Tuesday, July 02, 2013

ブラック企業とアベノミクスとフロンティア

 今日の夕方帰宅する途中、鴨川の土手には涼みにきている人たちがたくさんいた。涼しかったな今日は。夕暮れに歩くのも大変心地よかった。

 京都は東京よりも日の入りが遅いとはいえ、こんなに明るいうちに帰宅するなんて以前はなかった。それは僕が赤ちゃんをお風呂に入れるためということでもあるけれど、じゃあここに涼みにきている人たちはみんな赤ちゃん育児中なのか?お父さんらしき人が息子らしき子供と一緒にベンチに座って語らっている。そういうの、東京ではほとんど見たことがなかった。住んでいたのが新宿区だったからか?それとも僕が遅くまで仕事してたから見なかったのか?よくわからないけれど、京都ではまだ明るい時間から多くの人が帰宅し、川沿いでくつろいでいたりする。夜中まで煌々と電気がついているオフィスビルなんてほとんど見かけない。

 これは僕が京都に移って以降の持論でもあるが、東京の人は高い家賃を稼ぐ必要があるから長く働くことになってしまっているのだと思う。会社で残業したい人が一定数いると、残業しなくてもいい人まで帰りにくくなってしまう。そうやって残業前提で社員が働く会社に負けないようにするには、他の会社も残業して総労働量を増やすハメになってくる。その点京都は家賃が安い。おそらく京都だけじゃなくて全国的に東京大阪以外は安いのだろうと思う。当然家を買う時の値段も東京に較べると京都は安い。それを払っていくために残業を重ねる必要はない。それでも残業して働きたいと思っても、会社全体に仕事があるわけではないだろうし、「お前1人で何やってんの」という雰囲気になれば、そうそう長時間労働をすることも難しい。そういう違いが、街全体の雰囲気の違いとしてあるように思う。

 最近ブラック企業の問題が話題になっている。ブラックで殺されるくらいなら辞めればいいと思うが、なかなかそうもいかないらしい。不思議だが。でも僕は思うのだ、ブラック企業に勤めている人はそこに勤めることが好きなのだと。いやかなりキツい言い方をしているのはよくわかっている。だが、結局はそこに勤めることを選んでいるのである。

 では何がブラックで、何がブラックではないのだろうか。そこの切り分けは非常に難しい。社会全体がブラックと非ブラックの区別を明確にしようとしているからだ。

 人が暮らすというのは一体どういうことなのだろうか。そりゃあいい暮らしがしたい。誰でもそうだろう。ではいい暮らしとは何なのか。ある基準があってその基準を満たせばいい暮らしなのではない。今日よりも明日、隣よりもウチが良ければいい暮らしということなのだ。昭和30年代前半の三種の神器はテレビと冷蔵庫と洗濯機だった。みんなそれがあれば幸せだった。だがそんなもの今は一人暮らしの学生のアパートにだってある。ではいい暮らしなのか?いや、違う。あの頃の家族が幸せを感じていた電気製品では今の日本人は幸せを感じることなどできない。そんなものは誰もが持っている当たり前のものでしかなくなったからだ。

 今よりも明日に価値をもたらすものは何か。それは2つである。ひとつは発明などのイノベーション。蒸気機関の発明が、電気の発明が人類に力を与えた。活版印刷が人類に文化をもたらした。そういう価値に人は憧れ、手に入れたいと思い、活力を生む。

 もうひとつはフロンティアだ。東部地域からスタートしたアメリカは、西部開拓によって土地を得た。土地は作物を生む。資源ももたらす。そして何より国民に土地を与える。今の日本人は家を買うために35年ローンを平気で組む。組んだ瞬間に銀行の奴隷だという意見もある。それでも人は家を持ちたがる。資産になるからだ。それが西に進むだけで、現地のインディアンを制圧するだけで手に入るのだから、それはみんな武器を持って西へ進む。だがやがて西海岸に到達する。フロンティアは無くなる。そうなると海外の未開の国を植民地にしていく。アフリカまで行って奴隷を連れてくる。現代人が掃除機を買うような感じで奴隷を欲したのだろうか。その感覚はまったくわからないが、現実に多くの人が奴隷としてアメリカに連れて行かれた。フロンティアがなかったヨーロッパ諸国も早くから海の向こうに植民地を求めた。

