Monday, December 27, 2010

安易な批判

 マスコミもそうだし、「民意」なるものの主体である我々もそうだ。批判は簡単なことなのだ。しかし簡単なことばかりやっているのでは、未来など切り拓けない。

 今朝メルマガで送られてきた日経ビジネスオンラインの見出しが「ニュースを斬る:民主党は潔く分裂して出直せ:日本丸はゆっくりだが確実に沈みつつあるぞ!」だった。記事を見るとそれなりに理由を付けながら現状を憂いているような展開で、結論として「党内の路線対立で政策を一本化できないならば、潔く分裂したら良いだろう」と結んでいる。

 バカか。もしここで民主党が分裂でもしてみろ。その先に待っているのは自民党による政権である。しかも自民党に取って代わる可能性のある政党のない状況で、他に選択肢のない結果的な長期政権だ。世襲率が極めて高いおぼっちゃま政党にこの国の未来を任せられるというのならそれもアリかもしれないが、それがダメなのはハッキリしているのだ。民主党を批判する人たちの多くが先の衆議院選挙をさして「民主が良くて選ばれたのではない、自民党が否定されたのだ」と言う。だとすれば、民主の崩壊で自民が復活するのは、最悪のシナリオになってしまうのではないか?

 国の将来に絶対の青写真などない。だから政党も、その中にいる政治家も、さらにはマスコミも国民もそれぞれ違った指針に基づいていろんなことを言うだろう。自分と違う意見の人たちによって描かれたロードマップには批判もしたいだろう。だが、それらをすべて聞いていったら、政治は前に進まない。船頭多くしてなんとやらだ。大事なのはある信念、哲学に基づいて国の設計図を作っていくということである。純日本風の木造建築なら柱を組むことで強度を生むのだし、西洋的な2×4工法なら壁で強度を生み出す。どちらがいいではなく、どちらもアリなのだ。だが1軒の家を1階は柱で、2階は壁でとやっていると、たちまち全体の強度は失われるだろう。つまり、国というものを1つの家だと考えた時、そこには一貫した建築思想で貫かれた設計図が必要だし、どの設計図で行くかを決めるのは、リーダーシップを持った家の代表である必要があるのだ。長男の意見も次男の意見も、末娘の意見も聞いていいだろう。だが最後にはお父さんかお母さんが決断する必要があるのだ。

 だが今の政治をめぐる環境では、そういう設計図を作るということが悪であるかのような雰囲気が醸し出されている。なにか問題が起こったらわあわあ騒ぐ。自分のことは棚に上げてだ。今も菅内閣の法案成立率が悪いことを指摘して「だからダメなんだ」という。しかし先日の参議院選挙でねじれを生んだのは国民の投票行動であり、そういう結論にしたら法案は成立しなくなるよということは最初から判ってたのだ。だったらそれは菅内閣のせいではない。そういう混沌を国民が選んだのだ。それが本当に民主への否定なのだとしたら、2院制の日本では次の衆議院選挙までの間に起こる混乱は当然覚悟する必要がある。その覚悟を持って国民が民主惨敗を選んだのであれば、法案が成立せずに予算も混沌とする状況を国民全体で受け入れるべきだし、そういう覚悟を持って民主惨敗を選んでいないのだとしたら、先読みが出来ない国民の知能レベルの低さを嘆くべきで、菅内閣を非難するのは筋違いだ。国民が選挙で国会議員を選ぶ権利があるということは、当然選んだ結果について国民が責任を持つ義務があるのであって、それをすべて無視するかのように内閣のみを批判するのは、民主主義というものをまったく理解していないばかりでなく、民主主義を自ら放棄するごとき愚盲な行為に他ならない。

