Thursday, April 26, 2012

小沢氏と政治

小沢氏と政治

 今日、陸山会事件の裁判に無罪判決が出た。なにはともあれ良かったと思う。これで有罪が出ていたら、日本の司法は完全に信用を失っていただろう。

 これから、小沢氏がどのような政治行動に出るのか。そしてそれを阻止したいと考えている人たちがどのような行動に出るのか。見ものだと思う。目の前にある課題としては消費税増税論議だろう。この攻防は一体どうなるのだろうか。

 で、今日そういう感じのことをツイッターでつぶやいたら、いくつか質問を受けた。140字以内ではなかなか答えられないので、僕なりの思いをここで書いてみたいと思う。あくまで素人の考えなので、ツッコミどころは満載だろうし、そもそも政治の動きというのは机上の空論ではないので、そう論理的になどいかないのも事実だとは思っている。

 現状で消費税を増税しようとしていることは、僕には理解出来ない。日本に金が足りないから増税は必要なのだろう。しかし、普通は出るを制して入るを計るのが当然だ。しかし増税を言い出した菅野田政権下での出るを制するにあたる動きがほとんど見られない。さらには国家ビジョンについて語られたことが無い。これで増税だけやると言われても、どう納得しろというのか。

 小沢一郎は、国民の生活が第一を掲げて衆院選で勝った。だからその時の国民との約束に基づいて、今の増税論議には反対の立場を示している。そのことをつぶやいたら、「小沢氏が増税論議をぶち上げたときも景気は悪かった」という指摘をされた。もちろんそうだ。あれは1993年の出来事で、1991年あたりからバブル崩壊は始まり、景気が落ちていっている真っ最中だったと言ってもいい。そこで国民福祉税を創設するという感覚と、今の不況下で消費税を上げるという感覚のどこに違いがあるのか。そこを問われたのだと思う。いい指摘だ。

 それに対する僕の考えはこうだ。まず、国の在り様というものは国民が決める。良かろうと悪かろうと、決めた国民が責任を負う。仕方ないよ、選択を誤ったら不幸になる。それは仕方ないことだ。だから僕らはもっともっと賢くなる必要があるし、賢くなれなければ、愚民として没落するのだ。歴史は常にそれの繰り返しであって、永続する国家などはないと思う。

 しかし、もし国民が決められないとしたらどうだろう。国民の選択ではない、誰かの賢い人の選択によって、成功すればいいよ。しかし失敗して国が落ちぶれた時、その時に襲ってくる不幸は誰のせいなのだ。国民の選択によって訪れる不幸と、国民以外の選択によって訪れる不幸は雲泥の差だろう。そんなものを甘んじて受けなければいけない理由など、一応建前として民主主義国家である日本には存在しないと僕は考える。

 1993年の国民福祉税構想が発表されたときの政治の流れをおさらいしたい。小沢羽田グループが自民党を飛び出し、選挙が行なわれて、日本新党やさきがけ、社会党などなどと共に連立与党が成立した。そこでやったのが小選挙区制だ。当時の中選挙区制では、ひとつの選挙区に4〜5人の当選者が出る仕組みだった。自分の選挙区で「あいつの言っていることはおかしい。交代させるべき」と思っても、5人区で5位に入れば当選なのだ。自民党が長年与党で地盤を固めている中では、政権の交替は実質上不可能に近かった。だから、小選挙区制にして、トップ当選をしなければ落選するという仕組みに変えることによって、国民の選択を鮮明にするというのが、小選挙区制を導入すべき大きな理由であった。問題は当時の与党がみな過半数など持っていない政党だったため、完全小選挙区になれば自らの党の存亡にも関わるということで、結局比例並立を導入したため、同じ選挙区から2人当選する事態が多数起こって、国民の選択も曖昧になったものの、中選挙区制に較べれば進歩である。政治が国民を裏切れば落選させるということが可能になってきた。この政治改革が、まずあったのだということを、覚えておかなければならない。