 フロンティアと言えば聞こえはいいが、要するにそれは他者から奪うということそのものだ。そこにいたインディアンから土地を奪う。植民地に住んでいた先住民から土地や資源を奪う。アフリカに暮らしていた人たちの人権を奪う。それによって当時の欧米は豊かになり、先進国になっていった。

 僕は、今の日本で起こっていることはそれと何ら変わらないと感じている。

 ブラック企業とは何か。それは他者から奪う企業である。その他者は顧客ではなく従業員である。ではなぜそのような奪いが起こるのか。社会全体にその要因はあると思っている。まず何より経営者の姿勢だ。企業が大きくなるためには何かを犠牲にしなければならない。手軽なのは従業員だ。従業員を酷使し、辞めるヤツは仕方ないとしても、辞めずに頑張る人は徹底的にこき使う。そのこき使いが企業に利益を生んでいく。

 経営者の次は利用者だ。経営努力の名のもとに行なわれる価格競争を当たり前として、そこまで格安でいいのかと思うような価格を当然と受入れる。利益はどこで出すのか。食材プラス調理の価格と代金の差額では難しい。だとすれば酷使される従業員のサービス残業分で利益を出すしか無くなってくるのだろう。どこまでも安くて当然の意識が、結局は従業員を酷使することにつながっていく。

 ブラック企業の従業員の残業ならまだマシだという説もある。他の業種では雇い止めだ。正社員と非正規雇用、さらにはバイトと、労働者の立場の違いはより明確になっている。正社員を守るための雇用調整といえばいいのだろうか。音楽や役者をやりたいからみずから正社員にはならないという人は、それは選んでいるのだからしょうがない。だが正社員になりたいのになれない人が増えている。なりたいのに、なれないのだ。全員を正社員待遇で雇用すると、現在正社員でいる人たちの安定や高収入が維持出来ない。だから正社員枠をしぼるのだ。その様はまるで芥川龍之介の蜘蛛の糸だ。皆が地獄から脱する糸に群がるが、全員が群がると糸は切れる。切れないようにするためには、ふるい落とさなければいけない。誰をだ?他人をだ。

 日曜日に放送されたNHK大河ドラマ「八重の桜」の一シーンでもそれは描かれていた。薩長連合軍に攻められる会津藩は城下の武士の家族を城に呼び寄せる。八重の山本家は早めに城に入るが、剛力演じる日向ユキの家族は遅れたために城に入れてもらえない。家臣の家族だろ。なぜ入れない。それ以上入れる余裕がないからだ。家臣とその家族を守るのが殿様の努めではなかったのか?先に入った人を守るため、遅い人ははじき出される。自らの安定のために他者を犠牲にする。それは植民地化された先住民族の姿と何ら変わらない。守るという建前よりも現実の兵糧の方が優先される。

 今の日本で行なわれていることは、新しい形の身分制度の復活なんじゃないかと思っている。そしてその身分制度は経済の原則という建前の下に推進されていく。経済の中にいる以上、企業は生き残りを最大の目的として活動している。生き残らなければ、やられるのだ。だから出来るだけ費用部分を削り、アウトソーシングという名のもとにコスト削減に勤めている。コスト削減は、要するに椅子取りゲームだ。企業としては椅子を準備するのは最低限にしたい。なぜなら椅子を用意するのもコストだからだ。それを削らなければ利益が上がらず、株主に突き上げられ、仕舞いには乗っとられる。だから内部留保を厚くしていざという時に備え、労働力にかける経費を最小限にしようとする。当然椅子取りゲームからこぼれる人が出てくる。じゃあその人に死ねというのか。それは無理だし、一定の労働力は不可欠なのだ。だから非正規という肩書きで同じ仕事をしろと。同じ仕事だけれど給料は少ないぞと。将来の保証も何もないぞと。それが当たり前になった2013年、さらに正社員を普通の正社員と限定正社員の2つに分けるという話が出てくる。正社員としての椅子取りゲームに勝ち残ってもまだ安心ではないのだ。このままでは蜘蛛の糸は切れる。そう脅かされ、さらに過酷な椅子取りゲームが始められる。

