Monday, June 10, 2013

規制の理由

 東京都が路上での弁当販売を規制するそうだ。そんなニュースをどこかで読んだ。どこかという程度だから真偽のほどは定かではない。まあそんな程度の話と思って読んでもらえたらありがたい。

 で、東京都の意向がどうなのかはともかく、そのニュースに対していろいろな人がいろいろな意見を言っていたのが気になった。代表的なものとしては「500円くらいの昼飯は貴重なんだ。規制されたらとても困る」というもの。一方で「夏は食中毒増えるだろ。あんな路上で売ってる弁当がどういう作られ方をしているのかわからないし、規制して当然」という意見もかなりあった。そういう意見を受けて「自己責任で買って食うんだから、食わせてくれ」という人もいれば、「あれを食うというのは自己責任で自分や家族が食中毒で死んでも文句は言わないということだな。弁当屋を訴えたりするなよ」という人もいた。

 なんでこんな風な話に発展するのかなあ。

 ではこれを遺伝子組み換え作物に置き換えてみたらどうだろう。「遺伝子組み換えの作物の方が安く輸入出来るから加工食品も安く買えるんだ。規制するのはおかしい」という意見も出てくるだろうし「遺伝子組み換えで人体にどのような影響が出るのかわからない危険な食品だ。だから規制すべきだ」という意見も出てくるだろう。

 また、放射能の話はどうなるんだろうか。「福島第一近くの放射線量は高いので、そこに住むのは規制してすぐに集団移住すべき」という意見もあるだろうし、「そうはいっても自分の住み慣れた土地だよ。放射能は目に見えないし、多分大丈夫だと思う。住みたい人は自己責任で住めるようにしたいよ」という意見もあるだろう。

 原子力発電所の活断層問題はどうなるのか。「地下にあるのは活断層なので、運転禁止で廃炉」という意見も出てくるし、「活断層活断層と言ってる規制委員会はうっとおしいなあ」という意見も出てくるだろう。

 僕が感じた問題は一体なんだったのか。それは規制をする理由なのである。規制しやすいところに対しては規制するし、規制しにくいところには規制しない。そして規制しやすいところへの規制を強く肯定する人たちの多くは、規制しにくいところへの規制しない理由を殊更に述べる。その理由こそ、規制しやすいところに対する規制の理由とは真逆になっていることが面白い、というか、苦々しい。

 路上弁当での食中毒だが、確かに可能性を否定は出来ない。だが危険を指摘するような弁当での死者は出ているのか?これから起きるかもしれない。だったらそうならないように個々に監視すればいいだけだ。免許制にしてもいい。だがそうしない。すべてを規制して排除する。それは市民の健康の為に努力をするというものではなく、規制することによって監視する労を逃れていると言われても仕方が無い。さらにはそのエリアの飲食店や弁当屋へ利益供与していると言われても仕方が無いだろう。そもそも移動販売をつぶすには駐車違反で通報するのが最良の方法だったりするわけだが、今回の場合は駐車違反ではなく食中毒という理由で一斉規制というわけだ。しかも食中毒での被害者がいない段階での話である。規制によって潤うのは誰かとついつい勘ぐりたくなってしまう。

 だが、この規制の名目上の理由は市民の健康と安全である。ほんのわずかな健康被害が起きる可能性をも排除しようと、一斉にすべてを禁止にしようとする。その規制によってそれまで安価な昼食の恩恵に預かっていた人たちの利益を無視してまで、わずかな健康被害の可能性を排除しようとしている。なるほど、それほどまでに健康は大切なことなのだ。家族に食中毒が起きることは地方自治体にとってなんとしても避けなきゃならない重大事なのだ。ならばそれでいい。それをすべての自治体は徹底すればいいと思う。

 一方で、原発関連の話になってくると状況は一変する。放射能汚染による健康被害はどう考えられるのだろうか。放射性物質による健康被害は2年経った今も確認されていないそうだ。でも、絶対に起きないという断言は誰もしてくれない。過去の様々なデータによるとこうであるという人はいるが、それが2年前から今日までそして今後も続く前代未聞の状況で通用するかどうかもわからない。しかも福島の若者における甲状腺がんは異常なまでの数になっている。もしこれが原発事故に関係のないことなのだとしたら、風疹の全国的な流行と同じように日本全国でがん検診なり調査なりを行なうべき事態だと思う。だが行なわれない。危険ではないと自治体は言い張る。これに関して何かを規制したりということはまったく行なわれようとしない。

