Wednesday, August 24, 2011

自分の頭で考える

 民主党の代表選がとてもいびつなことになってきている。元代表のくせに自分の立候補もろくに決められない男が大本命だと。その男が1週間前まで「この人を推します」と言ってきた男はその元代表の心変わりのおかげで窮地に立たされた。まあ自分の軽々しくも迂闊な発言が窮地の最大の原因ではあるが。それでもそいつを応援していたのなら、窮地のときこそバックアップするのが仲間であるはず。しかし、決断の遅い元代表は、仲間だとしていた舌禍男をあっさりと裏切り、「自ら火中の栗を拾う」などとカッコいい言葉を口走る。しかし、「八ツ場ダムは中止にします。選挙のマニフェストで約束してることですから」とカッコいいことを言ったことを、僕は忘れたりしていないよ。そして約束していたはずの八ツ場ダムを中止など出来ずに逃げちゃったことも忘れてはいないよ。しかもつい先日「鳩山内閣に入ったとき、最初から自分は面従腹背でした」と語ったことも知ってるよ。つまり、この元代表前原誠司という男は、一から十まで全部口先だけなのだ。

 そして、なんとしても8月末の延長国会会期中に首班使命をしたいらしく、聞くところによると8月26日告示、8月28日投票というスケジュールで選挙を行うという。それでどんな議論が出来ると?情報も無く投票しろと?どうせ民主党所属国会議員だけの投票だからそんなものでいいだろうとでも?国民不在が現執行部のポリシーらしい。「国民の生活第一」という理念のもとに作られたマニフェストをあっさりと放棄し、放射能に汚染された情報を隠しながら「安全です、直ちに健康に影響はありません」と言い続け、汚染の基準値を20倍にし、国民不在の代表選挙(事実上の総理大臣選挙)を開催して問題無いとしている。舐めとるのか、まったく。

 で、そんな状況を見て、僕はとても無力を感じる。だが、国民のレベルを超えた政治なんて、民主主義の社会ではありえないのだ。良くも悪くも国民の代表なのである。そういう政治家が当選することを許した有権者。そういう政治家が当選するシステムを許してきた有権者。そんな政治が展開していることにほとんど関心を持たずにやってきた有権者。すべて悪いのは有権者たる我々なのだ。そのことを、僕は悲しいと思う。僕らは日本という国に生まれ、日本政府というものに政治を託すわけで、その意味では1億2千万人がひとつのチームなのである。誰かが誰かを蔑むとかいうのは許されない。チームとして劣っているのなら、チームの一員一員すべてが、無力であり愚かであり、そして責任を負わなければならないのだと思う。

 だから、ツイッターでそういうことをつぶやいた。もっともっと賢くならなければと。

 すると数人から「じゃあ、今とりあえずどうすればいいんですか」という質問を受けた。それに対して「そういうことを他人に聞けば答えてもらえるなんて思うのではなく、自分の頭で考えるようにすればいいのです。」と答えた。別にバカにして言っているわけではない。本当に、今大切なことは自分の頭で考えることであり、メディアを含めた他人の説明を鵜呑みにしないことだと思っているのである。

 もちろん人間はただ政治のことにばかり関心を寄せて時間を割くということは出来ない。だから当然生活の中でバランスを考えればいい。政治のことをどのくらい重要なことだと考えるのか。それが大切なことだ。

 例えば、AKBの総選挙というものがあった。僕は音楽の仕事をしているので普通の同世代よりは詳しいと思うが、かといってシングルを買うわけでもなく、劇場まで見に行くでもない。なぜなら、AKBのことは僕にとって優先順位がかなり低いからだ。低いから、個々のメンバーの顔と名前が一致しなくてもいいし、選挙で誰が1位になろうとどうでもいい。どんな結果になろうと自分の人生にたいして影響など無いのだ。一方で国政のこと。僕は国政は自分の人生に影響があると考えるから、結構調べるし、結構詳しい。だが、国政のことなんてどうでもいい、自分の人生には関係がないと、まるで僕がAKBの総選挙に対して思っている程度に考えている人が相当数いるのが現在の日本だろうと思う。投票率を見ればそれは明らかだ。大切な権利さえ行使せず、日曜日はレジャー第一と考えている人が多いのだろう。

 それでは国政は一部の人たちの恣意によって動かされてしまうよ。

 投票に行く人だって、どのくらいちゃんと政治のこと、政治家のことを理解して投票しているのか。まともに国の将来を考えたらそんな結果になるわけないだろうと思うような結果が出ることも多い。テレビの世論調査などを鵜呑みにしているんだろうし、でたらめな解説者の話を鵜呑みにしているのだろう。メディアの報道はかなりネジ曲がっている。もちろん枠があり、政治家の話を全部流すなんてことが不可能なことくらいは判っている。だから話の一部をチョイスして流すわけだが、その編集過程に悪意が介在したら、世論操作なんて簡単なことだ。

 僕は基本的に小沢一郎を支持していて、昨年夏の代表選の時、新宿西口まで奥さんと一緒に2人の候補の演説を見に行った。その話を聞けば、どちらに中身があるのかは誰が考えても判るだろうと思う。もちろんその演説を全国民が聞けるわけではない。だからそれを伝えるのがメディアの本来の役目なのだが、やはり報道は歪んでいた。奥さんにその話をしたら、「私は別に小沢さんのことをそんなに知らないし、そんなに支持しているわけでもないけれど、後でテレビを見て、事実と報道があまりにも違っているのにビックリしたし、それからテレビのことを素直に信用できないなって思った。だって、テレビでは「小沢陣営はサクラを動員していて、だから小沢コールが起こったんだ」って言ってたけれども、あれは違う。自分の隣にいたおじさんは犬を抱きかかえていて、ビラで犬の日よけを作ってた。動員された人は犬を連れてきたりなんかしない。あのおじさんはたまたま犬の散歩で通りがかって、演説やっていたからそこを動けなくなって、でも犬は演説なんて関係ないし、暑い日だったからもう弱ってて、おじさんも犬が可哀想なのを判ってるんだけれどもそこを離れられなくなって、演説を聞こうとして、だからビラを犬の日よけにしてあげてた。そんなおじさんが、小沢コールをやっていたの。それを見てるから、テレビの「小沢陣営がサクラを動員」というのは絶対に違うと思った」と答えた。僕では絶対に判らない視点だなあと感心した。実際の現場を生で見て、彼女は彼女なりにいろいろなことを感じて、これからいろいろなことを判断する指針を得たのだと思う。

