Wednesday, September 28, 2011

Facebookの距離感

 Facebookはおせっかいだ。僕が誰と友達になろうと勝手だろう。昔同じ学校に通っていたというだけで「こいつと友達になれよ」なんて言ってくる。一方で知らない誰かに友達リクエストを送ると「お前はこいつを知ってるのか?いいか、実生活で知らないヤツにリクエスト送るなよ」なんて言ってくる。余計なお世話だ。たくさんの人と友達になるきっかけを作ろうとしてるとアクセス制限なんてしやがる。おまけに、「こいつと友達になれよ」というおせっかいに従ってみたら、その人はすでに5000人のフレンドがいるからリクエストを受け付けられないと。5000人の制限枠に到達している人をなんで「こいつと友達になれよ」ってリストに入れるかね?実にイライラする。

 友達というのは難しいよ。他人なのか友達なのかという境界線はどこなのだろうといつも思う。例えば昔同じ高校に通っていただけで、確かに当時交流はあったけれども、その後25年以上会話さえない相手は、友達なのか。交流が途絶えるのにはそれなりに理由がある。別々の仕事や暮らしを選んでいく中で疎遠になる。それで友情が途絶えるというのも悲しい話だが、だからといって、同じ高校に通っていたというだけで友情だと断言するのもおこがましいような気がするのも事実だ。そこにはそれぞれの人の感覚というものがあるだろう。どこまでが友達で、どこからが他人なのか。希望としてあいつとは友達だと思いたくとも、あいつはオレのことを友達と思ってくれているのだろうか。その確信がないと、うっかり「おう久しぶり」というのも憚られる。片思いの女子に告白して玉砕というのは、青春時代ならアリかも知れないけれど、不惑の年齢を過ぎてそれはないだろう。まあ友情関係のことさえ見極められずに不惑というのもおかしな話だが。

 で、Facebookだ。大学となると同じ学年でも知らないヤツがたくさんいるが、高校だとほぼ全員を認識できる。最近高校の同級生から友達リクエストをもらうことが多くなった。僕自身は2年前からfacebookをやっていて、主に外国人との交流の輪を広げようという目的で続けているのだが、この半年ほどで急速に日本でも浸透してきて、しかもmixiなどと違って年配のビジネスマンにも普及しているようで、だから高校の同級生たちも始めたのか、それで僕を発見してくれたのか、友達リクエストをしてくれるのだと思う。リクエストが来て、そいつと自分は今も友達なのだろうかという疑問は常に頭をよぎるのだが、「承認しますかどうしますか」と言われて「承認しません」という意思表示をするほどの確信もないから、ほぼ自動的に承認をすることになるわけだ。それで友達の一丁上がりである。外国人との交流を目的にした僕の拙い英語での近況に対してもガンガンコメントをくれるし、「イイネ」ボタンを押してくれる。なにやら友情の復活なのかなんなのか、ちょっとしたカオス状態。

 で、高校の同級生が友達の中に増えてくると、Facebookからの「こいつと友達になれよ」攻撃の中にその高校の同級生たちがどんどんと顔を出してくる。場合によっては同級生が「こいつとも友達になれよ」という推薦をするらしく、うっかり友達リクエストが来たのなら承認しなきゃなとボタンを押して、実はそのボタンはまだ友達リクエストを送ってくれていない元同級生に自分から友達リクエストを送るためのボタンだったということに後から気付くはめになる。僕はそいつと友達なのか、それとも昔同じ高校に通っていたというだけの共通点を持った他人なのか、判断をすることも無く友達リクエストを送信してしまったことにがっくりしてしまう。それってヘンか?

 以前mixiで連続で足跡を残した人がいて、どうやらその人は大学の同級生のようだったのだが、その時点で15年以上の交流ブランクがある相手は果たして友達なのか、それも判らないなと思った。足跡があって、日記を見ているのであれば何らかの関心があるのだろうが、それで友達と言えるほどのことなのか。だから日記で「友達と思ってくれるのであれば名乗り出てマイミク申請してくれればいいし、そうでなければそっとしておきますよ」と書いた。ほどなくしてマイミク申請してもらったので、こちらもそう認識して対処すればいいんだなと判ったものの、足跡機能がなければ、そういう確認も出来なかったんだろうと思う。

 だが、Facebookには足跡機能はない。その環境で、昔の高校の同級生をFacebookに「友達になれよ」と言われても、正直困るのだ。おそらく相手にも僕のことが「大島ってヤツと同級生だろう、友達になってやれよ」というおせっかいがされているんだろうと思う。それで、相手も友達リクエストを送ってこないのだから、そこには距離があるんだと、僕の方でも認識すべきなのではないだろうかという気がする。

 とはいえ、友達リクエストを送ってくれた高校の同級生たちには多少の感謝も感じているのだ。僕が持っている距離感など感じずに、「高校の同級生なんだから、それはもう友達だろう」って思ってくれて、ばんばんリクエストを送ってくれて、そのおかげで「ああ、オレもあの高校の一員だったんだな」と感じることができている。毎日のお昼ごはんの写真なんかに「イイネ」って。赤面しそうなくらいだ。

 昔からの友達。なんかいいモノだ。なんかイイけれど、親しき仲の礼儀というものもきっとあるんだろうと思う。その礼儀は、日本の社会での礼儀と、他国での礼儀は違う。バーチャルの、Facebookの中での礼儀というものもきっと独特なものが存在するんだろう。新しい文化でもあるFacebookの礼儀というのは、まだ完成されていなくて、だからそれぞれが戸惑いながら距離感を図っているんだろうと感じている。僕の礼儀は控えめなものだ。だが、別の人がもっと積極的な礼儀を信じていたとしても不思議ではない。そこで僕の行動とは違う行動でアプローチしてくれて、控えめな礼儀の僕は多少の戸惑いを覚えながらも、ちょっとした嬉しさも感じている。その中で僕の中での礼儀の在り方も変化するだろうし、それはもしかすると僕自身の変化なのかもしれない。そう思うと、この海の中にもっとどっぷりと浸かることが、僕自身が変わっていくチャンスになるのかもしれないとさえ思う。