 自民党時代に消費税は2度導入された。その後の選挙で自民党は大敗である。しかし、大敗とはいえ与党の座から落ちることはなかった。大敗しても政権は守られる。これが中選挙区だ。一方小選挙区では、比例並立のため曖昧だとはいえ、政権交替の可能性は大きく膨らんだ。だから、衆院選ごとに政権が交替することがあり得るし、だから国民が何かを選択することができ、そのことを政治も重く見る必要が出てきているんだと思う。つまり、増税をするというのは次の選挙で負ける可能性があるということだ。その可能性を作ったのは、小沢一郎たちだといっていいだろう。国民が選択出来るような政治改革を訴えて当選し、選挙の時の約束を果たして、小選挙区制度導入を実現して政権交代の可能性を作った上で、国民福祉税を問うたのである。約束をして、約束に沿った改革がまずあって、その後に増税を持ち出した。その流れが大切なのだと僕は思う。

 一方野田内閣はどうなのだ。国民との約束は、消費税は上げないというものだった。自民党政権時に歪んだ政治改革をするというものだった。それに期待して、民主党は勝って政権を取った。しかし約束をほとんど反古にして、何の改革もせずに、選挙の時のリーダーを脇に追いやって、予算を膨らませ、そして増税に政治生命をかけると言っている。せっかく国民が政治を、そしてこの国の未来を選択出来るシステムが出来たにも関わらず、そしてそのシステムの中で意思表示をしたにも関わらず、その意思表示そのものを無視して突き進もうとする。その政治選択に国民は関与しているのか?関与もしていない国の方針によって、仮に不幸が訪れたとしたら、その責任は国民が負う必要があるのか?野田内閣の責任者たちが私財を担保にその政策を推し進める覚悟でもあるのか?その点が問われるべきなんだと、僕は思う。

 だが、その答えはすでに出ている。原発事故の後処理を見れば、国の政策が失敗をした時に誰が被害を受けるのか。健康にただちに被害はありませんと言い続けた内閣だ。そして被害者が多数いて困窮しているにも関わらず、原発を再稼働させようと必死になっている。衆院選挙で約束したことを反古にし、参院選で大敗してねじれになった元凶とも言える政策を推進に躍起になっている。国民の意思などまったく無視の政権なのだ。ここになんの未来を委ねられようか。

 長くなった。まあいつも僕のブログは長過ぎるのだが。要するに、選挙では「この国をどう変えて良くするのだ」というプランを説き、支持をもらって政策実行の基盤を与えられた政治家や政党が約束を実行する。これが民主主義の基本だと僕は思う。もちろん政治は1イシューではない。だから、当然そのときどきの状況に応じながら、問うていない問題についても決断をする必要があるだろう。それも、選挙時の約束を実行しての話だ。小泉政権が人気を維持したもの、郵政改革については結局断行したからだ。その政策が良いか悪いかは後世の人にしか判断出来ないだろう。だが、少なくとも選挙で「これをやるべし」という国民の意思が示されたのであれば、それをやるのは政治家の第一歩だろう。それが出来ていない状態で、新しい決断などをする資格などはない。政治生命をかけるとまで言う政策だ。しかもそれは自分が当選した選挙では真逆のことを言っていたのだ。だったら、解散総選挙をする以外に実行する資格などなかろう。

Thursday, April 19, 2012

すみれ

僕はインディーズレーベルのプロデューサーだが、ここで自社アーチストのことを書くのは結構稀だ。

 一般的にはアーチストのことを褒めて、ガンガン宣伝すればいいのだろう。僕もそう思う。だが、それはちょっと躊躇するというのが偽らざる気持ちだ。そのことについて、今日はちょっと話してみたい。

 まず、インディーズレーベルの仕事とは何かということである。昔はメジャーレーベルしかなかった。だからそこからレコードを出せるアーチストもごくごく限られた。もっともその当時にアーチストという呼び方が正しいのかはさておきだ。限られたレコード歌手たちは、それなりのセレクションにかけられて、最初からかなりのクオリティを持った人たちだった。そういう人のレコードしか世の中には存在せず、だからリスナーもそれなりのクオリティを担保された商品を買うことができた。