 自分で考えるというのはそういうことだ。「誰かがこう言っていた」ではなく、「自分はこう思う」なのだ。読みが深い浅い、知識が多い少ないといった違いで、間違った結論を出すかもしれない。しかし自分で間違ったなと思ったら反省もし、次は間違えないようにしようと調べたりするだろう。だが、「あの人がこう言っていた」に乗っかるだけだと、「あいつが悪い」にしかならないし、だから自分でもっと調べようということにはならない。それだと、愚かなままでしかないのだ。AKBについて無知で愚かなのはいい。だが政治について無知で愚かだと、僕らの生活そのものが脅かされる。世界はのんびりとはしていない。経済も牙剥き出しで僕らを襲う。そんな中で、誰かの恣意的な思惑に任せていいというなら別だが、ちゃんと考えておかないと危険だ。だから、考えた方がいいと思うのだ。

 みんながそれぞれに真剣に考えた末に出た結果なら、みんなが納得もできるだろう。人には哲学がある。哲学の違いによって同じ情報から出す答えも違ってくる。それが民主主義というものだ。だが、哲学の違いではなく情報量の違いや情報を理解して判断する能力、さらには自分で答えを出そうという意思の有無によって出て来る結果などに、少なくとも僕は納得など出来ない。納得出来る人はいるのか? いたとすればその人はとてつもない愚か者か、亡国の徒でしかないのではないだろうか。

Monday, August 22, 2011

適正

 僕はほとんど知らなかった。でもTLでは比較的多くの人たちがネットで中継を見ていると言っていた。フジテレビでの抗議デモだ。

 フジテレビが韓流をたくさん流しているという話は聞いている。真偽のほどはよく知らないが、昼の再放送の枠で韓国ドラマを流しているのは知っている。だが、それはフジに限ったことではない。他の民放もそうだし、NHKだって盛んにやっている。それが悪いことかどうかは知らない。悪いと思う人は見なければいいだけの話と個人的には思う。みんなが見なければ視聴率は下がるし、下がれば番組は別のものに変わるだろう。

 テレビが国民を洗脳するという。確かにその側面はないとはいえない。だが、韓流のドラマ流したくらいで洗脳か?そんなことよりは教科書で円周率を3で計算させようとしたゆとり教育の方が何倍も罪だ。そっちでデモやらずになんだろうなって思う。

 デモについては、ツイッターのTLを見た後、どこかで中継をやってないかと思って検索などしてみた。ニコ生の最初のページに出てきていた中継があったのでクリックしてみた。すると、フジテレビの近くらしき場所に街宣車的なものの上に登って演説している地方議員たちの姿があった。誰が何のためにやっているのかまったくよくわからない。判らない理由は他にもある。その中継をやっている桜なんとかというところの中継はすぐに切れるのだ。満員になったから会員になってくれと盛んに言ってくる。再ロードしたらまた中継が見られるようになるのだが、それも1分くらいで、下手すると5秒くらいで切れる。何度か繰り返してみたが、何度やっても会員になれと言われる始末。そんな怪しいものの会員になどなりたくないし、そもそも見知らぬ地方議員の怒号を聞きたいとも思わないので、すぐに消した。それが僕のフジテレビデモ体験のすべてだ。

 デモをする権利は誰にでもある。そのことはまず前提として確認しておきたい。誰にでもデモをする権利はあるのだ。

 しかし、デモをする権利が過大になって、第三者の他人に迷惑をかけるようなものになってはいけないと思う。なんでもそうだ。権利というのはただ権利で存在するのではない。権利は常に義務と一体であるべきである。

 311以降、活動家ではない一般の人たちのデモへの参加が増えてきたという。それ自体は悪いことではない。僕は6月だったか、デモの場面に遭遇したことがあった。京都河原町三条の交差点あたりで、けたたましい音をあげる集団がいた。太鼓やラッパを鳴らしながら行進をしているのだ。正直言って、うるさかった。うるさくて耳を塞ぎながら足早に通り過ぎた。だから、それが何のデモだったのかなんてよくわからない。現場に居合わせた人はみんな同じだったんじゃないだろうか。だとしたら、デモの意味はなんだったのだろう。主張があって、それを伝えたいからデモをするのではないのか。うるさ過ぎて伝わらないんだったら意味がない。彼らは堂々と大きな音をならす大義名分が欲しかっただけだったんじゃないかと思った。多くの人に気付いてほしい大事な主張なんてなかったんじゃないかと。

 今回のフジでの抗議デモがどういうものだったのかは僕には判らない。だが、韓流に偏った放送をすることがダメなのだとしたら、フジ以外のテレビ局だってもっとやり玉に上がっていいはずだ。さらに言うなら、彼らはCDショップに行ったことがないのだろうか。CDショップなど韓流の嵐である。KARAや少女時代がそんなに売れてんのって言いたくなるくらいに韓流の商品で溢れかえっている。東方神起になんとかかんとか。名前すら知らないグループの商品まで大量にある。彼らのCDが実質的に売れているかどうかは判らないが、全体的に日本のアーチストのCDも売れていない中で、それなりに健闘しているんだろう。そうでなければあそこまで店頭展開などできやしない。韓流がダメでデモをするなら、CDショップも対象にしないといけないだろう。だが、それをするなら日本のバンドやアーチストのCDを買ってからだ。普段CDを買いもしない人に限って韓流を批判するんじゃないかと僕は感じている。