 国は、そうそう変わらない。小沢一郎が宮沢内閣の不信任に賛成を投じて政治改革への道に進み始めて17年である。その間2度の政権交替を果たしたものの、激しい抵抗と形振り構わない攻撃に曝されながら、今なお苦境に立たされ続けている。政治資金報告の記載について意図的な誤解に基づいた攻撃を受けているが、その裏で多くの天下りが行われ続け、甘い汁を吸い続けている人たちがどれほどいるかである。僕もその動きを見つめながら、ああ、改革というのはそうそう進むものではないのだなあということを実感している。進まない最大の理由は、改革の意志を持つものへの攻撃の凄まじさだ。テストで100点を取らないヤツは全員落第だとでも言わんばかりの攻撃姿勢だ。打率が10割無いなら選手としての資格なしと言うかの如しだ。しかし実際にはそんな批判は当たらない。そういう批判そのものが間違っているのである。間違っているというより、意図的にそういう間違った批判を行っているのが現在の政治を取り巻く環境である。これでは進展するものも進展などしない。

 進展しなかったらどうなるのか。国は沈んでいくのである。それでいいのなら、批判もすればいいし、その批判を鵜呑みにすればいい。だが、僕は沈んでいいとは思えない。多くの人もそうだろう。件の日経ビジネスオンラインも「日本丸はゆっくりだが確実に沈みつつあるぞ!」と読者を脅しているのである。沈んではいけないということを言いたいのだろう。その脅しに読者がビビって「ああ、民主党よ潔く分裂しろ」と思ってしまうと考えているのか。だとしたら悪意ある記事だし、そう考えていないのであれば、愚か極まりない記事だと言えよう。

 はっきり言って、現在の日本は国難に遭遇しているといえるレベルにある。この苦境から脱することが喫緊の課題である。そのためには、国民も痛みに耐える必要がある。ではその痛みとはなにか。消費税増税を容認しろということなのか。いや、そうではない。政治がどうなるのだろうかという不安に右往左往すること無く、とりあえず自分たちで選んだ政権なのであれば、些末なこと(仙谷氏の問責決議など、自衛隊を「暴力装置」と言っただけのことでしかない)で非難しまくるのをグッと我慢して、次の選挙まで見守るということが、「不安/失望」という痛みに耐えることなのだ。別に未来永劫その政権に従属するということではない。選挙があるのだ。その時に投票という権利を行使すればいい。それまで我慢しろなどと言うつもりは更々ない。だが、その程度の我慢も出来なければ、政権は常に右往左往せざるを得ないし、本質的な政治に費やすべき時間を数合わせのために費やさなければいけなくなってしまう。それこそが国を停滞させる根源なのだということを、僕らはやはり覚悟しなければいけないのだと思う。

 とかく世論調査という名の怪しげ(質問の仕方が公表された世論調査など皆無である)な民意を繰り返し、週単位での支持率で煽り、現在進行中の政治を中断リセットさせたがるのは、そのことで起こる国の停滞への危機意識よりも、停滞によってもたらされる甘い汁の個人的享受の方にプライオリティを置いている人たちがいるからである。一般市民で、この国の将来が不安だと憂う人は、そんな世論誘導にひっかかってはいけない。安易な批判は結局自分の首を締めるということを今一度肝に銘じる必要があるだろう。

Tuesday, December 21, 2010

音楽と映画

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 早稲田松竹で『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』を観た。年の瀬も押し迫るこの時期に2本立て4時間以上を映画館で過ごしていいのか、オレ。でも先生ではないので、師走にも走る必要なし。それも困ったものだが。かつてビクターに勤めていた時、先輩に「映画なんて2時間しかかからないんだし、そのくらいチェックできないようで文化の最先端が判るわけがない」などと言われたことがある。人間的には嫌いな先輩だったが、その言葉だけは反論できない教訓としてずっと心に刺さっている。かくして、映画を観に行くことに一点の後ろめたさも持ってはいけないと、勝手ながら信じ込んでいるのである。

