Tuesday, July 02, 2013

安藤美姫

 昨日の報道ステーションで安藤美姫が4月に出産していたことを明らかにした。たまたま見ていた僕も僕の奥さんも「へ〜」って感じで興味深く見た。彼女は今シーズンスケートに取り組んで来年開催のソチ五輪を目指すという。それで競技を引退するという。

 僕はそれを見て素晴らしいことだなと思った。いろいろあるだろう。今のところ結婚はしていないシングルマザーであることもそうだし、競技を甘く見るなという意見もあるに違いない。だが、そんなことはどうでもいいと思う。彼女が授かった子供を産む決意をし、産まれた子供を可愛いと思っているというだけで、いいじゃないか。なぜそれを批判する?批判する資格なんて一体誰にあるのだ?

 多くの人は社会の中で生きていて、その中で社会にとって在るべき人間であることを強いられる。あるべき人間であることを演じている。有名アスリートは特にそうだろう。好成績を期待される。本番でミスをしたらぼろくそに言われる。それは好成績によって手にする栄誉の大きさとの引き換えなのだからある意味仕方ない部分がある。毀誉褒貶は世の常で、賞賛は批判と裏表である。

 で、そのことは安藤美姫が一番良く知っているのではないだろうか。天才としてちやほやされて、トリノでの惨敗で批判に晒された。当時の僕も批判したと思う。何やってんだと。同じ大会で金メダルを獲得した荒川静香が賞賛される分、安藤美姫が批判された。それはある意味仕方のないことだ。彼女だって金メダルを目指したのだから。その賞賛を目指したのなら、結果がすべてだ。負ければ多くのものを失う。

 しかしその後葛藤はあっただろうに、浅田真央の台頭に苦しんだろうに、2011年のシーズンでは各大会で優勝。結果を出した。

 そんな彼女が、子供を授かった。そこでもいろいろ葛藤はあったのだろう。産めば確実に1シーズンを失うし、トップアスリートとしての体調にはもう戻ることができないかもしれない。でも結果として産むことを決意した。それはスケートを最優先して他のことをすべて犠牲にするという決断とは真逆のことであって、だから、スケート選手としての結果よりも母親になるということを選んだ彼女に、「子供を産んでアスリートやっていこうなんて甘い」などと批判をすることは的外れだと思うのだ。こんな例えが適切かどうかはわからないけれども、例えるならば末期がんであることが判った患者が、治療を続けるよりも余生を充実させることを選んだようなもので、その人に「治療を甘く見るな、がんを甘く見るな」と批判をするのは意味がない。そもそも選択の際の価値観が違うのだから。安藤美姫が出産を選択したのは彼女の価値観そのものであって、それによってアスリートとしての道が狭まったとしても、アスリートであることをとることで母親への道が狭まることよりはマシだという決断だったのだろう。それを責めることが一体誰に出来ようか。

 身の回りでは不妊治療をしている人が何人かいる。詳しいことはわからないものの、お金もかかるし何より苦痛を伴うのだそうだ。そこまでせずに授かった僕ら夫婦がどれだけ幸運なことなのかとつくづく思う。経済的肉体的な辛さを超えてまで、子供が欲しい人たちはたくさんいる。そしてその価値がある尊いことだと僕も思う。もちろん不妊治療がどのくらい有効なのかとか、医学的に倫理的にどうかという問題はあるだろう。だからといって子供が欲しいと思う気持ちを一体誰が批判出来るのだろうか。だとしたら、20代前半のアスリートが競技生命を犠牲にして出産を選んだこともまた、誰にも批判など出来ないはずである。

 とはいえ、安藤美姫は競技に復帰してソチ五輪を目指す以上は、頑張る必要があるのだろう。せいぜい頑張ってくださいとしか僕には言えないし、それ以上のことを言うつもりもないよ。安藤美姫の出産には喝采を送りたいが、そもそもアスリートとしての彼女には元々それほど期待していないのだから。いや、期待していたとしても今回の出産の選択には喝采を送るのだけれど。で、目指す以上は本気で取り組んでもらいたいし、同時に他の日本人選手たちには、出産して戻ってきたママさんスケーターに簡単に出場枠を譲らないで欲しいと思う。それはアンチ安藤美姫という意味ではなく、それぞれの選手にもプライドはあるだろうし、簡単に負けてしまっては自分がツライだろうという意味でだ。

 で、結果として誰が出たとしても、ソチ五輪は見るだろう。時間帯としては深夜の生中継になるだろうから、そんなに熱心には見ないだろう。朝方にTwitterのタイムラインで結果を知るのがいいところではないだろうか。おそらくほとんどの日本人がその程度だと思う。だとしたら余計に、1アスリートの、いや1女性の人生をかけた決断を批判などする資格はないのだ。