(僕のFacebookとTwitterのアカウントはこれです。良かったらリクエストやフォローしてください。)

Tuesday, September 27, 2011

機会の平等無き社会

 昨日の判決について様々な議論が噴出している。様々というが、実際はこの判決の不当性について語る声が多いような気がする。もちろん僕自身が見たい意見を見たがっているという点はあるだろう。だがその点を差し引いてみても、やはり判決批難の声ばかりが目立つ様相のように思える。そんな中、「この裁判官が良心を持っていればこんな判決は出せなかったはず」という言葉がいくつか目について気になった。良心を持っていればこんな判決を出せなかったというのはどういうことなんだろうか。それは個人の良心によって職責を超えた判断をすることを認めるという意見なのだろうか。僕はそれは違うと思う。まったく誤った意見だと思う。

 もちろん人には心がある。そこには良心も悪意もあるだろう。今回の裁判官は明らかに踏み込んだ解釈と判断をしている。証拠として採用されていないことがらを状況証拠として推認して、有罪判決を導き出している。これはこれまでの法律の運用からすると明らかに踏み込んでいる。踏み込むとは一体なんなのか。それは個人の心をそこに過剰に当てはめるということだ。ある人から見た「良心による行い」は、対立する人から見れば「悪意に満ちた行動」に映る。今回の判決は、小沢支持の人からみれば「悪意に満ちた行動」であり、判決だと映るはずだ。だが、それは裁判長の心の価値基準に照らせば、「良心に従った結果」そのものだったのだろう。この裁判官には「良心」があったのであり、その「良心」を過剰に判決に盛り込んだため、証拠無視の推定有罪を推認したのである。小沢支持者にとっては悪意そのもののとんでも裁判長と映ったのだろう。

 僕は、今回の判決は不当だと思う。だがそれは裁判官に良心がなかったからなのではない。彼に法の番人として法を守ることへの意識が欠けていたから導かれた不当判決なのだ。

 現在の政治の世界で、小沢一郎というのは官僚に対抗できる実力と信念を持つ唯一無二の存在であると思う。だから彼の手足がこの裁判で縛られているというのがものすごくもったいないと思うし、縛っている者たちは千回八つ裂きにされてもまだ足りないとさえ思う。その既得権益者によってこの国の進歩が止まっているのだ。その点は改めて確認したい。当然今回の判決も彼の手足を縛ろうとするものだし、そういう点でも納得は行かない。

 だが、今回の判決のポイントはそこではないと思う。

 僕はこの社会に生きる上で、公平に生きたいと思う。法律は誰に対しても平等であるべきである。それが担保されるから、安心して生きていけるのである。誰かが自分に危害を加えようとしても、最終的には法がそれを防いでくれる盾となる。裁判は公平であらねばならない。有罪を言い渡す場合は、明確な証拠がなければならないというのが、その公平さを担保する大きなルールであり原則だったはずなのだ。そのルールが今回破られている。これを許せば、社会の公平など簡単に吹き飛んでしまう。

 僕らは法の下の裁きを受ける権利がある。公平なルールで裁かれる権利がある。それは誰にとっても等しく平等にある権利であって、それはすなわち、機会の平等ということそのものなのだ。

 どんな社会が理想なのか。それはその人その人の哲学によって変わってくるだろう。僕は、機会が平等にある社会が理想だと思っている。就職しようとするときにも、コネですべてが決まるのではなく、公平な試験によって決めてもらえる。頑張った人は評価され、頑張らなかった人は評価されない。もちろんそこで敗北した人にも最低限のセーフガードが整えられているということは必要だが、いくら頑張ってもステップアップできなかったり、家柄がいいからトントン拍子に認められるようなことは、社会としてはおかしな話だと思う。その逆は、結果の平等社会だ。頑張っても頑張らなくても同じ生活。善行をしても犯罪を犯しても同じ。小学生の運動会で全員一等賞というのはどう考えてもおかしい。その究極がかつての社会主義国家なのだろうか。結果の平等は悪平等そのものだ。

 今回の判決は、証拠が無くても有罪は可能だということを示している。それは、等しく裁判を受ける権利を著しく侵害している。すなわち、この判決は機会の平等そのものを否定する判決になってしまっているのである。僕らはいつ告発され、無証拠で有罪を受けるかもしれない。それは、この国に安心して暮らし続けるルールとしてはまったくもって不適当である。

 政治は政治家そのものの人間的力量で動いていくものである。しかし、司法はそこに属する人員の人間的力量を排除してもなお公平に動いていかなければならない。そうでないと裁判官によって判決が変わるということになり、決められた法律がルールではなくなるからだ。そうなったら、僕らが公平に裁きを受ける権利が侵害される。それはまったく困ったことである。裁判官には(悪意と表裏一体の)良心など要らないのである。要るのは、法律をどう公平に適用するのかということに腐心する法律の番人としての遵法精神だけなのだ。

Monday, September 26, 2011

信頼できるシステムの崩壊

 僕らは一人で生きることは出来ない。だから社会というものが形成されるのだ。そこで何故生きられるのか。それは、その社会というものを信じているからだ。子供は親を信じて生きる。成長したら人は社会を信じる。青信号は渡っていいはずだし、電車は決められた通り目的地に向かうはずだし、レストランで出されるものは食べても大丈夫なはずだし、国家は国民を守ってくれるはずだ。それを信じられなかったら、どうして生きていくことが出来ようか。

 もちろん、人間のやることに完全は有り得ない。青信号でも突っ込んでくる車はゼロではない。電車は遅れるだろう。レストランで食中毒はたまに起きるし、国家が予期できない災害で人が死ぬことだってある。親が子供を虐待死させることさえ完全には無くならない。

 そういう不幸な出来事が起きた時に、社会は何らかの備えをする。突っ込んできた車の運転手は裁かれる。電車が著しく遅れたら払い戻しされる。食中毒が起これば業務停止になるし、災害で被害を受ければ国は対応をしてくれる。虐待された子供は保護され、親は裁かれる。もちろん時計を元に戻して不幸をなかったことにすることは出来ないだろう。しかしそういう対応をすることで被害を最小にしようとするし、不幸を起こした者にはペナルティが科せられるという共通認識があるから、誰もが不幸を起こさないように最大の注意を払う。