 知り合いにも韓流のファンは多い。日本でイベントがあればガンガン行くし、グッズも買いまくりだ。場合によっては韓国でのイベントにまで追いかけていく。知人として見てて「どうか」とは正直思う。だが、彼女たちが洗脳されているとは思わない。もしも洗脳する術があるなら、日本のタレントやグループがとっくにやっているだろう。なんか魅力があるのだ。彼らにその魅力が出せて、日本のタレントやバンドがその魅力を出せないとするならば、それは日本のタレントたちがなにか負けているということに過ぎない。そのことに怒るのなら、日本のタレントの活動をもっと追いかけたり夢中になればいい。その対象がいないんだとしたら、やはり日本の芸能が韓流に負けているということだろう。そうなれば、テレビが視聴率を取るために韓流をたくさん出すのは当たり前の選択ということになる。

 話を戻そう。今回のフジテレビデモについて、僕はやはり適正を欠いていると感じた。みんななにかのネタが欲しかったのだ。多くの人にアピールする機会を得たい地方議員たち。会員登録を増やしたいニコ生のチャンネル主。騒ぐための大義名分が欲しかった群衆。それらがわっとフジテレビネタに飛びつき、活動をする。折からのデモ機運に乗ろうとする、純粋に正義感のある人たちも、その正義感を示す機会が欲しかったのだろう。で、結局デモが行なわれた。得をしたのは誰なのか。損をしたのも誰なのか。詳しく分析したりなどしないが、今回のことをちゃんと整理して理解しないと、今後ちゃんとデモをしようという際に「あの時は」ということになりそうな危機感さえ感じた。何事もそうだが、本当にこのことを訴えなければというきちんとした思いが、デモをする際の前提だと思う。それを誤ると、今度はきちんとした思いが正しく伝わらなくなってしまうんだと、ちょっと思った。

Sunday, August 21, 2011

数と力

 民主党の代表選挙が行なわれる。らしい。本当に行なわれるのかさえ僕は懐疑的に見ているが、それでも一応はあるらしい方向で報道は進んでいる。

 今回の代表選挙では、現執行部側の政策を引き継ごうとしている勢力が野田佳彦財務大臣を推していたが、大連立発言と増税容認姿勢で批判にさらされ、急遽前原誠司前外務大臣を担ごうとしている。けれども前原氏にしても違法献金問題が解決しているわけではなく、立候補し、仮に民主党代表イコール総理大臣ということになったら確実に火だるまだろう。それもあってか、前原氏は慎重姿勢を崩していないが、だとすれば現執行部の跡を継げるのは一体誰になるというのか。

 そんな情勢で、菅総理大臣の「若い世代に引き継ぎたい」という言葉を真に受けたか、これまで代表候補などこちらも思いもよらない人たちが次々と名乗りを上げそうな勢い。もちろん推薦人を集めなければ立候補さえ出来ないわけで、今手を挙げそうな人たちが全員立候補なんてまず無理だ。そういう人たちは要するに今後の代表レースに出る資格を作るため、代表選前に名前を売ろうと懸命なのだろう。小泉氏も何度自民党総裁選に敗れたか。目標を実現する前には、足場固めも必要だし、そのためには立候補も難しくともテレビに出られる機会を得るのは悪くない。それにもしかしたら最大勢力のみこしとして担がれる可能性だってないわけじゃないのだから。

 最大派閥とは言うまでもなく小沢一郎を支持するグループのことだ。400人からいる民主党議員のうち、約140人がいるといわれている。それに鳩山グループ約40人を加えたら民主党の過半数に届こうとする。民主党の場合自民の派閥とは違って比較的緩やかで、複数のグループに所属する議員もいるし、グループのリーダーに必ずしも従うとは限らないので単純に読むことは出来ないが、それでも小沢グループが圧倒的な影響力と結束を持っていることは間違いないし、だから、代表選挙に出ようとする人たちが無視することは出来ない。むしろ、なんとか助けを借りたいと思うのが普通だろう。助けを借りられればグループを持たない候補も推薦人で苦労することは無くなるし、あわよくば代表、すなわち総理にだってなれるかもしれない。だから馬淵氏や小沢鋭仁氏はもちろん、小沢氏を排除してきた側にいる野田佳彦でさえ小沢氏に挨拶をしにいく。

 これをして、またメディアは小沢氏を叩き始める。きっかけは自民の石破茂氏が「また小沢詣でがはじまった。かつての自民党派閥政治を見る思いだ」と発言したことだ。その発言に一斉に乗り、「数が正義なのか!」と言いはじめた。

 では、数を否定して民主主義は成立するのか?他の何を信じるべきというのか?その否定は、選挙も否定することになる。そのことを石破氏もメディアも理解しているのか?