 『THIS IS IT』は言わずと知れたMJの遺作。その言い方はちょっとヘンだな。どの辺がヘンかは今さら説明することもないだろう。昨年の今頃だったろうか、限定公開の最初の週に観に行き、公開延長してまた観に行き、DVDも購入した。マイケルのライブはBADツアーの時に4度生で観たこともあって、個人的にマイケルは特別なアーチストである。一方でストーンズ。ストーンズの東京ドーム初公演もビクターにいた頃だから、もう20年以上前のことかもしれない。それも2度観に行った。でもマイケルに比べるとストーンズはそれほどフェイバリットアーチストではない。ないが、今も現役として最前線で活躍しているのはスゴいと思う。13枚のオリジナルアルバムで解散したビートルズは、もはやその活動がないことで伝説となる。音楽の素晴らしさとは別に、活動の終焉はもう見られないという思いも加わっていくが故に伝説になりやすいのである。マイケルにしても、生きていたらTHIS IS ITがあれほど注目されただろうか。もう見ることかなわないという心理がリスナーの判断を、ある意味誤らせるのだ。

 そういう意味で、やはりストーンズは別格であると言えるだろう。ある意味前例のない境地である。その映画がTHIS IS ITと二本立てだったので、忙しくとも是非見たいと思っていたのである。

 結論として、面白さもそれなりだった。この映画はマーチンスコセッシが作ったという。冒頭このライブのセットをどうしようというところから始まるのだが、プランについてのストーンズの返事が返ってこないことに苛立つスコセッシのシーンから始まる。ツアー中のストーンズは楽屋でビリヤードをしたりしていて、返事など簡単に出来るだろうにという様子なのだが、それでも返事はこない。スコセッシもセットのことはもうあきらめ気味になり、「せめてセットリスト(演奏曲目)だけでももらえないだろうか、曲順までは要らないから」と言い出す。しかし当日になってもセットリストはあがってこない。リハは進むがセットリストは出てこない。そしてセットリストが届けられるのは、なんとライブの幕が上がって、キースがJumpin' Jack Flashのイントロを鳴らし始めてからなのだ。

 ストーンズはおそらくマーチンスコセッシのことを他のライブ番組制作のテレビクルーと同程度にしか思ってないのではないだろうか。スコセッシは映画界では大物だし、ハリウッドスターたちも撮影では皆言うことを聞いてくれる立場だから、その自分が撮るんだからストーンズが言うことを聞くのも当たり前だと思っていたに違いない。だがまったくそんなことにはならず、いつものようにライブをこなし、それをただ撮らせてもらうだけである。

 音楽の世界はある意味狂気だ。そして狂気でなければ面白い音楽は生まれない。それはちょっと言い過ぎかもしれないが、普通ではないところから生まれるものの面白さというのは確かにある。その面白さをリスナーは喜ぶのだが、その分だけ間近にいるスタッフは振り回されて消耗することは少なくない。そのことを知ってて、理解した上で音楽の狂気に近付くのならいいが、知らずに近寄って困り果てるのはよくあることだと思う。スコセッシはまさにそんな感じで、そのうろたえぶりが僕にはとても面白く、これはコメディ映画がはじまるのかとさえ思ったのである。

 ライブが始まると、映像は過去のインタビューシーンとライブの演奏シーンが交互に映される構成になった。で、思ったのはマーチンスコセッシは音楽を知らないなということ。どの曲をやるかを事前に知りたいのはカメラがどこを狙うべきかを決めるためだったようで、セットリストがライブ直前にしか手に入らなかったので多少可哀想な部分もある。しかし、じゃあセットリストを事前に入手していたらいい映像が撮れたのかというと、多分そんなことはなかっただろう。基本的に狙うのはミックの表情で、演奏のことは二の次のようだ。キースのソロの時にロンウッドの姿を延々写しているところが沢山あったし、キースを写してもギターを弾く手元はほとんど映らず、バストアップばかりである。観ていてとてもイライラした。コーラス隊は何度もアップになっているのに、チャーリーワッツはいないかのように無視されている。せっかくの素材と舞台を手にしているのに、もったいないことである。

Monday, December 20, 2010

最高の休日

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 2010年12月19日は僕にとって今年最後のライブになる予定だった。カノープスのレコ発記念ライブ。無人島ライブの当日である。