 だから、僕らは必要以上に不幸な出来事を恐れずに、一定の安心をもって生きることができるのである。

 しかし今、社会に対する信頼は最近がらがらと音をたてて崩れつつある。

 原発の問題はその最たるものだろう。事故を起こした責任は追及されようとしない。食の安全は確保されない。国は安心しろというものの、安心できる根拠は示されない。そのことを語り始めるときりがないのでこの場では控えるが、原発事故とその後の対応は信頼が大きく崩れたきっかけとなった。

 今日、石川知裕衆議院議員をはじめとする小沢一郎氏の元秘書3人への東京地裁判決が出た。有罪だった。これだけを言うと「秘書は悪いヤツ」「その親分の小沢一郎はさらに悪いヤツ」というイメージが植え付けられるだろう。だが、ことはそんなに単純なことではない。今回の裁判は単に秘書3人が政治資金規正法違反に問われるということで終わる話ではなく、小沢一郎の政治生命への影響というところに発展する。むしろ小沢一郎の足を引っ張るためにこの事件を立件したと言って間違いないだろう。だからこそ、民主党が小沢代表の下で政権を取ろうというタイミングでの大久保秘書逮捕だったわけだし、国会開会の3日前での異例の国会議員逮捕だったわけである。

 もちろん、それには両論がある。石川議員含む3人の元秘書のやったことが悪質極まりないという人もいるし、本来は報告書への記載ミスを指摘されて修正すればいい程度のことという人もいる。さらには、記載されているのだから隠蔽でもなんでもないし、そもそも違法行為ではないという人もいる。どれが本当なのかは誰にも判らない。だが、同じような記載ミスは沢山あるし、西松建設からの献金も小沢一郎だけではなく、他の人たちは記載さえしていないことを考えると、やはり公平な取扱いとはとてもいいがたいし、逮捕のタイミングなどを考えても異常なことだと言わざるを得ない。法の正義とは何か、その公平な適用とは何かを考える時に、このような異常なバランスが目の前で起こり、これまで罪になど問われなかった事柄で一国の総理大臣候補を追い落とすようなムーブメントが起こりえるというのは、とてもショッキングな出来事だった。

 僕は、この事件で法や社会への信頼が著しく揺らいでいると感じている。これまで原発事故でも信頼は失われた。官僚の腐敗でも信頼は失われた。それらのほとんどは経済的な私欲に基づいた社会の歪みだった。そりゃあ作った米や牛乳を捨てたくないだろう。捨てさせたら補償しなきゃいかんから「安全だよ」と言いたいだろう。自分の故郷を捨てたくないだろう。批難したいという人に補償はできるだけしたくないだろう。退職金は満額欲しいだろう。訴えられたくないだろう。臭いメシは食いたくないだろう。そういう人が社会の公益を優先して私欲を抑えるのは、本来いけないことだが人情的に判らなくもない。社会に私欲優先の意識がはびこるとそこにあるべき信頼は崩壊する。そして現に崩壊している。子供を虐待する親を責める資格がある大人はどれほどいるんだろうと思うくらいにこの社会はヤバい。それでもなお、信じなければ生きていけないのだから、なんとかして信じたいと思ってきた。

 だが、今日の元秘書たちへの判決は、法の正義への信頼さえも崩壊しつつあるように感じられる。法の下僕らは平等であるべきだ。しかし、その信頼が失われている。ソ連や中国の警察組織を信じられるだろうか。北朝鮮の警察組織を信頼できるだろうか。そこに公平があると思っているだろうか。メディアはやたらと批判する。僕らもそういうニュースを見て「ああ、日本人でよかったな」と思ってきた。しかし、今や日本の警察検察に対して全面的な信頼を置ける人はどのくらいいるんだろうか。それでも裁判所は公平だと期待していた。だが、今回の判決で、その期待も儚いものだなということを知った。もはや日本というシステムの隅々にまで不信が浸透している。

 僕らの世代が子供の頃には、いい大学に行きいい会社に入ろう、そうすれば終身雇用で生涯中流の安定した暮らしというものが約束されると、そんな期待があった。だから疑問も持たずに多くの若者は受験勉強に勤しんだ。だが、今となってはそれも幻想。良い学校に行ったからといって安定などしない。不況で倒産リストラは当たり前だし、そんな状況で、どうして青春を犠牲にして勉強に打込めようか。

 それでも不況はある意味仕方のないことでもある。良いときもあれば悪いときもある。だが、正義に不況などはない。あるのは不正義がまかり通る社会かどうかということだけだ。どんなときであっても、個々人がプライドを持って暮らし、正しくないことへは正しさを求める勇気を持ちさえすれば、いつの世の中も公平で正しい社会を実現することは可能なはずだ。しかし今回のように裁判所が不当を許し、社会のバランスを崩し、社会正義への不信を増大させるようになってしまったら、僕らはこの社会で安心して暮らしていくことなど出来ないし、そこで頑張ろうという意欲は沸くはずもない。ことによっては、日本国民の不安だけを増大させる結果を生んだ、とんでもない判決だったと僕は思う。

 なんか、話がまとまってないなと自分でも思う。判決の報道を知り、さっきの石川議員の記者会見を聞き、その後徐々に出てくるニュース速報のうねりや方向を見るにつけ、判決のどこがポイントなのかや、問われている問題が何なのかを報じているニュースが極めて少なく、一方で自民党の石原幹事長の「議員辞職を求める」という発言ばかりが報じられていて、かなり絶望的な気分になってきている。多少まとまりに欠ける文章になっているのはそのためだ。だが、何か今日のうちに書いておかないとマズいような気がしたので、殴り書きではあるけれども、こんな感じになった。