 数は力である。そのことを否定してはいけない。民主主義とは基本的には様々な課題を解決する上での意見集約方法であり、僕らが社会に生きる上で、前進していくための最大のエンジンだ。これを否定するなら、独裁を認める以外に方法はない。

 問題はいくつかある。まずは意見の集約をするふりをして数を操作することだ。ある場合は金だろう。お金で意見のない人の頭数を買うということ。これは民意をねじ曲げる。電力会社がメディアにものを言わせないために広告宣伝費を大量にバラまくのは判りやすい例だといえよう。

 次に、数の数え方をブラックボックスにするということ。どのような方法でその数が導かれたのかが不明な数は、民意とはかけ離れる。メディアがよくやる世論調査はこの好例だ。

 また、声を荒げるのも大きな問題だ。話し合いの場で大きな声で叫ぶことで議論を進展させないこと。以前の株主総会で、総会屋と呼ばれる人たちがよくやっていた手だ。最近ではジャーナリストと呼ばれる人の何割かがこの手を使って他の意見を封殺しようとしているのをよく見かける。

 最後に(他にもあるかもですが)、少数意見の無視も問題だといえる。数は力というが、正義であるとは限らない。力があるものがその力で他を苦しめるのは正義とはいえない。民主主義で忘れてはならない点は、少数意見に配慮をするということである。なぜなら、民主主義を成立させている母体集団で民主主義が成立するのは、対立する意見はあっても分裂はしないということが前提になるからだ。分裂すると話も出来ない。話が出来ないのに採決などは出来るわけがない。そうなると民主主義は崩壊する。だから、少数意見に対しても配慮し、同じ集団であり続けることを多数側が配慮することが不可欠になる。それが正義だ。同時に、少数意見の側も多数の意見がなぜ多数を占めているのかということに対しての考慮と配慮が求められる。なぜなら、少数意見が多数意見との折り合いを付けずに頑になることもまた、民主主義を崩壊させる元になるからだ。

 
 話は途中だが、今日はもうあまり時間がない。そうやって書いていた文章をアップせずにいることが何度もあったし、それがブログ更新をおろそかにする原因だと思っているので、今日はこの辺で、尻切れとんぼになるけれども、とりあえずアップします。言いたかったことは、数をなんでも汚職の温床のように報じることも信じることも、きっと間違いだということ。小沢氏などずっと野党だったし、約1年の幹事長を経て、与党内での活動をほぼ禁じられ、曖昧な証拠(現時点では裁判所によって証拠採用がほぼ却下されたものばかり)で起訴までされている身で、なぜそんなにも人が集まるのかを、みんなもうちょっと考えた方がいい。そしてメディアがなぜこうも執拗に集中攻撃をしようとしているのかを、もっと考えた方がいい。この国の民主主義は、公平を装った欺瞞集団と、何も考えずにずっと安心と思い込んでいる愚者の群れによって崩壊寸前だと強く危惧する。そんな集団と群れによって作られたあの施設が崩壊して国民全体の安全が脅かされている今だからこそ、みんなもっと考えるべきだと思う。民主主義の崩壊によってもたらされる未来は、放射能の恐怖など比較にならないくらい恐ろしい社会だと、僕は思う。

Tuesday, August 16, 2011

日記について

 僕はちょっと前からmixiの日記を再開させた。いろいろと理由があるが、僕はもう一度mixiというものをちゃんと見てみたいと思ったからだ。そして人間というものを。

 僕はおおよそ2009年の暮れあたりからTwitterを始めた。そこからスタートして現在フォロワーが97000人。もうすぐ10万人の大台に乗るだろう。この数字は大きい。僕のネット上のコミュニケーションの中心は既にTwitterだ。

 一方でFacebookはそれよりちょっと前の2009年初夏くらいに始めている。そこでのフレンドは現在2250人。Twitterのフォロワーの数に較べるとケタが違うが、それでも濃密さは引けを取っていないと思う。そう感じている。ここでは海外の人たちとのコミュニケーションが目的だ。目的が違うので、平行してやることに戸惑いなど特にない。

 mixiはいつから始めたのか。調べてみると2005年の5月に始めている。最初の日記を書いたのが2005年6月だ。mixiでは、マイミクを増やす効用については知っているものの、個人的なつながりを目的にしているので、マイミクを増やそうとはまったくしていない。仕事で関係のあるミュージシャンともマイミク関係にはなっていない。だから現在マイミクはたったの28人。そのうち半数は、現時点でもう半年以上mixiにアクセスしていないのではないだろうか。よく判らないけれども。

 一方ブログは長い。本当にブログと呼べるものはともかく、キラキラレコードのサイトの中で展開していた日記は2000年12月から書いていた。このころはまだブログというものが無かったので、いちいちHTMLのタグ打ちで日記をアップしていたのだ。今考えると恐ろしいな。写真を簡単にiPhoneからアップするなんてことはまず考えられなかった。当時のスタイルはデジタルビデオカメラでムービーを撮り、それから一番いいコマをキャプチャして、それをHTMLに貼付けるというもの。その苦労があったからか、それなりに面白がられたのだろう。バンドマンからもよく「読んでますよ」っていわれた。

 で、今なぜmixi日記なのか。それは、僕は巷間言われているmixiの凋落というのが、もしかするとまったくの読み違いなんじゃないかと最近思っているのと、それとやはりmixi日記のサイズ的な都合の良さが理由なのだ。

 一時期mixiはすごくもてはやされた。それが昨年初頭のTwitter旋風であり、昨年中頃からのFacebook旋風であり、その中で急速にmixiはもうダメなんじゃないかと言われ続けた。もちろん僕もそう思った。だから1年ほど、そこに日記も書かなくなった。最近、その姿がCDの立場と同じように感じるようになってきたのだ。

 CDはもはや売れないと多くの人が言う。だが、その実感はCDレーベルという立場からすると、ちょっと違和感があるのである。CDが売れないという説の元データは日本レコード協会が出すものである。これは要するにメジャーレーベルのデータに過ぎない。しかし、日本のCD製造メーカーはメジャーレーベルだけではない。僕らのようなインディーズレーベルはどんどん増えている。それにバンドが勝手に焼いて売っているCD-Rまで含めると、CDで流通する音楽というのはむしろ増えていると思う。悪まで僕の実感に過ぎないが。