 身分制度が明確な賃金格差を生んだとき、それは単なる身分制度ではなく、下位身分からの奪いを意味するようになる。昔だったら同じように社員として終身雇用が約束されてマイホームを持てたような人が、非正規となりマイホームなど不可能になる。それは新たな奪いだ。上位身分の人が下位身分の人たちが当然受けていたであろう収入を新たなフロンティアとして狙い始めたことに他ならない。その舞台装置は何か。国際経済であり、株主至上主義であり、ゆとり教育である。高度な教育を国の費用ですべての国民に施すというのは、誰にも等しく知識を得るチャンスを与えるということであり、従って身分の固定化を流動的にするものだ。だから公教育をゆとりにし、裕福な家庭の子息のみが高度な教育を受けられる環境を実現する。学ばない者は非正規になる。教育を施された裕福な家庭の子息は正規になり、さらには経営側に回るチャンスを得る。一部の例外は当然ある。だが、経済が絡んだとき、この傾向は明確に結果となって現れている。

 だから今の日本にブラック企業が生まれるのは当然なのだと思う。生まれるべくして生まれたのであって、単にその経営者個人を責める問題に矮小化しても始まらない。そしてそこに勤める従業員も、ある意味そこを選ばざるを得ないという状況に置かれ、そして選ぶ。自由に選んでそこにいるのだから、頑張れよお前らと言われてしまう。だがそれは、徴兵で集められた新人兵士に鬼軍曹が竹刀でどつき回すことと、実はそんなに変わらない。そういう社会を、今の時代は当然生むように出来ているのだ。

 今日のニュースでも日銀短観が上向いたと報じられていた。高給時計が売れていると。儲かっている人は確実に存在する。しかし町工場の経営者やショッピングアーケードの主婦たちはアベノミクスの影響など無いという。当然だ。この政策はまさに新たな身分制度をさらに加速するものなのであって、底辺にいる人たちが潤うなどと期待していたら泣きを見るだけだ。僕の知人で、金融関係の仕事をしている人や大企業に勤めている人に限ってこのアベノミクスを礼賛する。奪う側に立っているからだと思う。気付いているかいないかはともかく、アベノミクスによって奪える機会を得る人は、これを礼賛するだろう。そして今が稼ぎ時だと躍起になっている。それはまさにフロンティアに進んでいく開拓者の姿だ。

 で、その方向に幸せはあるのだろうか。東京に住む人たちが高い家賃を払うために懸命に働いているという話を冒頭で述べた。それは幸せなのだろうか。僕は京都に移ってきて、個人的な想いでしかないけれども、なんかそれは違うように感じている。高い土地に高い家賃。それはみんながそこに集まっているからそうなってしまうのである。それでも人はそこに集まる。斯く言う僕も2年半前まではそこに暮らしていた。今の倍の家賃を払い続けてきた。もし多くの人がその土地を離れたら、高い家賃を払う必要も無くなっていく。離れた人が遠くの土地で安い家賃で暮らせるということだけではなく、人が少なくなれば当然東京に暮らすための固定費用も下がってくる。今は過剰に集中することでそれが高くなっているだけのこと。

 高い家賃を払う必要が無くなれば、今のように深夜までオフィスビルが煌々と灯をともす必要はなくなるだろう。そうすると居酒屋が深夜まで営業する必要も無くなって、ブラックと言われている職場も当然減ってくる。人々は理由あって東京に集中している。つまり東京に暮らすということがある意味ブラックな生活でもあるのだ。だがみんなそこを去らない。快適と思って暮らし続ける。人はブラックなものに引き寄せられるのか。それとも引き寄せておくことでブラックな働きをする人を生み出せるから社会がそうなっているのか。それも明確に答えることは出来ない。だが、まだ日の暮れていない鴨川に集っている家族の姿を見ていると、ここにはひとつの幸せの形があるように思えてならない。

 アベノミクスが盛上がっている。株価が13000円を割っても、そのことは殊更大きくは取り上げられず、今も神話のように日銀短観のいいニュースがトップで報じられる。それは、ニュースなのか。煽動ではないのか。僕はそのことが気になってならない。それが煽動なのだとしたら、一体どこに向かわせられようとしているのだろうか。大手メディアこそ、ハーメルンの笛吹きの笛なのではないのだろうか。だとしたらこの場合の笛吹きとは何なのか。そしてハーメルンの笛吹きたちが向かった先の洞窟(または沼)とは一体どこなのだろうか。時代が一方向性である以上、そこから戻れなくなることだけは確かだと、僕は思っている。