 ああ、つらいよ。

Wednesday, September 21, 2011

出会い

 面識のない人が、僕のつぶやきを見て、こいつがここまでいうのならと思ってくれたのだろうか。キラキラレコード20周年ベストを買ってくれたりする。そして聴いた感想をつぶやき返してくれる。個人的ヘビーローテーションだとまで言ってくれる。そりゃあそうだろう、内容はとてもイイもの。自信作だよ。なにせ20年間レーベルをやってきて、2700曲から56曲を選んだのだ。悪いはずがない。だけど、だからといって面識のない人がこれを選んで買わなきゃいけない理由なんてない。見ず知らずなんだよ。それでも買ってくれる。そして喜んでくれる。喜ぶべきなのはこっちの方だ。申し訳ないったらありゃしない。

 そもそもなんでこういうことになるのか。それは、出会ったからだ。Twitterで僕がフォローする。フォローされた人の何割かはフォローを返してくれる。大抵はそこで終わりだ。フォローしあっているという事実が残るだけで、交流が発生することばかりではない。だが、そんな中でお互いがお互いの発言に触発されたりして、僕の知らないことを教えてくれる人がいて、僕の何らかの発言で何かを知る人がいて、それが本当の出会いにつながっていくのだと思う。

 ほとんどの人は学校に通った経験があると思うが、年度の始めに40人前後が1つのクラスに放り込まれる。向こう1年間同じ場所で勉強をする。便宜上1つにまとめられただけのただの集団。その段階ではそこに集う必然はない。同じような地域に暮らし、生まれたのが近いというだけの集団だ。しかしその中から友情は生まれる。1年間同じクラスにいながらもほとんど口をきかずに終わるヤツもいれば、一生の親友になる場合もある。Twitterも同じだろう。たまたまフォローしあったことに必然はない。フォローしあっただけで終わることもあれば、なんらかのつながりを持つこともある。僕も実際に2年間やっている中でたくさんCDを買っていただいたし、Twitterが縁で直接お会いさせていただいたり、その方の仕事上の商品を買わせていただいたりもした。facebookで知り合ったイギリスの友人とは、会ったこともないのにプレゼント交換などさせてもらったりもした。そこで知り合った剣道好きのイスラエル人に、剣道六段の兄を紹介した。兄にとっては初めての外国人のお友達だったらしく、2人が時々英語で交流しているのをみて、なんか僕まで嬉しくなってくる。

 人間関係はすべて出会いから生まれる。いい人間関係は人生を彩る。その出会いがどういうものなのかは関係ないと思う。クラスで出会ったリアルな友達も、ネット上で知り合った面識のない友人も、みんな自分を高めてくれると思う。クラスで一緒だった全員と友達になるのが難しいように、ネットで知り合った全員と友達になるのも同様に難しい。それは逆にいうと、クラスで一緒だった数人と一生の親友になれるのなら、ネットで知り合った数人と一生の親友になることも可能ということだ。

 大人になるとクラスに所属するということがほぼ不可能になる。だから学生時代の友人関係よりも和が広がることなど稀だった。しかし、今はネットでいろいろな人と知り合うことが出来る。嫌みな人もいるし、常識はずれでKYな人もいる。だからネットはイヤなんだという人も多い。昔掲示板を荒らされてネット不信になった友人もいた。僕はそういうのをナンセンスだと思うのだ。それは学校のクラスに嫌なヤツがいるから登校拒否になるようなもの。その登校拒否によって、親友に出会う喜びも自ら捨てているのだから。

 僕は、積極的にネットというクラスに飛び込むよ。そして親友と呼べる人との出会いを願うよ。小学校のクラスはせいぜい40人程度だったかもしれないが、ネットのクラスに定員は無い。大きなクラスに所属すれば、それだけ多くの親友に出会えるチャンスがあるんだと信じて疑わない。

 僕のTwitterアカウントは昨日フォロワー数が10万人を超えました。ありがとう。数だけがすべてではないし、10万人と本当に交流できているのかというとそうではないだろう。しかし、この10万人のフォロワーがあるからこそ、今実際に交流できている親友たちとの出会いがあったんだと思う。そういう意味で、フォローしてくれた10万のみなさんに等しく感謝したいし、これからももっと多くの出会いにワクワクしたいのだ。もちろん、人にワクワクしてもらえるような自分であることがその前提なのだろうし、広がりが増える分だけ、もっともっと自分を磨かなきゃとも、本当に思う。

Monday, September 19, 2011

コンセプト

 人は誰しも自分が価値あるものだと信じたい。価値あるものとはなにか。そこにもいろいろな考え方があるだろう。生きる価値があるということ。その考えで言えば誰もが価値あるものだ。それを信じているからみんな死なずに済んでいる。だがそれとは別の、生きる価値以上の、他人の生にも意味のあるという意味での価値。そういうものが、あるものでありたいと願うのだ。

 僕もそんなことを考えながら生きている。生きる上でそんなことを考えていると、結局「自分とは一体何物なのか」「自分には何ができるのか」「生きる意味とはなにか」ということを思わずにはいられない。思うことで、混沌の海だった思考は漠然とながらも一つの方向に収斂していく。生きるということは数え切れない選択肢を選択していくことであり、一つ一つの選択は何らかの価値基準によって決定されるものである。人が言葉を発するとその言葉が言霊となり発する者だけでなく聞く者さえも縛っていくように、自らの選択はまた自らを縛っていく。縛られることで、自分の行動規範は確固としたものになっていき、人格を形成していく。つまり、ある程度の人生を過ごしてくれば、どんな人にも自分の哲学というものは出来上がってくるのだ。

 だが、その哲学を具体的客観的にどういうものなのかということをきちんと説明することが出来る人は少ない。歩けるけれども歩くメカニズムを解説できる人が少ないのと同じ。喋れるけれども言語の文法を解説できる人が少ないのと同じ。行動はできてもその行動規範としての哲学を説明できる人は少ないのだ。

 哲学を説明できないということは、最終的には自信を持った生き方ができていないということでもある。しかし、人は自分の生き方に自信を持ちたい。意味がある人生を送っているという確信を持ちたい。だから、自分の行動と近似の行動をしている人の生き方を参考にしようとする。そのモデルとなるべき人物の生き方を、メカニズムとして解説されれば、参考にしようという市井の人はより確信を持った生き方をできるようになる。そのモデルには、おそらく誰もがなれるのだ。