 また、CDが売れないという説の背景には、HMV渋谷店の閉店や、数日前に発表されたWAVEの倒産といったニュースもあるだろう。これにしても、店舗でのCD販売の限界が来ているというだけのことであって、決してCDが売れないということの証拠にはならない。つまり、人々はネットでCDを買うようになってきたのだ。amazonの売上げは確実に伸びている。家にいながらCDを買えるのだし、音楽についての情報もラジオや雑誌からネットでの情報に移ってきた。ネットで情報を得た人がネットで買うのは当然のことだと言える。それに、大型店舗に行ってもCDが全部あるわけではない。行って、無かったら注文して、商品が届いたら後日また取りにいく。そんな面倒なことをしてまでなぜショップに買いに行くだろうか。メジャーレーベルの有名な歌手やバンドのCDならいざしらず、amazonに在庫ありと出ているだけで、もう人はそれをクリックするだろう。

 それに、僕らのようなインディーズレーベルでも通販で販売することがどんどん可能になってきている。まだ規模は小さいのだろうが、直接通販出来れば利益率が違う。その分を特典としてリスナーに還元することが出来る。それはリスナーにとっても利益になるはずだ。この波はどんどん進むだろう。そうするとこれまで送り手と聴き手の間にあった業者はどんどん淘汰されていくだろう。そういう変化が起こっているだけだ。なにも音楽が凋落しているわけではない。

 話を戻そう。mixiだ。確かに当初mixiを楽しんでいたユーザーはそこを去った。彼らはどこに行ったのか。答えは簡単。Twitterに行き、Facebookに行き、そして今Google+をやるべきかどうかというところにいる。一般にオピニオンリーダーといわれるような人ほどそういう動きをしているように見える。新しいものにチャレンジをし、そしてまた新しいものが現れたらそこに移る。その姿はまさに漂流だ。だが大切なのはそこでのコミュニケートだ。新しいかどうかではない。そのことを、僕は最近感じているのだ。だから、もう一度mixi日記に戻ってみようと思った。そうして感じたのは、97000人のフォロワーの皆さんとのコミュニケートと、28人(実際は15人程度か?)とのコミュニケートに、質の違いなどまったく無いということを思い知らされた。相手も違えば、僕が書いている内容も違う。そういう中で、新しいとか古いとか、そういうのはなんかもうどうでもいいなあという気さえしているのが実際のところだ。


 みなさん、今また始めた僕のmixi日記、探してみてください。そしてよかったらマイミク申請など頂ければ幸いです。それと、2000年からやっていた僕のHTMLタグ打ち日記もまだ見ることが可能です。どこからもリンクなどされていないですけれど、メールくれたらこっそりアドレス教えます。それはとても恥ずかしい行為ですけれど。

Monday, August 15, 2011

盆休み

 現在三重県松阪市に来ている。お盆休みを奥さんの実家で過ごしている。

 昨日、伊勢神宮に行った。その途中、商店街の一角にさびれた洋品店があった。man's shopという看板が出ていた。一体ここで誰が服を買うんだろうと思った。見るからに若者向けにしようという雰囲気があるが、若者の注目を浴びるにはセンスが古いし、若者向けにしたことで、古くからの年配の客は入りにくくなっているはずだし。洋品店の両隣にはシャッターを下ろした店が並んでいた。お盆だから休んでいるだけならいいのだが。

 参拝の帰り、コーヒーでも飲もうとスタバの看板につられてショッピングモールに入った。老若男女、客で溢れていた。スタバもあればKALDIもある、ビレバンだってある。チェーンかどうかわからないけれどオシャレそうな服屋さんも明るい雰囲気の靴屋さんもある。地域の人は、少しばかり遠くても車でここに集まるのだろう。シャッター商店街が広がるのも判る気がする。

 大資本が地元商店のコミュニティを破壊したと批判するのは簡単だ。だが、僕は古くからの駅前商店が本当に努力してきたのだろうかと疑問を持った。なぜなら、基本的に商売を左右する大きな要因のひとつが立地であり、駅前の商店街というだけで大きなアドバンテージだからだ。今も活気のある商店街というのは沢山ある。人の流れを期待出来る最高の立地というアドバンテージを最大限に活かして、商売がうまくいくような努力をきちんとしてきたなら、必ずしもシャッター商店街になる運命ばかりではないはずだ。

 その一方でどんどんさびれる商店街も多い。大資本に太刀打ち出来ないと言うのなら、最初から負けである。親がいい場所で商売をするというポジションを獲得し、その下でのんびりと育ち、いざとなったら実家の商売を継げばいいという思いだったのではないだろうか。昔はそれで良かったのかもしれない。しかし、サラリーマンの息子が良い就職をするために競争して、入社しても同僚との競争をして、そうやって来た人たちが相手としてショッピングモールを作るのだ。のんびりしていたらやられるのも必然だ。全能力を費やして戦わなければ。

 昔は駅前というアドバンテージを既得権として持っていた商店が、ある日ショッピングモールの登場でさびれていく。これも必然なのだろうと思う。本来すべきだった設備投資もせずに、薄暗いままのゴチャゴチャの店舗をずっと維持している。店が経費をかけずに収入を上げる一方で、お客さんへのサービスは相対的に低下しているのだ。だとしたら、それ以上のサービスを提供する商店に人が流れるのは避けられない。そういう商店が集まっている場所がショッピングモールなら、新たな商店街が誕生したというだけのことだ。もちろんそのショッピングモールもやがて古ぼけてくる。全国にそういう場所は沢山ある。その古ぼけが限度を超えたとき、また同じような新たな商店街が出てくるだろう。