 原子力規制委員会が敦賀原発の真下には活断層があると認定した。これによって敦賀は廃炉を余儀なくされそうである。しかしこれに対して敦賀市議会は大反発。自民党が作る「電力安定供給推進議員連盟」でも規制委員会はなんとかならないかと不満が爆発寸前だと。規制は安全の為に行なわれているわけであり、それに反発するということは、すなわちわずかな危険の可能性については目をつぶり、原発によって得られる利益を優先するということだ。つまり、市民国民の健康のことは二の次三の次ということに他ならない。

 では、どうするのが正しいのだろうか。いくつかの可能性がある。まずは「安全に不安が残る何かについては例外無く規制をする」ということ。次に「安全への不安はとりあえず置いておいて、儲かる為には一定レベル未満の危険については目を閉じて規制はしない」ということ。路上弁当販売の規制について強い口調で激論コメントを寄せていた人は僕に対しても「だからお前はどっちなんだよ、何でも規制なのか、それとも規制一切無しなのか」と問いつめてきそうだ。

 だが僕の答えはどちらでもない。いくつかのファクターを加味しなければ意味が無いからだ。そのファクターとは、規制の対象の在り様と、規制によって失われる選択肢と、規制する側の論理である。

 規制の対象の在り様とは、例えば弁当規制であれば路上販売をする弁当屋であり、原発関連であれば電力会社などである。それを見るとまず言えるのが、小さく弱い者は簡単に規制され、大きく強いものは規制されないということである。これはやはりおかしい。本当に安全至上主義なのであれば、大きかろうと小さかろうと規制すべきなのだ。そして規制することによって市民ひとりひとりの権益が失われてしまうことが問題なのであれば、大きかろうと小さかろうと規制すべきではない。しかし現実としては、大きいものは見逃され、小さいものは規制される。そこには安全に対する配慮とは別の論理が働いている、いや別の論理しか働いていないとしか思われない。

 規制によって失われる選択肢とはなにか。例えば路上弁当であれば、そのエリアで昼食をとる人たちがどんな昼食を選ぶのかということについての選択肢のひとつが完全に無くなるということである。そこには自己責任というものが存在しない。「食中毒になっても弁当屋を訴えるなよ」と言う人がいたが、「食中毒になっても弁当屋を訴えない、その代わりに路上販売の弁当を食いたい」という人が現れたらどうするのか。どうにも出来ない。「オレは命より1コイン弁当だ」という選択をする自由は、ある意味憲法で保証されているとも言える。だがそれを規制は排除するのだ。そのエリアにいる「路上弁当で食中毒になりたくない」という人と「食中毒のリスクを招致で1コイン弁当を食べたい」という人の、両方の選択肢が尊重されるべきなのだが、残念ながら規制は一方のみの選択肢だけを残す結果になってしまう。

 では原発関連はどうだろうか。原発のリスクというのは個々に関わってくるのではなく、地域全体が負わなければならないリスクになる。弁当であれば周囲の99人が食べても自分だけが食べなければリスクを回避することができる。要はリスク管理を自分で行なうことが出来る種類のものだ。だが原発事故は地域に住めば自分だけが回避出来るような種類のリスクではない。つまり原発を動かすということは、万が一のリスクを住民すべてに課すのであって、規制をするかしないかというのは必ず一方の選択肢のみを残す結果となる。

 原発問題についてはいろいろな議論がある。経済的に動かさねばならないという意見もあれば、危険を回避することが何より大事という意見もある。どちらの意見を通しても、逆の意見を否定することになる。経済力低下のリスクを無理強いするのも横暴なら、自己の不安を無理強いするのもまた横暴である。しかしこの問題については、どちらかしかない。動かすか動かさないかしかなく、そのどちらになっても他方へ我慢を強いることになる。解決は本当に難しい。

 しかし、路上弁当の規制は、知恵と努力で中間での妥協が可能な話だ。安全をチェックし、それが確認されるものは販売を許可し、万が一事故が起きた場合の罰則を明確にすることさえ出来れば、食中毒の危険を回避し、安い弁当を求める人の要求も満たされる。だがそれを「安全」を盾に一斉に規制しようという動きが簡単に起きる。安全とはそれほどに重要な話なのか。だとすれば、原発も「安全」を大義名分として、万が一のリスクをも避ける為に禁止すればいい。だがそれは行なわれない。それがやはりこの国のおかしなところだと思う。