 解説されるべきメカニズムは、既に自分の中にある。問題はそれをわかりやすく解説することだ。解説するために自ら客観的に理解することだ。それを端的な言葉で表現できれば、メカニズムはコンセプトとなり、強い訴求力を持つようになる。持てば、そのコンセプトを自らの生き様に重ねて自信を持つ人が出てくる。そうして影響を広げていくことができるようになるのだ。

 言うのは簡単なこと。だが行なうのは難しい。

 しばらくは自らのコンセプト作りにチャレンジしてみたいと思う。

Saturday, September 17, 2011

可能性

 昨日、夕方からライブを観に行った。少し仕事の話をしているミュージシャンのライブで、会社から徒歩10分ちょっとの会場。京都のライブハウスをまだまだあまり知らないので、できる限り観に行きたいと思っていて、だから今は積極的にいろいろなライブに出向いている。出向いているというのは大げさで横柄な印象だな。誘ってもらって、ゲストで呼んでいただいている。そんな感じです。
 
 で、そのライブはよかった。まだ契約しているわけではないので具体的な名前を挙げたりはできないが、ザ・ミュージシャンという感じだった。まだ無名でライブハウスにも家族や友人が集うという感じだったわけだけれども、こういうのを観る機会があるというのがこの仕事の役得なところだ。本人にやる気があって、途中で迷ったりさえしなければ、将来きっと確実に世の中に出ていくだろう。レーベルとしてはこういう逸材のCDを出したいと思うけれども、それもこちらの一方的な思いだけで実現する話ではないし、実現したところで単にリリースしたというだけに終わることだってある。だからまあ今後の展開に僕自身期待と不安という感じなのだ。今後契約したら、今日撮影したビデオも公開して、大々的に(?)お知らせしていきたい。

 いつもは目的のライブだけ見て帰るのだが、今日は次のミーティングが9時から入っていて、時間が結構空くので次の出演者も見ることにした。男性と女性のデュオ。うーんという感じ。伝えたいことが何なのかもハッキリしないし、演奏がものすごいわけでもない。それなりの大人の2人で、それでこれかという感じだった。でも2人はものすごく楽しそうで、その分だけこちらの楽しさがしぼんでいく。そんな感じだったのだ。

 だが、僕はその2人の活動を否定したりしない。音楽と人との関わりというのはどんな形も許されるからだ。趣味で音楽をやるのも、本気でプロを目指すのも勝手だ。音楽をゴルフに置き換えればよく判るはず。ゴルフをやる人が全員プロを目指す必要なんて無いし、打ちっぱなしの練習場で何回空振りを繰り返したところで、誰かになにか言われる筋合いではない。音楽だって自分のやりたいことを自由にやっていいのだ。人がつまらないと判断すれば次のライブには来ないし、CDも売れない。結局は自分たちの首を絞めるだけのことだ。それでもその人たちが楽しいのであればそれでいいだろう。アマチュアゴルファーがゴルフ場代を自腹で払うのと同じことである。

 今日の2人の音楽、僕は正直好きになれない。自己顕示欲が強い2人の趣味の域を出ていないなあと思うだけである。だが、僕の評価が日本人1億2千万人の意見と合致するわけではない。世界の全64億人と合致するわけでもないのだ。「いや、あれはすごく良いよ、大島さんわかってないなあ」という人もきっといるに違いない。そういう人が2000人いれば、ビジネスは十分に成立する。だとすれば、今日のデュオもそういう2000人を探す旅に出ることを覚悟すれば、自分のやりたいことを貫いたって構わないのだ。多くの人に否定されようとも貫けるほどに自分たちのスタイルを信じきれるかがカギになる。逆にいうと、自分でそのくらいに信じきれないようでは、第三者のリスナーに「気に入ってくれ」もクソもないということである。

 なんか話がズレてきたな。見るつもりもなかったデュオの音楽。それは僕にとってどうでもいいモノでしかなかったのである。そんなどうでもよくて、誰が支持しているのかさえわからないような音楽の存在を、僕は尊重したいと思うのである。なぜなら、いいものが出てくるには層の厚さというものが絶対的に必要であり、つまり逆にいうと、僕らが素晴らしい音楽に接することが出来るのは、どうでもいいモノたちが裾野として広がって存在しているからなのだ。僕から見てたいした価値の無い音楽も、他の人から見るとものすごい価値であるという可能性もある。ものすごい価値が誰にも感じられないものだったとしても、その存在自身が、素晴らしい音楽を醸成するための一翼を担っているという意味からも、尊重する意味も価値もある存在なのだ。

 ちょっとダメなものをダメだと断じるのは簡単なことだ。しかし続けることで1年後には大きく化ける可能性は絶対にある。若くなくても、生きている限り成長の可能性は等しくある。だからこそ、僕は何ということのないミュージシャンの音楽を尊重したい。

 そんなことを思いながら、僕は次のミーティングの場所へと移動したのだった。2人の演奏を見たのはちょっとだけ時間の無駄だったなと思いながら。尊重はしたいが、僕の時間も無限ではないのだ。

Wednesday, September 14, 2011

子供は誰の宝か

 福島の子供をなぜ国は助けようとしないのだ。そういう声は今も強い。避難地域を限定的にしたため、多くの国民が被曝をした。それは福島に限らないだろう。宮城も栃木も群馬も茨城も、そして東京だって例外ではないだろう。

 大人はまだいいんだという説もある。とはいいながら限度を超えたら大人だってヤバいし、軽々に大丈夫なんて言っていられないと思う。ただ、ここでは大人のことは置いて先に進めたい。大人よりも子供の方が影響を受けるというのは一般的な常識だし、子供を守ることが先決だからだ。

 で、子供を誰が守るのか。どう守るのか。基本的には放射線量が高い地域から離れるということになる。そして汚染が高い食品を極力割けるということになる。それも結構大変だ。移住するのにもお金がかかる。本来なら、事故を起こした東電に責任がある訳で、何をおいても東電が費用負担をすべきなのだが、なかなかそうも行かないというのがどうやら現実らしい。それでも東電に文句言ったり一時金を請求したり、するだろうしするのが当然だが、その間動かずにいたら被曝は進む。それでいいというのなら別に第三者がとやかく言うことではないだろう。安心というのなら堂々と悠然と住んでいれば良いし、不安があるのなら、一刻も早く避難した方が良い。その際の費用をどうするのか。自前で持っていればいいけれど、ない場合がほとんどだし、避難するにあたって仕事はどうなるという問題も当然出てくる。だから、国よなんとかしてくれと、思うのが普通だろう。

 だが、ちょっと待って欲しい。なぜ国民は子供の健康についての費用を国に求めようとするのか。その点のコンセンサスは得られているのか?子供って、国のものなの?それとも家族単位の宝物なの?