 この日カノープスはトリの出演で、その前にみみずくずというバンドが出演した。名前は知っていたものの、詳しいことはよく知らない。ライブを見たことはおろか曲を聴いたこともなかった。過去にメジャーデビューをしていたらしい。だがそれがいつなのかもどの会社からだったのかも僕には何の予備知識も無かった。

 カノープスのビデオを撮影する。それが今日の最大の目的だ。撮ったビデオは編集して即座にYouTubeにアップする。アルバムプロモーションの一環になれば。リハの時間に一度会場に行ってみた。思ったより狭かった。今日はレコ発で満員が予想されているだから、いい撮影アングルを確保するためにはカノープスの出番ギリギリでは遅いかもしれない。だから僕はその前のバンドからスピーカー前の位置を確保することにした。それが、みみずくずだった。

 おもしろいなと思った。いろいろな意味で。彼らがメジャーに行った理由も判る。そしてメジャーに留まれなかった理由も判る。才能には沢山の種類がある。音楽で成功するのに必要な才能は主に2つだ。音楽の才能と成功の才能である。そしてその両者は根源的に相反するものであることが多い。音楽の才能は孤独であることが要求される種類のものだ。群れていては唯一の表現は難しくなる。そして成功の才能には集団で生き抜くことが要求される。音楽が音楽ビジネスに転化する際に様々な場での世渡りが必要となり、そのために集団の中に身を置くことがどうしても必要になる。なぜなら一人で何でも出来たりはしないからだ。その相反する才能を発揮するのは極めて難しいことである。だから、もっとも身近で自らの才を全身で信じてくれる代弁者がいるかどうかが、音楽で成功するために最大唯一のカギになる。だが、孤独になりきる過程でその最も信頼すべき代弁者のことを信じられなくなってしまうことも少なくない。

 そうして2000年にメジャーデビューを果たし、2004年に事務所を離れる。普通はそこで解散となってしまうケースが多いのに、なぜかやめるきっかけを失ったんだとMCで語った。もちろんそれは形だけの表現なのだろう。解散して音楽を止める場合に音楽を続ける理由を失うのであって、続けることにこそ理由も意味も必要なのである。彼らは音楽を続けている。彼らには続ける必然性があった。そうでなければ、音楽を続けるなどという苦しいことが出来るわけがない。苦しいことを超える喜びが、彼らにとっては音楽だったのだ。

 音楽をやる資格とはなにか。自分の音楽を他人に聴かせる資格とはなにか。それはとても重要なことだと思うのだが、あまり語られることはない。自分がやりたいから。それは単なるエゴである。だったらカラオケボックスで歌えばいい。練習スタジオに入って思う存分演奏をすればいい。よく河原でトランペットを吹いている人がいるが、近所に住む者には迷惑以外のなにものでもない。それと同じだ。ましてやライブでチケット代を取ったり、CDを作って金を出させたりするなんて、エゴでやられたら甚だ迷惑である。だからそこには資格があるのだと思う。その資格は、音楽をやることが苦しさを超えるのかどうかだと思う。苦しさが勝れば、不遇な時に続けることなど出来ない。続けることが出来なければ、その表現に期待し共感したリスナーを裏切ることになる。だから、ちょっとやそっとの苦しさごときで止めるようでは資格など無いのである。