 だが、それで本当に間違いがないのかという疑問もある。出ていく人がそれなりの力を持っていることはかなりの確率で正しくとも、逆に出せずにいる人には力がないのかということがあって、一概にそれを肯定など出来ないのが当時の現状だった。1980年代後半、少しではあるがインディーズレーベルというものが出てきた。流通の手段は西新宿とライブハウスだ。全国の普通の人たちは、そんなものを買うことはおろか、知ることさえ難しかった。しかしそういう中でナゴムやキャプテンといったレーベルがヒットを出し始めた。RCサクセションが原発問題に絡んでカバーズを発売中止になった時期だ。徐々にアンダーグラウンドな活動に注目が集まり始める。で、バンドブーム。REBECCAにBOOWYに、ハウンドドッグが武道館15日間連続なんてことも実現した。そういう大きな舞台でのバンドの盛上がりと同時に、ホコ天も盛上がった。ジュンスカやPOGO、KUSUKUSUなどが全国的な人気を博した。そしてやってきたイカ天ブーム。TBSの番組からはたまにマルコシアスバンプ、ブランキーにFLYING KIDS。彼らはそれまで見向きもしなかったメジャーレーベルに青田買いされていった。華々しいデビュー。しかしそれはバブルのようなもので、熱気が冷めるのも早かった。デビューしたイカ天バンドは次々にクビを切られ、活動の場を失っていく。

 僕がビクターを辞め、キラキラレコードを立ち上げたのはそういう時期だ。僕はビクターに入って陽の当たらない実力バンドを世に紹介したいと思っていた。しかし簡単にディレクターになれるほど甘くはなく、エリアでのショップ営業や、地道な宣伝活動を積み重ねる日々。一方でディレクターたちがイカ天バンドたちの個性を引き出せずに潰していっているのを横目で見ていた。もうこういうことを続けててはいけないと、思った。

 アーチストと一言にいうが、それは必ずしも一様な存在ではない。100組アーチストがいれば、市場的価値も音楽的価値も、本人の姿勢もすべて違う。音楽だけで豪勢な暮らしをするものも、バイトで食いつなぎながら僅かな収入をスタジオ代につぎ込むものもいる。それは悪いことではない。それぞれがそれぞれの実力や現状に応じて、個々のレベルアップに努力している。メジャーで活動出来る人は良いが、それだけではなくて、むしろ氷山の一角の下には、頭角を現せない多くの無名ミュージシャンがいる。プロ野球選手の下には社会人や高校野球、リトルリーグがあるように。J1の下にはJ2やJ3があるように。トップアーチストの下には無名の有象無象が存在しているのだ。

 では、そういう無名アーチストをどうやって次のステージにステップアップさせるのか。スポーツなら、実力は明瞭だ。しかし音楽に明確な基準はない。方法は2つだ。権威的な、例えばメジャーのプロデューサーが選別するというもの。かつてのメジャーデビューというのはほぼそれだ。しかしそれだけでは公平ではない。一部の人たちの好みや恣意によってアーチストの将来が決まる。もちろんそれはある程度の指針を出し得るだろうが、そこから漏れるものが必ず出てくる。

 だから、一般のリスナーからの支持を集めることで、対外的な評価とするという方法論が生まれてくるのだ。メジャーからは声かからなくても、多くのファンが支持をして、ライブも満員、CDも売れる。であれば、メジャーである必要などはまったくない。インディーズでもやっていける。そしてインディーズで結果を出せば、メジャーからも声がかかる。この方がよほど健全である。そのためには、メジャーでは出せないアーチストの音源をリリースするインディーズレーベルが必要になる。それが、キラキラレコードをスタートさせ、ビクターを辞めてまで取り組もうとした意味である。

 話が長くなった。これはまだ前段だ。しかも、まだ続く。

 キラキラレコードを運営してきて、僕は本当に様々なアーチストに出会った。そしてCDを出し続けてきた。彼らのほとんどは、将来の保証も無く、だから常に自分の活動に対する絶対的な自信を持ち得ない。売れなかったらいつ止めればいいのか。積極的にそうは思っていなくても、心のどこかで必ず持っている、自分の潮時を。スポーツなら、高校の野球部でものすごい選手に出会ったら、自分の限界を知ることが出来る。それはハッキリしていて、時に残酷ではあるが、明快であるから優しいともいえる。音楽の場合は、芸術性と商業的価値は必ずしも一致しない。自分よりカッコ悪いあいつがあんなに人気あって、オレはカッコいいのに人気がないというケースは非常に多い。少なくともやってる本人の心の中ではそうだ。そう思えないと続けてなどいけない。だが、そう思ってしまうからこそ、やめるタイミングを見誤る。だからずるずるとやり続けて、少しファンが出来たらそこにしがみついて、ある日、止め時を見失っている自分に気付く。