 今は一人っ子政策の中国も、昔は子沢山の家庭ばかりで、全員に教育を受けさせることも出来ず、1人だけに絞って高等教育を施し、将来その子が出世することで家族全員を養うと、そういう構図だった。これは、子供は家の宝だということが哲学としてあるのだ。だから自分の家族の幸せのために子供は勉強をするし、その他の子供は勉強する兄弟のための家事サポートをする。家族全員で家を支えているのだ。

 日本はどうか。子供を国で支えようという考え方は薄いように思う。こども手当に対する世論が象徴的だ。選挙の時は支持されたけれど、その後はバラマキだと批判された。子供が勉強ができるようになったら親はその子供を頼れると思っているのだろうか。他の家庭の子供が勉強できるようになったら、相対的に自分の子供の成績が下がることになる。子供への教育は家族としての投資であり、その投資から生まれた利益は家族に戻ってくる。要するに株式投資とあまり変わらない位置づけにされているのだ。その証拠に、各大学の親の平均年収を比較すると、ダントツで東大の学生の家族の収入が高い。続いて早稲田だといわれている。金をかければ子供の教育はある程度良くなる。自分たちが稼いだ金で子供に教育を施して、それで良い大学に行ったら将来も安定するし、家族としては万々歳だと、まあこういうことなのだろう。

 一方、北欧などではこども手当は当たり前だし、学校の授業料なんて無いらしい。教育は国の宝である子供を育てる大切なことであり、だから国家としてサポートするという考えなのだそうだ。

 僕はその考えが正しいと思う。特に日本のように資源が無い国では、どうあがいたところで海外から資源を買う必要がある。だから、人間の知力で外貨を稼ぐ必要が絶対的にあるのだ。だとしたら国民の平均的な賢さが要求されるし、その底上げを図るの資金は、個人の資産ではなく国家の戦略的な投資ということがごく当たり前な考えであるべきだ。こども手当はその一環であり、日本の将来展望の根幹を為す政策だったと思う。これをバラマキという人は、国家の未来をどう考えているのか。自分さえ良ければ他人なんて知ったことじゃないとでも思っているのか。そもそも、子供を誰の宝だと考えているのか?

 いくつかの選挙を経て、国の方針としてはこども手当を廃止するという流れになってきているようだ。それはつまり、国家の意思としては、子供は各家庭の宝に過ぎず、それに投資する家庭は投資すれば良いし、教育なんて無用とか、お金が無いから教育は無理だねと思っている家庭は投資しないで低レベル教育でいいということに他ならない。

 だとしたら、放射能で汚染されている地域の子供を、国家が救うはずがない。家庭で教育費に投資できないならバカで良いといってる訳だから、家庭で健康に対する投資ができないなら■■■でいいという理屈になるのは火を見るより明らか。「■■■」に入る言葉は皆さんが勝手に想像すれば良いことだ。僕は「早死に」や「不健康」という言葉を入れるよ。それでいいと言っているのは、政府であり、野党であり、官僚であり、大多数の国民なのだ。

 だから、国に保障をしてもらおうというのは、現時点では根本的に間違っているということになる。それは隣の家に教育費を出してもらおうと期待するのとほとんど変わらないことだ。何度も繰り返すが、国は子供を国の宝だとは考えていないのだ。その国の意思というのは、1億2千万の日本国民の総意だと思って間違いない。自分の家庭の子供の教育は自分の家庭でなんとかするのがベストという以上、自分の家庭の子供の健康も自分の家庭でなんとかする以外に方法はないだろう。

 僕には僕の家族を守る責任があると思うし、だからとりあえず京都に移住した。誰かに保障してもらえるかどうかなんて考えもしなかった。東京が本当に危険かどうかも判らないし、京都だと絶対に安全とも限らない。だが自分で出来ることには限りがあるし、その中で自分に出来ることをやって、その範囲の中で最も安心できる選択をする以外に方法はない。その安心の形は家庭によって、個人個人で違っていて当然だ。だから自分の理屈でそれぞれが行動するしかないのだ。なぜなら、子供を国の宝だとまったく思っていない国に、家族を守ってもらうというのは幻想に過ぎないのだから。

Saturday, September 10, 2011

嬉しい気持

 今朝、奥さんを京都駅に車で送っていった。ライターとしての出張で東京に行くのだ。3泊4日の出張旅行。

 これからのほぼ4日間はある意味自由だ。でも自由ってなんだ?何を食べるも自由、いつ寝ていつ起きても自由、どこに行こうと自由、ツタヤでビデオを好きなだけ借りて見放題。

 でもこれって、要するに独身時代と同じということだな。独身時代はずっとそうだった。大学入学で上京して、ほぼずっとそんな生活。自由は自由だ。自由は楽しい。そのことに疑いはない。あの頃つまらないと思ったことは一度も無い。ありあまるほどのお金は無いということと、1日が24時間ということ以外に、僕に制約などなかった。気ままで楽しい生活だった。

 奥さんの出張は今回が初めてということではない。前回出張で東京に行ってたとき、僕はその数日間に会話が無いということを知った。会話がないというのはつまらないことだな。そう思った。結局DVDを見ることもなかった。無言で京都を散歩して、なんとなく過ぎた。よくまあこんな生活を20年以上やってたなと不思議な気持になった。