 僕の周辺に多くいる、メジャー未経験で夢を抱いているミュージシャン。彼らの満たされない思いと、一度メジャーに行って売れなかったという結論を得ているミュージシャンでは、痛みの質がまったく違う。みみずくずは違う質の痛みを感じているに違いない。そんな彼らのパフォーマンスが、とても楽しかった。見ていて小気味よかった。ボーカル林レイナはライブ中のMCで、三週間前に母親が急死したことを語った。その日から大阪に向かって通夜だの葬式だのを慌ただしく過ごし、今もまだ実感の無い世界に包まれていると。こんな状態でライブなんて出来るんだろうかと思ったけれど、メンバーとスタジオに入って音を鳴らし始めると、なにかスコーンと抜けるようで、音楽の中に入っていけたと。だから今日ライブがあって良かった、呼んでくれたカノープスありがとうと。そのMCのあとに「最高の休日」という曲を歌った。それが最高にカッコ良かった。いろいろな解釈があるだろう。僕は、これは人生の歌であり、同時に音楽へのオマージュだと思った。音楽は純粋で手軽で、だからこそ獰猛で苛烈である。ただ旅の供として携えるだけならばこんなに適当な相棒はない。だが、それに正面から向き合って御していこうとするのであれば、簡単に思う通りになどいかないし、一切の手心を加えてくれず、下手をすれば人生そのものを飲み込んでしまう。それが恐ければ逃げればいいのだ。そして遠くから眺めるだけの距離を取れば傷つくこともない。だがあまりに正面から見つめあうせいで時として魅入られてしまい、その場から動けなくなる。そして気がつけば痛みさえも快感に変わっていく。そのことは実は最初から解っているのだ。それを理解して受け入れた者だけが、音楽をやる資格があるのだと、僕は思っているし、彼らみみずくずにはその資格があるのだと思う。売れようが売れまいが、そんなことはまったく関係ない。

 今日はその「最高の休日」を新しく録音した新譜が売られていた。CD-Rだ。2曲入りで840円。だが今日は500円で売られていた。音楽ビジネスを成立させようと日々頑張っている僕から見ると、その商品形態は有り得ないと思うし、もっといいやりかたもあるんじゃないかなとか思うけれども、それも音楽をやる資格という視点で見れば些末な問題でしかない。僕はそのCD-Rを買った。音楽を本当に愛するミュージシャンたちへの一種のリスペクトの気持ちとして、そして感動できる音楽そのものを手にしたいという欲求から、買ったのだ。今この文章を書きながら、たった2曲のそのCD-Rを、エンドレスで流しているのである。

Tuesday, December 14, 2010

20周年記念日の雑感

20周年を迎えるこの日、なにか書くべき、書かずにはいられない。

 これまで世話になった多くの人たちへの感謝とか、そんなものも考えはした。でも形式ばかりになってしまうし、長いだけでつまらない。20周年とは、これまでの振り返りでもあるが、それを礎石とした未来へのターニングポイントでもある。だから、今思っていることを書いてみようと思う。世話になった皆さん、ありがとでした。簡単ですみません。心のすべては、言葉にはできないのです。

 さて、音楽業界はこの20年で大きく変化した。当然だ。変化は音楽業界に限ったことではない。どんな仕事も時代とのキャッチアップだ。遅れていたら淘汰される。ではどんな変化があったのか。まず、インディーズというものが普通になった。ショップで扱われない立場から、どこのショップでも扱ってもらえるような状態になってきた。それでも店頭に置いてもらえることはまれじゃないか?そうだ。だがビクターで営業をしていた頃に知ったことだが、メジャーだって店頭に置かれているのはごく一部でしかない。インディーズが最初から全部置いてもらおうなんて虫が良すぎる。

 店頭に置いてもらいたい。それは昔からの悲願だ。あわよくば試聴機に入れてもらいたい。20年の間で試聴機に入れてもらえたものも少なからずある。だがやはりごく一部だ。一般の人に聴いてもらう機会なんて、そうそうあるわけでは無かった。それが現実だ。ネット以前の、ほんのちょっと前の現実。

 しかし、今やレコード店の試聴機に入らなくても試聴してもらう機会は増えた。ネットである。まず、自分のサイトに音源をアップして聴いてもらうような仕掛けを一生懸命作っていた。embedというタグをただ貼付けただけではダメだったりしたし、HTMLを独学で学んだり、マクロメディアのDirectorに組み込んだりもしたりした。だが今やそんなタグなんてなくても曲は聴いてもらえる。myspaceにmp3をアップすればすぐに世界公開だ。YouTubeにアップすればビデオも見てもらえる。ビデオの編集だって、10年以上前はSCSIでつないだ複数のハードディスクをRAIDにして再生速度を確保したり、5分のムービーの画質変換に28時間とか普通だった。それが今やノートパソコンでお気軽にできる。家庭用のビデオカメラでフルハイビジョンだ。5分のムービーの画質変換に10分かかるともう軽くイラッとする。