 それでも、彼らには頑張る権利はあるのだ。自分の頑張りで、自分が創っている音楽が素晴らしいのだと、世の中に認めさせ、自分自身が納得したい。そのためにずっとやり続ける権利は誰にでもある。周囲のほぼ全員が見向きもしなかったり、罵声を浴びせたとしても、自分自身が唯一人自分を信じる権利はある。そして、評価の基準はひとつではないのだ。

 僕はそういう彼らと接する時、その信念が強いものが最後に勝つと言っている。自分の評価基準で自分自身を認められるのであれば、自分自身のために努力をすることも厭わないだろうし、それで成長するだろうし、CDやチケットの売上げが、経済的にも実績的にも必要なのだと理解すれば、売ることにだって必死になれるだろう。なぜなら、自分の音楽には価値があるのだ。価値あるものを売り込むのになんの躊躇があろうか。躊躇するとすれば、それは自分の音楽に自分自身で価値を見いだせず、クズを正規の料金で売ろうとしているという負い目があるからだ。

 とはいえ、人はそんなに強くない。長く音楽を続けていて、友人たちが家庭を持ったり普通の幸せをつかんでいるのを見て、自分はこれで良いのかと悩む。周囲からいつまでやっているんだと言われれば悩む。

 でも、リスナーに取ってはそんな事情はまったく関係ない。メジャーの100万枚アーチストも、インディーズのペーペーもCDはCDだ。ほとんど同じ料金を取る以上それなりの期待をして当然だ。そして期待とは、そのアーチストが一発屋で終わらないということも含んでいる。音楽を評価するというのは、ただ単に自分だけが評価していれば良いというものではない。自分が評価しても他人が一切評価しないということになると、自分の判断は間違っているんじゃないかという気持ちになる。そう思わないで自分の評価を信じられる人というのは、強い人だ。だが大半は、自分がいいと思ったものが本当にいいかどうかについて、それを他人も評価しているということで確認する。売れていない頃から応援していたアーチストが売れたら嬉しい。売れたら多くの人たちのスターになるわけで、自分からの距離は遠くなる。それなのに嬉しくなるのは、自分の評価が間違っていなかったことを確認出来るからだ。

 僕は、そういう確認を、CDを買ってくれた人にも味わってもらいたいと思っている。レーベルだからアーチストも大事だが、なんといってもリスナーが大事だ。そのリスナーを裏切るようなことは出来るだけしたくない。だから、リリースするCDをすべて「すごいぞ」といってこのブログで書いたりはしないのだ。

 では、ブログで書かないアーチストのことを評価していないのか。それは、違う。どのアーチストも僕にとっては大切で、かけがえの無い存在だ。しかし、それはべた褒めする対象とイコールではない。音楽市場での趣味指向性の多様化というものもある。だが、同時にこのアーチスト現状でどのような状況にあるのかということが、僕にとっては大きいのである。

 高校野球の監督さんみたいな感覚なんじゃないかなという気もしている。ベンチ入り出来るのが15人と決まっていて、部員は100名いたら、全員を等しく扱うことは不可能である。3年間一度も試合に出られない選手もたくさんいるだろう。だからといって、もう入部するなよお前、ムダだぞと言うのは間違いだ。現状で力のない球児も、努力する権利はあるのだ。毎日走って、毎日素振りして、そして練習試合で結果を出せばとみんな思っている。思わないなら辞めればいい。だが、続ける意思があるなら、努力する権利は誰にだってある。レーベルも同じだ。それぞれがどういう位置なのか。全員に頑張ってほしい。頑張った結果、CDが1枚でも多く売れ、ライブの動員が1人でも多くなり、その結果大きな会場で演奏出来るようになってほしい。

 つまり、それぞれがそれぞれの状況の中で頑張っているのだ。もしもプロのスカウトがやってきて、次のドラフトに賭けるべき選手は誰なんだと言われれば、そこで名前を挙げられる選手は限られる。でも、そこで名前の挙がらない選手だって、頑張っているなら、それを応援するのが監督であり、レーベルなんじゃないかと思っている。監督は甲子園のベンチに全員を入れることは出来ない。だがレーベルは全員にCDをリリースさせることが出来る。そこは大きな違いだと思っている。リリースしなければ始まらないが、リリースすれば始まるのだ。頑張ることが出来るのだ。そのことが大きいし、大切だと僕は思っている。だが、その理屈をリスナーに押し付けるのはやはり間違いだと思っている。リスナーにはリスナーの立場があり、もしもその無名のバンドのCDを買わなければ、もっと安定的に活動が続いていくメジャーのバンドのCDを買うことが出来る。そことの比較をするのだ。その上でなお、普通のリスナーに勧めるというのは、とても高いハードルだと思う。だから、このブログではなかなかアーチストのことについて触れたりしない。なかなか触れられないのだ。