 結婚ってなんだろう。それはいろいろな形があるだろう。一つに決められるような単純なものではないと思う。僕だって明確にわかっているわけではない。でもちょっとわかったことは、なんか嬉しい気持を一つ心に持つということだ。単に会話をする相手を得るということではない。しかしその会話が日常に無くなることで、そこに嬉しい気持があったんだということに気がつく。

 とはいえ、そんなことばかり言っていたら奥さんが出張にも行けないようになるだろうし、僕だって仕事で家を空けることはきっとある。この自由な時間を、大切で嬉しい何かを確認する、そんな4日間にしようと、ちょっと思う。

 さあ、まだまだ残暑の京都の町に出かけるとするか。

Wednesday, September 07, 2011

価値観について

どこから始めれば良いのかよく判らないなりに話を始めよう。

 大阪ローカルの番組での武田氏の発言に対して一関市長が抗議をしているという。「農家の感情を逆撫でする非常識な発言」だとか。その発言とは「東北の野菜や牛肉を食べたら健康を壊す」というものだったそうだ。

 人は生きる上ですべてを自分で対処することが出来ない。だから社会というものが出来るし、そこに所属し、依存もする。依存する以上、そこに対する敬意を払うべきだし、責任も発生する。国や自治体には本当に頭が下がる思いだ。でも、だからといって無批判に盲目的信頼を置くというものでもないし、そうであってはならないとも思う。

 僕らには、自由というものもあるのだ。

 先日厚生労働大臣になった小宮山氏がタバコ税を段階的に700円までに持っていきたいと発言して問題になった。僕は、くそくらえと思った。僕自身はタバコなど吸わないし、だからむしろ周囲でタバコを吸う人が少なくなって欲しいと思っている。でも、他者の自由を侵害してまでそうあるべきとは思わない。なぜなら、他人の自由を侵害するということを認めたら、いつ自分の自由も侵害されるか判らないし、その時に反抗できなくなるからだ。

 タバコについてはいろいろな人がいろいろな立場や観点から発言をしている。愛煙家は「タバコがそんなに高くなるのは困る」という。そして財務大臣は「税を決めるのは財務省の所管だ」といった。いずれも、税の問題である。要するにお金のこと。僕はそれはどうでもいいと思っている。僕が問題に感じたのは厚労相の「健康の観点からみて、タバコはやめた方がいいでしょ」という発言だ。健康という大義名分を使って税を取ろうとする。税をどこで取るのかはともかく、個々人の健康に対するリスク管理を国が指図するのかというのが問題なのだ。もちろん国民の健康を考えるのは間違っていない。タバコが健康に良くないのも常識と言っていい。だが、タバコは嗜好品であり、違法なものではない。本当に国民の健康を害する危険極まりないものであるならば、法で禁止すればいいのだ。それはしない。で、タバコの害を知った上でそれを吸っている人は、リスクを判った上で吸うことを選択しているのだ。その選択が「間違いだ」と国が言い、間違った選択を国が正してあげるから、その方法として税を上げますよと言っている。タバコを吸っている人には自分で禁煙する能力もないだろうから、国が税で経済的に締め上げて禁煙させてあげようということだ。そんなバカな話があるか。

 でも、バカな話はそこら中にある。宮城県知事は「詳細な数値を出したところで消費者の皆さんは理解ができない(ので、安全か安全でないかを提示するだけで良い)」と言った。要するに自治体が安全と言えば安全なので従いなさいということ。じゃあどう安全なのかという検証は県民にさせない。それでいいという人はいいけれど、他人の判断に任せてはおけないという人は絶対に安心など出来ない。事実宮城県知事は「500ベクレル以下であれば、どれだけ食べても全く問題がない」とも言っている。どういう科学的見地からそれを断言できるのか。「食べ続けた結果健康を害したという報告は受けていない」というならまだしも、「食べ続けても全く問題がない」だ。あきれてものが言えない。

 放射能についての認識がその程度の人たちによって基準値が引き上げられ、その基準値未満の作物は「不検出」として出荷されている。それが健康にとってどうなのかは判らない。タバコもそうだ。吸った人が確実に10年以内に肺がんになるというのかというとそうではない。煙草を吸い続けてぴんぴんしている人もいれば、吸わなくても肺がんになる人もいる。確実な因果関係が言えるのかというと実は微妙だ。では、だからといってタバコをOKにして、これまで禁煙エリアだったところでも喫煙OKとすべきなのか。そうではないだろう。喫煙による健康被害を恐れる人は少なからずいて、だから受動喫煙をしなくてもいいように禁煙エリアが設けられているのが現代の日本だ。つまり、自分の健康を自分でコントロールしたいという人がいるから、社会はそうなってきたのである。

 これは価値観の問題だ。健康を大切にするから煙草は吸わないという価値観。逆に、健康も大事だが多少のリスクを承知の上で煙草を吸いたいという価値観。どちらが正しいということではない。どちらもその人にとって大切な価値観なのだ。その両方を守るためには、禁煙エリアと喫煙エリアを明確にするということが必要で、タバコを吸う人は自分の吸える場所が少なくなっても、吸わない人のことを配慮して。煙草を吸いたくない人は、一部の喫煙エリアを認めることで吸う人のことを配慮する。それが文化的な社会の在り方だと、僕は思うのだ。

 同様に、放射性物質に汚染されているかもしれないものをどこまで許容するのか。汚染による健康被害について、チェルノブイリの経験である程度判ってきていることがある。そして、科学的に証明されていないことも沢山ある。つまり、不確かなことしか僕らの前には提示されていないのだ。ある意味「お化けはいるかもしれないし、しないかもしれないし、暗いところでは気をつけてね」と言われているようなものだ。お化けを信じていない人は、一切大丈夫、暗いところでも平気ですと言うだろう。しかしお化けが恐い、いないとは思いつつも怯えてしまうという人は、暗いところは避けようと思うだろう。それは、感じ方だし価値観だ。お化けが恐い人に「怯えるな」というのも怖くない人に「怯えろ」というのも筋違いなこと。両方の感情と価値観は尊重されて然るべきことなのだ。

