Wednesday, June 12, 2013

自分のことのように

 人との距離感をはかるというのはとても難しい。近寄り過ぎてもダメだし、遠く離れ過ぎるのはもっとダメだ。離れすぎるならもう他人。他人であれば距離感などはかる必要はなくなる。

 自分が思っている相手との適切な距離が、相手が思っている自分との適切な距離ではないことも多い。それが、よかれと思って近付いて失敗したり、よかれと思って距離を置いて失敗したりすることにつながる。まあそれは絶対の正解などないことで、永遠の試行錯誤しかないんだろうと思う。

 子供が出来て思うのは、まだ0歳児の息子にとって父親は絶対的な無距離の存在なんだろうなあということだ。仕事から帰宅するとドアが開く音ですぐに察知する。僕が息子に直行してあげれば満足なのだろうが、一応手を洗ってからじゃないとマズいと思うから洗面所に寄る。すると泣く。手を洗って息子のところにいくとキャッキャと笑う。ああ好かれているなと親バカな僕は嬉しくなる。

 こんな息子に、ご飯を食べさせる。お風呂にも入れる。オムツだって替える。ウンチをしてたって当たり前のように替える。朝早く5時台に起きて突っつき始める息子に付き合って起床する。大変だ。こんなことができるようになるとはまったく思っていなかった。でもこれ、自分の息子だから出来ることなんだろうか。それはよく判らない。甥っ子姪っ子ならどうだろうか。友人の子供なら、他人の子供ならどうなんだろうか。献身的に接することができるのだろうか。

 そこは、やはり距離感の問題なんだろうと思う。自分と息子の関係は、ある意味「それを自分のことのように」出来る関係だと思う。そうでなければウンチの処理など出来ようか。自分のウンチは当然処理出来る。だが、奥さんのだったらどうなんだろうか?自分のことのように考えられるから出来ることを、奥さんのためにどこまでできるのだろうか。いや、いざという時にやる気は満々だし、能力的にも出来ると思う。だが、その時の感情そのものは、いざそうなってみないとわからないとも思うのだ。

 それは介護という問題とも関係があるのだろう。幸か不幸か今現在自分が介護をしなければならない対象が周囲にはいない。だが、いずれそういう事態が起こる可能性はゼロではない。その時に下の世話を含めどこまでそれを自分のことのようにこなしていくことができるのだろうかとちょっと思う。まだちょっとだけでしか無いけれども。

 0歳児はやがてオムツの時期も終わる。それは成長という形で終わりを迎える。その終わりの日が来るのを願ってていい。だからそれまでの手助け的な意味合いがそこにはある。しかし介護というのはそうではない。要介護になれば死ぬまで介護だ。終わりを願うなんてことは不謹慎に当たる。終わって欲しいが、終わることを願ってはならない。それはなんか難しい感情だ。

 世の中には義理のお父さんの介護をしているお嫁さんもたくさんいる。そういう人がどこまで自分のことのように世話をすることが出来ているのだろうか。もちろん自分のことのように感じる必要はないしそんな義理も無いかもしれない。人間関係は様々だからだ。しかし自分のことのように感じられた方がひとつひとつの作業が気分的に楽なはずで、だったら自分のことのように悟れればいいのだが、それもそう簡単なことではないと思う。どんな気持ちでそれをやっているんだろうか。

 なんか話がよくわからなくなってきた。介護の話をしたかったのではない。それに介護のことなど経験もなければ語る資格もない。そのこともよく判っている。もうすぐ1歳になる自分の息子との関係を考えながら、文章はどんどん脱線していって、収拾がつかなくなってきたよまったく。まあそんなブログもたまにはあっていいんではないだろうか。
(いつもそうだろと言われれば、反論など出来ませんけれども…)