 で、いよいよ本題。今日のブログのタイトルは「すみれ」だ。これは今月リリースする新人バンドstunning under dogのミニアルバムのタイトルでもある。彼らは京都で活動している4人組で、これが正式なアルバムとしては1枚目になる。リリースする現在は意気込みも高く、だからやる気満々だが、それが今後どのくらい続くかはまったくわからない。それは彼らがどうだというのではなくて、一般的な話。バンドマンはリリース時にはとても意欲的で活動的なのだが、周囲の知人にCDを売って一通り行き渡ったら、売上げのペースががくんと落ちて、その結果やる気を失う、というか普通に戻ることがほとんどなのである。そこでさらに踏ん張ると、これまで自分たちのことを知らなかった人たちへ伝えていくプロセスが始まるのだが、なかなかそのプロセスに突き進んでいかない。進んでいかないと状況はまったく変わらないのであって、だから売れる波に乗っていけない。そうすると今後の活動がどかんと盛上がる可能性も低く、リスナーに「応援してて良かった。自分の感覚は間違っていなかった」という思いを味わってもらえない可能性が高い。となると、なかなか僕も推薦しにくいということになる。新人バンドのプッシュをするかどうかは、その辺を見極める必要がどうしてもあるのだ。

 だが、今回のstunning under dogの「すみれ」。これは良い。6曲入りなのだが、それぞれの曲がドラマになっていて、深い。人生を感じさせる。しかも比喩が直喩ではなく暗喩が多用され、文学としても個人的に高評価である。暗喩と言いつつ、表現はとてもストレートで、それは言葉上のストレートではなくて、感情がストレートで露わなのだ。愛って、こんな表現がもっともふさわしいとさえ思った。僕の言葉ではなかなかそれを伝えることは出来ない。でも、いいのは確実だ。

 最近のアーチストではamazarashiというバンドを知ったときと似た衝撃だった。それなりに人気はあるものの、amazarashi自体知らない人も多いだろう。YouTubeの動画をひとつ紹介する。



 普通の愛だの恋だの惚れた腫れたとかではなくて、なんか、腹の奥底にズドンとハンマーが突き刺さったような、そんな印象を与えてくれる、というか、押し付けるような、そんな強力な印象。こういうのを歌詞だけ抜き取って読んでみせても多分違うのだ。それが文学と音楽の違いで、音楽であらねばならないような、音楽である必然性をもった歌というのは意外に少ない。だが、amazarashiにはそれがある。アルバムを聴いて、嫌になったり苦しくなったりするかもしれない。だが、忘れられないし、聴き流せない。無視することなど不可能だ。そんな強烈な力を持った音楽を展開している。そんなバンド。

 それと一緒にするのはamazarashiに対して失礼だ。だが、同時に一緒にされたらstunning under dogも迷惑だ。似ているが、まったく違う。イチローと松井はまったく違うバッターだが、共にすごい。そういう感覚。いや、そこまでいうとamazarashiもstunning under dogもなんか違うかもしれないが、聴いていて「すごいな」と思わされるのはそうそうない。と、思ってもらえれば幸いだ。僕の表現力不足で大変申し訳ない。

 というわけで、レーベルからリリースする新人バンドのことを紹介するのは異例中の異例だと思ってもらえれば幸いだ。上のジャケットをクリックするとキラキラレコードのページに飛んでいくことになっている。そこに6曲全部について各30秒程の試聴がある。それを聴いてもらえればと思う。そしてちょっとだけ冒険してもいいかなと思ってもらえるのなら、是非とも買ってください。それが、このバンドが「俺たちこのままずっと続けてて大丈夫なんだろうか」とか悩まずに済み、音楽に邁進するエネルギーになります。あなたの応援がこのバンドの後押しをするとして、それに相応しいのかどうかを、是非とも判断してもらえればと切に願う。