 放射性物質の恐怖について、どこで線を引くべきか。これも確たる拠り所はない。だから人によって気を遣うラインが変わってきて当然だ。宮城県知事の500ベクレルってなんだろう。食べ続けたら蓄積されるのに、そのことへの考慮ってなんなのって思う。電力会社が作ったPRで、プルトくんは「プルトニウムは飲んでもほとんどが体外に排出されるから安全なんだ」と言ってたらしいが、宮城県知事はそれと同じ考えなのだろうか? つまり誰しも恐れる訳で、自分で安心したい訳で、だから数値をきちんと知りたいのだ。具体的には「何処産の何という食品にはどのくらいの放射性物質が検出されていて、それが店頭に並んでいます。この量のものをどのくらい食べると年間の内部被曝はこのくらいになり、他の空気中から受ける影響と地面から受ける影響と、その他諸々合わせて年間の被曝量はこのくらいになります」ということを知りたいのだ。年間の被曝量をどのくらいなら良しとするべきか。それは人がどこに住み、今何歳で、家族はどうで、仕事はどうでといった様々な条件を組み合わせて判断するべきことだ。本来なら被曝などしない方が良いに決まっている。だが、やむにやまれぬ事情で仕方ない場合、どこなら納得できるのかということを、それぞれがそれぞれの事情に応じて考えるしかない。

 それを、県知事の判断で「数値は言いません。ただ県の言うことを信じなさい」というわけだ。宗教か? 宗教でなければ一体なんなんだ。信じるための根拠を示せというのが当然の要求であるはず。それが出来ないのは何故なのか。パニックになるから?パニックになるのは余程危ない数値が出てるんじゃないかと邪推しますよ。それとも検査が面倒なのか。面倒なら面倒でいいから、検査はしてませんと言えばいい。確実にみんな不安になって買わなくなるから。そうじゃなきゃ、農家を守るためか?農家を守って食への安心には目をつぶるって、本末転倒だと思う。むしろ正しい数値を出さないことで、疑心暗鬼は深まり、逆に農家を追いつめているように、僕は思う。

 今回の様々なことで判ったことは、お上は国民の安全への判断を取り上げたいと思っているんだなということ。安全だと言ってるんだから信じろ。健康に悪いから四の五の言わずに禁煙しろ。給食は安全なんだから弁当なんて持ってくるのは禁止。それって個人の自由について何を考えているんですかって、僕は聞きたい。多分何も考えていないのだ。個人の自由よりもお上の強制権が優先している。発想がそうだ。極めて危険なことだと思う。

 この流れがどこに行くかというと、結局成田闘争という振り出しに戻ることになるはず。成田空港を作る時に用地を確保しようと、広がっていた田畑を買収しようとした。それに不満を持つ人たちに過激派が手を貸して激しい闘争が繰り広げられた。その結果どうなったかというと、今も成田の敷地の中にぽつんと農家が存在している。そのおかげで滑走路は短くせざるを得なかったりするし、そういう過去を経ているために、つい最近まで東京の人は羽田から海外に行くことが出来なかった。ぽつんと存在する農家も、ああいう形を望んでいたわけではないはず。だが一番最初に「お上の言うことを聞いて立ち退け、お金が欲しいならやるぞ」という姿勢を見せたから、態度を硬化させてしまったのである。最初にもっと個人の考えを尊重しつつ「国の発展のためにはどうしても必要なんだ」ということをきちんと説明していれば、もっと違った結果になっていたと思う。今回の「お上が安全というんだから黙って従え、売ってるものを黙って食え」「お前の健康のことを考えてやっているのだから、逆らうなら税金で締め上げるぞ」という態度があからさまになると、その反発も怖いぞと思う。事実スーパーなんかでは東北産の産物はどんどん値が下がってしまっている。これはもちろん東電に一番の責任があるのだが、数値を明らかにしようとしない自治体の責任も決して少なくない。

 『日本改造計画』という小沢一郎の本の中に、「グランドキャニオンには柵がない」という有名な一節がある。日本なら柵を張り巡らせて景観を台無しにするだろうに、グランドキャニオンにはその柵がない。無謀なことをして落ちたらそれは自己責任なのだという話である。これは小沢氏の考え方の一端をうかがわせる話なのだが、やはり日本ではお上が安全に対して口を出しすぎるのだと思う。だから多くの国民が自治体やテレビが言うのなら安全だと思い込むし、そう思わない人を「農家の感情を逆撫でする非常識」だと非難してしまうのである。もちろんそこで安全に口を出すことで、自治体は自分の権威を示したいのだろうし、権威を示す裏には予算的なものもあるのだろう。それが本当に安全を考えているのならいいのだが、実際はそうではないから怖いなあと思うのだ。「500ベクレル以下であれば、どれだけ食べても全く問題がない」というのが安全だと言う根拠なのである。そんなこと、信じてると大変なことになるよと、心の底から思う。

 もちろん、放射能物質に対する反応も、人それぞれでいいのだ。「安心と思う人」「騒いで右往左往する危険の方が放射能よりももっと危険と思う人」「人生をありのままに受け入れるので、影響があっても構わないと思う人」「500ベクレル以下ならどれだけ食べても問題ないという人」「農家のことを考えて率先して食べるべきと思っている人」「太く短く生きるんだという人」「どうせ健康に被害が出る割合は少ないのだから、自分はきっと大丈夫と思う人」「多少の放射線はむしろ身体にとっていいんだと考える人」等々、いろいろな価値観があって、それを否定するつもりなどさらさらない。それはその人たちの価値観だからだ。正しいとか間違っているではない。僕は神も仏も存在するとは思っていないが、だからといってそれを信じている人を非難するつもりもない。それと同じだ。それぞれの価値観はそれぞれに尊重され、守られるべき。だから、放射能は危険だから出来るだけ避けたいと思っている人のその価値感も、同様に守られるべきだと思う。そう思わずに自分の価値観を強制しようとするのは、人であれ自治体であれ、大臣であれ、やはりクソだと思う。