 人も組織も、競争にさらされるから努力するのだろう。だから競争を避けたがる。電力会社も公務員も、独占で仕事をしているところはみんなそうだ。だから淀むのだろうと思う。電電公社の頃は電話を引こうとすると権利金というのを当たり前のように取っていた。8万円くらいした。だから学生は下宿に電話を引くことが出来ず、大家さんの電話を借りたりしていた。しかし、民営化になり、さらには携帯電話が普及し出し、携帯電話会社が複数出てくるようになると、学生であっても普通に携帯を持てるようになってきた。独占のままだったらどうだったのだろう。今でも携帯はバカ高くて、大きな機械を肩から下げるようなものだったかもしれない。そしていまだに固定電話を引くのに8万円かかるという状態が続いていたかもしれない。あの8万円にも当時正当な理由はあったはずだ。だが今となってはその金額はたんなる押しつけ、電電公社の勝手な言い分にしか思えない。

 時代が移るというのはそういうことだ。新しい時代にうまく乗っていく者も現れるし、古い時代にしがみつこうとして取り残される者も出てくる。古いものがすべて悪いわけではない。だが、往々にしてその古い時代にあった独占的な既得権にしがみついているだけということが多いのではないだろうかと僕は思うのだ。既得権であることをカモフラージュするために、権利を持ってる人たちがノスタルジックな言説を絡めてくることが多い。そういうのに気をつけながら、新しい時代の変化に対応していく必要があるのだろう。

 だとすれば、次に独占状態から脱却すべき、脱却させるべきなのは一体なんなんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら過ごす、お盆休みである。

Wednesday, August 10, 2011

届かぬ声

daimonji.jpg

 京都の五山の送り火で岩手県陸前高田の松に被災者の祈りを書いて燃やすということが話題になった。放射性物質が飛散するのではないかという懸念の声を受けて、送り火保存会の人たちが燃やすことを断念したということだった。

 これに対して抗議の声が起こった。陸前高田の松に放射能物質はついてないよと。それなのに燃やすのを拒否するなんて、被災者の気持ちをまるでわかっていないと。テレビなどでも中止決定へ批判的な調子でのニュースがたくさん流された。

 僕はこの騒動で強い違和感を覚えたのだ。それは個人の自由への強い圧力。政府が個人を弾圧するという時は、それが国家保安上の問題であっても、多くの人が個人の自由を最大限に尊重しろと叫ぶ。しかし、今回のように被災者の思いをきっかけにした場合は、個人の自由を尊重すべきという声が起こらなかった。それが、恐いなと思ったのである。

 もっと具体的に言うべきだな。

 放射性物質が松に含まれているのかいないのか。それを完全に明らかにするのは可能なのだろうか。保存会でも京都市でも測ったという。ではその測定方法はどういうものだったのだろうか。その点について詳しく報道されていたわけではない。そういう状況で、完全に安全宣言を出せるのだろうか。それですべての京都市民の安心を得ることは出来るのだろうか。すべてのと言うのは、松を燃やすということは、その煙は空中に広がるわけであり、市民は安心不安に関わらずその空気から逃れることは出来ないからである。

 これを牛肉と比較すればもっと判りやすいのではないか。牛肉も汚染されているという。しかし市場に出ている肉はすべて安全が確保されている。と、政府は言っている。政府が言うのだ。もっとも信頼を置くべき組織が言っているのだ。でも、それが信じられない状況が現在の日本である。もちろん大丈夫だという人もいる。同時に不安を拭えない人もいる。大丈夫と思う人は普通に肉を食えばいい。そして不安に思う人は不安な肉を避け、海外産の肉を食うか、しばらく肉は食わないかすればいい。その選択はそれぞれが個人の判断で行なえばいいのだ。その自由はある。そして肉を食わないことで栄養が偏ったり、海外産の肉にあるかもしれない危険のリスクを負ったり、そういうのも個人の責任として納得すればいい。もちろん安全だと思った肉が実は危険で、数十年後に健康被害が出たとしても、そのリスクも個人の責任で納得すればいい。

 しかし、もしも不安に思っている人に誰かが「安全だから食え」と言って無理矢理口に入れたらどうだろう。だって政府が安全だと言っているのだ。だから食わないのは風評被害だと言って無理矢理食わせることが出来るのか。たとえ「福島の畜産業者の苦しい思いを理解しろよ」と言われたところで、それは安全かどうかという問題とは別に検討されるべき話であって、安全だと心から信じられない気持ちのまま、強制的に食わされるのは、完全に個人の人権侵害だし、自由の剥奪である。そういうことが実際に福島などの給食で、小学生たちに対して行なわれているというのだから恐い。

 話を戻して京都の送り火。それが安全だという証明がどうなされたのかということは、ある意味政府発表の市場の肉は大丈夫宣言と同じようなものだと思う。安全の度合いはこの際問題ではない。それで不安が解消されるのかということが問題だ。それで全京都市民が納得するなら別だが、納得しない人がいる状況で強行するのは、肉を「大丈夫」といって無理矢理食わせることと基本的になんら変わらないことだ。

 安全と安心というものは、似ているようで違うものだ。例えば、僕らは普通に飛行機に乗る。だが、世の中には飛行機が恐くて恐くて仕方がないという人は確実にいるのだ。あんな鉄のかたまりが空を飛ぶなんて信じられないという人。実際には鉄のかたまりは空を飛ぶのだ。僕は安心してそれに乗る。しかし、恐くて仕方がないという人を無理矢理乗せようとするのは間違っていると思う。

 さらに言えば、バンジージャンプはかなり安全なアトラクションだ。それで死んだ人は交通事故よりもはるかに少ない。しかし、僕はバンジージャンプなどしたくない。恐いからだ。あんなことをやるなんて、いくら説得されてもイヤだ。もしも無理矢理僕を押さえつけてバンジーの台から落とそうとする人がいたら、絶対に告訴するくらいの悪行だ。