 肝心のレコーディングだってそうだ。20年前の最初のCDはmidiのデータを5インチのフロッピーで保存したし、ノイズだらけの4トラックカセットマルチで録音していた。それが今やノートパソコンでデジタル録音。レイテンシーの問題やテイストの違いはあるけれども、少なくともヒスノイズとは無縁である。少々のタイミングのズレはもちろん、音程の修正だって簡単に出来る。出来上がった音のやり取りもオープンリールテープからDAT、そしてCD-Rへと変化してきた。今ではWAVファイルをネットで転送も当たり前だ。

 すべてがお手軽である。

 お手軽は素晴らしい。何もかもが出来るようになった。かつてはちゃんとしたレコーディングはプロのスタジオじゃなければ出来なかった。出来た楽曲を売るのもメジャーの流通じゃなければほぼ不可能だったし、それなりに権威のあるメディアに登場しなければ存在を知らせることだって不可能だった。今やそれがすべて個人のポケットマネーのレベルで出来る。

 何でも可能だ。それは同時に逆のハードルが上がるということでもある。世の中に僅かの才だけが君臨していた時代から、有象無象までが発信をするという時代。当然才は有象無象に埋もれていく。リスナーは多くの選択肢の前で戸惑い、本来選択したい選択肢にさえ辿り着かないという状況に陥っている。権威あるメディアも個人メディアの渦に巻かれる。無料のweb情報を見るのに時間を取られるのだから、有料のメディアに割く時間は当然削減される。有料だから素晴らしいとか、無料だからクズだとか、そんなことを言っているのではない。価値は分散し、一定以上の活動を行うのに必要な注目(経済的価値/予算)を失い、目先の情報に追われることになり、ドッシリと先を見据えた情報提供は後回しになる。

 音楽も同じだ。たった10曲をレコーディングするのに予算がかかるとしたら、それは人生を賭けた勝負になる。だからクリエイターも表現者もみな必死になるし、成功に向けてあらゆる努力を惜しまないだろう。だが、お手軽に出来るレコーディングに誰が人生を賭けようか。才能無き者が暇つぶしにMacをいじって曲を作る。楽器なんて弾けなくたって構わない。誰に聴かせたいとも自分の人生を委ねようとも思っていない楽曲(?)が世に出回る。先日もあるブログに
「素人でもiTunesストアに曲が載せられるかを試したくて、テキトーな(自分で書いていたのだ)トラックを使ってやってみた。ちゃんと有名アーチストと同じところで自分の曲が販売されるようになった。感動だ」
と書いてあった。それが現実だ。iTunesというフィルタを通すと誰もがアーチストで、なんでも商品だ。

 そんなものを、リスナーは聴かされるのだ。聴かないとしても、価値ある創造に辿り着くまでの障害となって立ちはだかる。価値ある音楽を聴く機会を奪われてしまうのである。

 問題は、その「価値」の判断がどこにあるのか、だれが判断するのかということである。メジャーというのはその役割を担ってきた側面がある。彼らが選んだ才能を彼らによって提供され、限られた選択肢の中から選ぶことしか、リスナーには許されなかった。もちろん彼らのほとんどは真摯に音楽を選んでいる。でもそれだけではない。コネでデビューするようなケースも少なくなかった。巨額な金が動くわけだから、純粋な想いだけで話が成立するわけがない。スポンサーとの絡みもあるだろう。メディア上層部とのしがらみもあるだろう。どろどろとした情念の世界が渦巻くこともしばしばだ。それに付き合わされるのではリスナーも不幸だ。

 だから、現在のように誰もが発信出来る状況というのは少しはマシになったと思う。選ぶ意思のある人には選択肢が提供されるからだ。人はそれぞれ趣味指向があって、自分が聴きたいものを自由に選んで聴く権利がある。その権利を行使出来る状況は素晴らしい。メジャーが素晴らしいと思って世に出すものを「つまらない」と感じる権利もあるし、メジャーがこんなものダメだと思って世に出さないものを「素晴らしいじゃないか」と感じて聴く権利もある。選ぶことに苦労するのと、選ぶことを許されなくてお仕着せの文化を享受する安定と、僕だったら苦労を選びたい。

