Tuesday, September 14, 2010

選択

 良くも悪くも、あと数時間で日本の将来にとってひとつの結果が出る。民主党の代表が決まり、そしてこれからの総理大臣が決まるのだ。

 小沢一郎対菅直人。だが実際はそうではない。守旧か改革かの戦いである。既得権益を持っている者と権益から搾取されている者との戦いである。そのことを理解しなければ、この1ヶ月ほどの騒動を正しく見ることは出来ないだろう。まあそのことは多くの人が語っているし、今さら僕がとやかく解説するまでもない。ただひとつだけ言うとすれば、ここには謀略があり、ポピュリズムがあり、恫喝があり、あらゆる手段で両勢力が対決し、覇を争っているということだ。僕ら一般市民は遠くから眺めるだけの存在ではなく、戦いの結果に大きく影響を受ける存在である。もちろんもはや僕らが何かを出来る訳ではなく、投票の行方を見守るしかないのも事実だが、こうやってなにがしかの文章を書かざるを得ないのも、この代表選が日本の歴史に於いてとても大きな分岐点だと感じるからなのだ。

 折しも龍馬伝では薩長連合が成立する頃が描かれている。既得権益側の幕府は、長州を敵視し、それと薩摩を戦わせることで薩摩の国力も奪い、独り幕府のみが力を保持しようと計る。それを阻止しようとする龍馬を捕縛し、暗殺しようとする。もしこの頃に幕府側のメディアがあれば、龍馬極悪人という情報を大量に流すだろう。それに対して前回の放送では薩長が瓦版を大量に発行することで世論を味方に付けようとする。こういう例を見ても情報とは真実伝達では必ずしも無く、大きな力を持った武器なのだということがよく判る。北朝鮮の国営放送を僕らは「ありえない」と揶揄するが、それと日本の報道は実はあまり変わらないというのが、ここしばらくの報道で見えてきた。ナチスの宣伝大臣ゲッペルスがやってきたこと、ソ連共産党の機関紙だったプラウダは真実という意味だし、政府機関紙のイズベスチヤはニュースという意味だ。だがどちらも真実でもなければニュースでもない。そういうものは民主主義の社会では本来有り得ないはずなのに、現実として一方的なキャンペーンが行われてしまっていることを考えると、それとは反対の動きを希求する人が多いのは当然だし、そういう人たちは、場合によっては国家機関によって弾圧されたりする可能性があることを歴史が物語っている以上、現在の日本の未来がどのようになるのかということについては、単に首相が変わるとかいう問題ではなく、日本において自由がどのように変容していくのかという問題であるという認識に立つ必要があるのではないかと、僕は考えるのだ。

 もちろん、完全に理想的な指導者など無く、間接民主主義に立脚するこの国の制度に於いて、独裁者などが許されるはずがない。だから制度を変え、新しい社会を築いていくというのには時間がかかる。小沢一郎がその任にあたったところで今日明日というタイミングでの変化が起きるわけではない。当然だ。政権交替を訴えて既に17年。選挙制度を変えて政権交代が可能にして、野党を結集させては裏切られ、それでもなお情熱を失うこと無くようやく政権交替したと思ったら、またそれを乗っ取られようとする。果てしない戦いだ。今回の代表選で小沢一郎は「若い諸君に引き継ぐために松明を灯していきたい」と語った。もう69歳の人間が、この長い戦いが自分の代で完結しないということを悟ったのだろう。だから仲間を育て、後進を叱咤し、その中から同じ理想に賭けようとする若手に託したいというのは、自分では出来ないことを託すわけだからもう切実な思いだろう。これほど国のことを考えている政治家に、僕は未来を託したいと思う。もちろんそれが100%正しい選択かどうかなんて判らない。だが、これは単なる政争ではなく、未来へのチャレンジなのであり、それを政争レベルで戦おうとしている勢力に負けるわけにはいかないということはハッキリしている。仮に今回破れたとしても、小沢イズムを受け継いだ若手は必ず出てくるし、正義は最終的には勝つはずだ。しかし、次世代の戦いに希望を託すのはまたさらに遠大な戦いに突入して、結果が遠くなることを意味するのだし、だったら、あと数時間後の大きな分岐点で、願わくば正しい選択をしてもらいたいと心から願う次第なのである。