 だが、その時に「被災者の思いを無にするのか」といわれたらどうだろう。

 今回の問題は、そういうところにあると思う。個人が安心出来る根拠というのはいろいろとある。ある人には何の問題もないことが、別の人には大問題ということはよくある。それを放射能測定をしたからというだけで解決しようというのは心の問題をあまりに軽視した物言いだと僕は思うが、それで解決出来ないときのさらに一押しとして、「被災者の思い」というものが利用されているように、僕は感じたのだ。この言葉を使われると、ほとんどの場合反論が困難だ。だって被災者の思いは十分に判っているのだから。

 テレビのニュースでは数人の京都市民にインタビューをしていた。全員が「放射性物質がないなら燃やすべきでは」と語っていた。彼らがその言葉を発する前に、テレビ局の人はどう話をしていたのだろうか。はっきり言えることは、夜のニュースで話題になっていたのだから、その日の日中に街にいる人が放射性物質の云々ということについて情報を持っているとは思えない。だとすれば
「今回の送り火で、津波被害者の思いを書いた松を燃やすということに対して、放射性物質の危険があるのに燃やすのかという抗議があって、その松を燃やすのをやめることになった。それに対して岩手の被災者は悲しいことだと嘆いている。そして放射性物質は測定したところ検出されなかった。それを前提に、あなたは燃やした方がいいと思いますか、燃やさない方がいいと思いますか」
という問いかけをしているはず。まともな感性を持った人なら、そう言われて「被災者の気持ちなんて知りません」とはとても言えないだろう。言えるわけがない。

 僕はそれが同調圧力だと思った。

 意見が分かれそうな問題に、絶対に意見が分かれない問題を絡めて是非を問う。そうすると、本来意見が分かれる問題もひとつの方向に収束せざるを得なくなってしまう。そしてある一定のマジョリティが形成されると、マイノリティがマイノリティであるが故にマジョリティの方へ擦り寄っていかざるを得なくなるし、それでもマイノリティのままであろうとする者は「おかしな人」「論理が通用しない人」として排除あるいは無視されていく。これは恐い。そういうことが突き進んだひとつの結果が戦前の教育だ。そして、我が子が戦争で死んだ時に万歳を叫ぶ母親が生まれてくる。心の中では悲しんでいたとしても、社会の中では喜ばなければいけない風潮が蔓延していくのだ。

 まあ今回の問題が即そこまでの危険につながっているとまでは思わない。陸前高田の松もそんなに危険というわけではないのだろう。だが、こういったことの中に、本当は危機意識を持って対応するべき問題の芽が潜んでいるように思った。


 そして今日のニュースで、結局京都市の要請を受けて、陸前高田の松を新たに500本京都に運び、16日に燃やすことを決めたそうだ。何なんだろう一体。その松には陸前高田の人たちの祈りの言葉は書かれていないのだ。それを燃やすことにどんな意味があるのか。被災者の思いはどこに行ったのだ。結局はその松を京都で燃やそうと思いついた誰かのメンツを立てたということだけなんじゃないだろうか。京都市が執拗にこの松を燃やしたかったのは一体なんなんだろうか。結局は被災者の思いなどどうでも良かったんじゃないだろうか。

 それでも祈りが込められていない松を燃やすという逆転決定に、昨日まで悔しい思いをしていた人たちはどう思っているのだろうか。そして安全と言われてもなお不安を感じ続けている人はどう思っているのだろうか。もしも燃やすべきと思っていた人たちが今回の逆転決定に快哉を叫んでいたとすれば、それは結局自分たちが感じていた辛い気持ちを今度は別の誰かに強いているんだということに気がつかなければならないだろう。日本全体が被災者であり、ある地域にいる人の辛い思いが、別のある地域にいる人の辛い思いを虐げていいという理由などどこにもないのだから。

Tuesday, August 09, 2011

きれいじゃない



 本日、大正九年関連の商品を、10年ぶりくらいにリリースすることになった。『ニコニコ』というシングルコレクションだ。

 大正九年のことは今さら説明などすまい。知らない人は飛ばすかググるかしてみてください。で、今回のリリース。過去にキラキラレコードからリリースした4枚のマキシシングルに収録の12曲に、オムニバスに収録した最初の音源2曲を加えた全14曲という内容。全部マキシを持っているという人は、過去の売上げを勘定するとそんなに多くはないはずということもあるし、さらにはオムニバスの2曲を持っていない人はさらに少ないはずだし、だから、これをベストとしてリリースしてみようと、なんとなく思ったのである。

 とはいえ、10年を経過してなお大正九年のリリースに注目する人は、かなり大正九年のことを好きな人であることは間違いないのだし、とすれば、マキシを全部持っている可能性も高い。とすれば、売れない。困る。そういうことで、特典にDVDを付けようということにした。この特典はキラキラレコード通販で買った人のみの特典なので、タワレコやamazonで買った人には付いてこない。で、このDVDを制作するにあたって、過去のライブ映像などをたくさん観た。記憶が蘇るなあという部分もあったし、こんなことやってたんだと新鮮な発見もあった。面白かった。やっぱり彼女は天才だったなと思った。あえて過去形で書いたのは、やはりそれがもう11年も前の映像だということもあるし、ここしばらく活動が表に出てきていないということもあるからだ。

 しかしながら、どうも本人の言によれば、新作の発表ももう間近ということらしい。特に確定した日程があるわけじゃないので何ともいえないものの、本人はそれなりに元気そうな様子だった。メールでのやり取りでしかないので、これも何ともいえないのだが。

