Sunday, June 16, 2013

家族の助け合い

 家族は、助け合ってこそだと思う。それはひとつの美学であり美談であり、ある種の宗教的哲学のようなものであると思う。大切にしなければならない。そのことは結婚した時にも思ったし、息子が生まれて親となって一層強く思うようになった。自分には責任がある。そして結婚したり息子が生まれたりした時に真っ先に喜んでくれるのは家族だった。勝手に生きてきたように思っていた時期もあったが、自分は1人ではない。そうやって心配してくれていた人がいて、だから自分も家族を思わなければならないんだと、いや、思うのが当たり前なんだと思う。

 だが、それは社会制度とは別の話だ。家族がいる人は得をして、天涯孤独な人は孤独と不安の中で生きなければいけないのだとしたら、それは社会ではない。家族が貧しい人も家族が富裕な人も等しく教育を受けることができて、初めて国力は維持されるのだと思う。

 昨今、自民党が作成している憲法改正草案では「家族の助け合い」や「道徳」を書き込んであるそうだ。それは徳育の中で言われるのはいいが、法に書き込むのはおかしいと思う。逆に言えば、法に書き込まなければならないことなのか。それほどまでに家族は崩壊しているのか。

 これはしばらく話題になり続けている生活保護の問題にもつながる。要するに国は払いたくないのだ。税収が落ち込んでいるのだから、そりゃあ1円だって払いたくない。だから「不正受給」の話題をことさらに問題化し、不正受給を無くす方向に進んでいる。もちろん不正は良くない。だが、不正受給を無くすための努力が、結果的に不正ではない人たちの受給にまでブレーキをかけるようでは行き過ぎだ。そして実際にそういう状況になりつつあるらしい。

 生活保護を申請するには三親等までの親族の資産や収入がチェックされる可能性があるとの話。これはとても恐ろしいことだ。生活保護を申請するような事態というのは、様々な不義理を重ねてしまった結果だろう。そして追いつめられて生きていけなくなり、遂には申告するのである。その時に親族に知れ渡る可能性があるとしたら、不義理の上に不義理を重ねることになる。まともな人なら申請よりも餓死を選ぶ。実際にそういう例は報告されている。つまりこの国のセーフティーガードは家族愛という美名のもとに底辺の人を追いつめているのだと僕は思う。

 しかし生活保護への反発は大きい。最低賃金でまともに働くよりも生活保護受給の方が高収入になるということが大きな理由になっているようだが、それは最低賃金しか払わずにこき使っている雇用側の問題であって、受給者の問題ではない。また、仕事もせずに遊んでいて暮らせるなら誰も働かないじゃないかという理屈もある。だがそれも(特に若年層の)失業率が高く、今また更に「限定正社員制度」なるものまで登場しようとしている現状では「遊んでいるわけじゃない、仕事が無いんだよ」という叫びの方がリアルに聞こえてくる。

 それでも生活保護を「どうしても必要な人にだけ与える」ということで、三親等までの家族の収入をチェックするというのなら、それは要するに三親等までの家族は困難な家族の一員を支えるべきという思想なのだろうと思う。だったら、僕はその思想を国是として、年金にも適用すべきだと思う。年金は積み立てではない。現役世代の保険料と税金で引退世代を支える仕組みだ。生活保護が働いたり消費したりする人による税金で生活困窮者を支える仕組みなのであれば、基本的な構図は変わらない。だが、年金ではかなり贅沢出来るくらいの厚生年金をもらっている人たちがいる。厚生年金で海外旅行している人だって沢山いる。それは特段咎められることは無い。だが生活保護を受けてパチンコをしたり安酒を飲んだりするのは激しく糾弾される。子ども手当をもらってパチンコに行く親ももの凄く糾弾される。糾弾されるだけならまだしも、それを理由に精度そのものを否定される。

 単独では生活をすることが困難な人を三親等までの家族が支えることが国の思想の根本にあるべきなら、年金だって支給する前に三親等までの家族がその引退世代を支える能力があるのかを問われるべきである。家族に生活支援能力のある者がいれば、年金だって支給しなくてもいいということになる。だがそうはならない。なんかバランスがおかしい。

 僕は何も年金制度を廃止せよと言っているのではない。頑張って働いた人が老後を保障してもらうことが社会として維持可能なのであれば、それはとてもいいことだと思う。だったら、なぜその思想や制度が、生活困窮者やこれからの未来を担う子どもたちの教育に対しては適用されないのかということを言いたいのである。

 家族は、もちろん助け合えれば助け合った方がいい。家族とは、血だけの問題ではない。血をひとつの要因としながらも、お互い支えあうことによって家族は家族足りうるのだと思う。だが、それをすべての家族に対して強要するのは、それは社会ではない。それは単なる血縁関係のみによる集合体の無秩序な群れだ。社会とは、裕福な者も貧しい者も、知人が多い者も孤独な者も、それぞれある程度等しく生きていける基盤であり、制度であり、知恵である。家族ももちろんその制度を構成する一つの単位であるが、所詮一つの単位に過ぎない。そこに過度の義務を負わせるということは、別の単位の義務を軽減するということにつながる。それでバランスを取ることが出来る改正であればいいのだが、最近行われている制度改変は悪い方向に傾く改悪にしか見えない。