきゃいけない程度の人のことは、悼んじゃいけないと思う。悼んじゃいけないというのも言い過ぎだけれど、あんまり知らない人のことを軽々しく悼んでばかりいると、本当に悼むべき個人的な人のことを、重々しくリアルに悼むことができなくなるはずだ。

 過去にもブログで書いたとは思うが、僕自身いつ書いたのか覚えてないし、一度書いたからそれを参照しろなんてエラそうなことを言えるわけもないのでまた書きたいエピソードがある。それはもう知ってるよという僕のフリークなんて人がいたら済みません。最初に謝りながらも筆は(キーボードは)進む。

 大学時代、体育館のような大教室で通年の授業を受けていた。出席カードを回収することで単位がもらえる、色に関する授業だった。カードを提出したら抜け出しても問題無し。だから大教室はいつもガラガラだった。僕はその授業が好きだったから毎週欠かさずに出席し、図解入りのノートもちゃんと取った。普段座る前から4列めの机はいつもなら実質的な最前列だった。試験はないのだ。出席だけが単位の条件だった。それでも僕は毎週ノートを取り続けた。その授業はずっと続いて欲しいと思っていた。

 しかし終わりは必ず訪れる。最後の授業の日、大教室は賑わっていた。前から4列めの指定席は既に埋まっていた。仕方なくその近辺に座る。いつものように授業は淡々と進む。僕の周囲を埋めていたのは見慣れない女子学生だった。そいつらが喋る喋る。うるさいなと思いながらも試験に出ない授業を、役に立たないノートに取るのに懸命だった。そしていよいよ授業が終わる。教授が最後の挨拶を始める。するとさっきまで喋りまくっていた女子学生たちが我れ先にと拍手をしだした。「この瞬間がいいのよねえ」と話していた。アホか。授業にも出ず、出ても聴かずに喋り、それで単位が取れれば良いという姿勢で、なんで「この瞬間」に感動出来るのか。僕は拍手に追随することもなく、1年の授業は終了した。

 感動と悼みは違う。だがそこに感情の揺らぎがある点では近いものがある。感動や悼みの対象となるもの(人)に対して、近しい人の感情の揺らぎは自然である。だが、遠い人の感情の揺らぎはまやかしに過ぎない。僕はまやかしの中に自分を置きたくないと強く思う。だから、ニセモノの感情が渦巻いているところに、いたくないと思う。

 昨日、有名な歌手が亡くなった。やはりいつもと同じようにお悔やみの言葉が並んだ。その中にはYouTubeのリンクを貼っているものも少なくなかった。おいおいと思った。だから僕はつぶやいた。「追悼で彼の人の曲をYouTubeでタダで聴く人たち多数。それは追悼じゃなくて香典泥棒ですよ。最期くらい敬意で曲を買え。」当然彼らは買わないだろう。だって、彼らは悼んでいるのではなく、ただ騒ぎたいだけなのだから。ソーシャルで発言するネタを拾っただけなのだから。

 タイムラインを埋めるお悔やみの言葉、あの大半は祭りだよ。もちろん中には心からのお悔やみもある。だが、大半の祭り状態の上辺的な言葉の中に、本物の言葉は埋没していく。だから、僕は訃報に際してもなにも言いたいとは思わない。埋没してもいいじゃないか。他人は他人だよ、本当に悼む気持ちがあるのなら埋もれてしまうことなど気にしなければいいはず。だから、僕は本当に悼む気持ちがある場合は心の中でつぶやいている。祭りの輪の中にいないことさえも、気にすることなどまるでないのだ。