 今回のリリースを発表して、ナタリーでも取り上げてもらった。すると、数年のブランクがあるアーチストなのに人気記事ランキングの4位に食い込んだ。その日のトップがあるアーチストの若き死のニュースだったから、実質的には3位に食い込んだも同然だと勝手に思っている。人気記事のランキングに入ったからといってすぐに売れるというわけではないだろうが、それでもやはり大正九年は根強いファンに支えられているんだなあと思った。そういうアーチストを発掘出来たことは、レーベルをやっている者として嬉しい過去だと思う。

 で、大正九年の経歴などは詳しく説明しないものの、やはりなにか僕なりの想いを書いた方がいいと思う。それは、彼女の魅力だ。

 今回のベストで是非聴いてもらいたいのは「きれいじゃない」という曲だ。4枚目のシングルに収録されていたカップリングで、だからこのシングルを買わないと聴けなかった1曲。僕も長らく忘れていた。そういう、それほど重要じゃなかった曲だった。しかし今回このベストを企画するにあたって再び聴く機会を得た。

 すごい曲だった。

 何も考えずにいられたら楽なのに、誰もがなにかを思うのはどうしてなのか。
 何かを解ってほしいのに、自分のことを探らないでと思う。それでは終わらない。
 消えちゃえばいいのは自分で、他人じゃないんだ。
 いいのか、いいのか、いつも思う。
 愛なんて無いと決めつけていた。どうなの。あるとしたらどこにあるの?

 このベストを考えはじめたのは震災の直後で、僕らの価値観は変わろうとしていた。それまでは何でも出来そうで、そのあとは何にも出来なそうで。同じ考えでは生きていけない。そう思った。自分も変化するのは、環境の変化に対応するためだ。環境の変化とは、多くの人たちの命を奪った津波や、そのあとの荒れ野原だけじゃない。もちろん放射能物質に汚染された世の中だけじゃない。自信を失った人々の心、不安に振り回されて恐れおののく心、身近な人たちの価値観がぶれ続ける中で生きていかなければならない恐怖心、そういう別の価値観を無視しようとする弱い心。そういう、きっと自分自身にある弱さそのものが、変化なんだと、僕は感じていた。

 この「きれいじゃない」は、そんな弱さをさらけ出した歌だ。でも、決して弱い歌ではない。さらけ出すというのは強い心があるからだ。僕はそこに希望を見た。企画をするためではあるが、車の移動中に何度も聴いた。とくにこの「きれいじゃない」を。何度も何度も聴いた。飽きない曲だった。こんなに強い曲だったということを、僕はそれまで気付かずにいた。リリースして10年以上も経つというのに。

 何度も聴いていて、この曲がなんでそんなに強い印象を与えるのか考えた。答えはそう単純ではないはず。でも僕が辿り着いたひとつの答えは、この曲には強いイメージがあるからということだった。そのイメージとは、情景のイメージ。聴いてもらえばすぐに判ると思う。描かれている情景は、暗い夕暮れ時の風景だ。それもほんの数行の言葉しかない。だがその数行の言葉で、僕は曲が流れている間中ずっとひとつの光景を頭に思い浮かべ続けることができた。そんな情景描写があるのか。おそらく、その情景と、それ以外の心を描いた部分がリンクしているのだろう。暗く重苦しい葛藤がそこにはある。

 人は誰でも葛藤するものだ。しかしそれを表に出すことは少ない。他人に知られたくないからだ。そしてそれは時として、自分でも気付きたくないからだ。葛藤している自分など、自分で見たくない。それを見ると辛くなるだけだから。

 しかし、この震災で僕らは否応無しに葛藤の中に叩き込まれた。忘れてなどいる場合ではない。そう、逃げている場合ではないのだ。

 そんな時に、僕はこの曲に再び出会えたことに感謝したいと思った。逃げるのではなく立ち向かうために。立ち向かう方法は人によってそれぞれだろう。正解が見つかるなんてきっと稀だ。それでも自分なりの答えを見つけなければ、混沌とした葛藤から脱することは出来ない。だとすれば、まず最初の一歩は立ち向かうこと以外にありえない。そのことを実感させてくれる、そんな曲なのだ、「きれいじゃない」は。

 今回のベスト盤、直接通販のみの特典としてDVDを付けることになったのは既に話した。その中に収録するために、僕はこの曲を探していたのだった。当時のライブでは、「目がハート」「エレガール」「ジャズ喫茶」「ティーンエイジストーリー」などの曲は何度もやっていたが、「きれいじゃない」はほとんどなかった。唯一見つかった映像は、実はそんなにいいパフォーマンスではなかった。冒頭でスカートにヒールがひっかかって転んでしまうし、そもそも大正九年にしては超低音域の曲で、だからライブでは声もなかなか通らない感じになってしまっていた。その上カメラが両サイドのスピーカー近くにあったものだから、音はかなり聴こえ辛くなっていた。これをDVDに入れるべきかどうか。普通の感覚ならまずやめるべきだと思う。しかし、このベストの特典に、本人が歌っている「きれいじゃない」の映像を入れなくてはダメだと、勝手に思った。それで、音声のみCD音源と差し替えるという形での収録にした。言い訳がましいかもしれないが、どうしても入れるべきだと思ったのだった。


 長くなったな。きっとこんな駄文を読むより、彼女の歌を聴いた方が何倍も速く、そして何倍も強く、そのことを感じられるだろう。持っている人は再び聴いてください。持ってない人は是非買って聴いてください。上で紹介した曲の内容も、抜き書きでさえない僕の翻訳です。歌詞カードで彼女が書いた言葉そのものを読みながら「きれいじゃない」を聴いてもらえれば、きっと強い心持ちになれます。こんな時代に立ち向かえるような。