 だが、多くの一般リスナーにそれを強いるのは無理がある。仕事があるし、家庭がある。音楽は不可欠であっても、最優先事項ではない。だから、それを最優先事項にして人生を賭けている者が、その判断をする必要があるのだと思う。僕は、インディーズレーベルというものの役割はそういうことだと思う。20年前は、世に出ることの出来ない価値を世に出すために苦労をした。障害は、世の中に発信出来ないという環境だった。作ることのハードル、知らせることのハードル、届けることのハードル。これをアーチストと一緒になって超えようと努力してきた。

 しかし今、僕らの努力の質は変わったのである。障害は、中間にある組織ではなく、リスナーの前に広がる発信者だ。自称アーチストという有象無象がリスナーに押し寄せてきていて、聴きたい音楽に到達出来ずに溺れようとしている。そういうリスナーが岸に辿り着くための道標や、灯台というのが僕らレーベルの役割に変わってきている。そう思うのだ。

 今密かに進めていることがある。それはレーベルというものの在り方を変えていくということである。これまではレーベルはミュージシャンとタッグを組んで、その音楽を世に出すための仕事をしてきた。そのタッグ性ゆえに、ともすれば発信する音楽の価値の在り様がいびつになることもある。特にインディーズの場合、未知数のアーチストとの仕事になる。未知数の中の可能性にスポットを当てることが仕事のメインになる。だが、未知数であるが故に、将来への期待も必ず実現するという保証が無い。それでも僕らはプッシュしなければならない。プッシュすることが彼らの将来の可能性を引き出すエンジンであり、結果が出ればそのプッシュのすべてが正しくなるのだけれど、結果がでなければ、プッシュしたことがすべて空言になってしまう。プッシュしている時点では正しくもあり、空言でもある。それをリスナーに信じてもらうことは、僕らの賭けに賭けさせることでもある。僕らは活動のハンドルを握っているから結果を受け入れる覚悟もあるが、単なるリスナーにその覚悟を強いるのは適当なのか、僕はこの20年ずっと悩んできていたのだった。

 在り様を変えるということはどういうことなのか。まだ構想段階なので何ともいえないのだが、大まかにいうと、プッシュの公平性を求めていくということである。レーベルは作って売るだけではなく、他社製品であってもプッシュするという存在に変わるべきなのだ。そういうことを、考えているのだ。明かせない部分がいっぱいあるため、中途半端な提示で申し訳ないけれども。

 
 長々と書いてしまった。20周年の記念の1文なんだから、許して欲しい。まあいつも長いのだが。これからも頑張っていくので、どうぞよろしく。


Thursday, December 02, 2010

20周年ベスト解説〜「BEST OF YOUR HEART」PRIVATE THEATER


(上記バナーをクリックすると本日の曲をお聴きいただけます)



20周年を記念した3枚組ベストアルバムをリリースすることになった。毎日、1曲ずつ紹介しています。1日限定で楽曲をアップしていきますので、よろしければお聴き下さい。(曲は毎日変わります。次の解説ブログがアップすると、このページの楽曲も新しいものに変わってしまいますのでご了承下さい。)

21. 「BEST OF YOUR HEART」PRIVATE THEATER(1998年「GO-GUY!」KRCL-10003)
 キラキラレコードが西早稲田にオフィスを構えてから最初にリリースしたオムニバスに収録の1曲。PRVATE THEATERはバリッとした衣装に身を包み、まさにショーといったライブを展開するロックエンターテインメントバンドだった。このオムニバス「GO-GUY!」参加後、ボーカルのお母さんの体調が悪くなり、看病のためにバンド活動も停滞していってしまったが、それさえなければアルバムリリースに向けて頑張っていきたかった。キラキラレコードに残されたのはたった2曲に過ぎないが、僕の中では激しくて切なくて、永遠の名曲。この20周年ベストでその想いを共有できて嬉しい。