Wednesday, August 29, 2012

生き残るということ

 ニホンカワウソが絶滅したという。最後に確認されたのは昭和54年だとか。もう30年以上も前のことだ。その間に絶滅宣言をすることは何故出来なかったのか。いろいろな事情があるのだろう。つくづく、人間は判断の遅いことだなあと思う。

 絶滅したということを認める判断も遅ければ、まだ絶滅危惧の種をなんとかするという判断もまた遅い。今こうやってニホンカワウソが絶滅したよ、かわいそう、などと言ってるヒマがあったら、今まだ絶滅していないものをどう保護するのかについてエネルギーを注いだ方がマシだ。でも、それよりもカワウソかわいそうの情が先行する。かわいそうがるのは人間のエゴだ。でも、そのエゴがなにより優先するのが人間であり、特にこの日本という国の特徴だろうと思う。

 バンドが解散したというニュースに、Twitterなどで「残念だ」という言葉が並ぶ。本当に残念なら、解散する前にCDを買えばいいじゃないかと思う。ライブに行くのだっていい。最近売れてなさそうだと思うんだったらCDを10枚買って周囲の人に勧めるくらいのことをやればいいじゃないか。しかしそういうことは一切せずに、YouTubeで聴くくらいで、解散したと聞けば「残念だ」という。その残念って言葉はどの程度の残念なのか?「バンドが自分たちのお金をつぎ込んで貧乏しながらツアー回ってCD出して、それでYouTubeに新曲を只でアップしてくれることが今後もう期待できなくて残念」ということなのか。それは、残念という感情とはほど遠いよ。もっと言うなら、「これ以上バンドマンから搾取できなくて残念」ということでしかないよ。

 もちろん、バンドが解散する理由は金銭的なものだけではない。だが、音楽をやることで裕福な収入が得られて、多くの観衆の前で演奏が出来るのなら、多少イヤなことがあっても続けるという人の方が多い。それでも内部分裂とかケンカで解散をするのなら、それはもう仕方ないけれども。

 バンドマンの側も、本当に生き残る努力をしているのかと首を傾げたくなることが多い。生き残るためには、自らの存在を広く知らせる必要がある。そのための方法論はいくつもある。お金がかかる方法もあれば、地道だけれどもコツコツとやるべき方法もある。お金がかかる方法はなかなか難しいケースが多い。だが、コツコツとやることは誰にだって出来る。でも、ほとんどのケースでそれは実行されない。つまらないのだろうな、コツコツは。「いい歌を作って、披露すれば自然と口コミで広がりますよ」なんて言う。だが、そんなに簡単にはいかないよ。だって、いい歌かどうかさえ、聴かなきゃわからないんだから。だから聴かせなきゃいけないし、聴かせるための作業をコツコツやらなきゃいけない。そんなバンドに未来はなくて当然。なんとなく日々を過ごし、変化を求めなければ、バンドであろうと企業であろうと個人であろうと、緩慢に死に向かうだけである。

 
 生き残るというタイトルを付けたのは、そのための判断が難しいということを言いたかったからだ。ついさっき、ある人のブログを見た。その人のことは追っているわけではないし、誰かのTwitterで紹介されていたからたまたま見ただけのこと。その人は南相馬の学校でライブをやってきて、そこに暮らしている人たちと向き合って、なんとかしなければと思ったそうだ。その地域では0.798マイクロシーベルトだったそうで、単純計算で年間6.94ミリシーベルトになるらしい。学校内では除染されて0.1マイクロシーベルト台に保たれているそうだが、安心して暮らせる状況だとは言い難い。それでも、様々な理由を抱えて、住民はそこで暮らしている。良いのか悪いのかではなく、そういう現状だということ。もちろんその状況で「安全だ」と考えるのか「危険だ」と考えるのかも、結局は個々に委ねられている。去る理由も、留まる理由も、様々だ。

 僕は東京だってどうなることやらと、いろいろなことを考えた挙句に京都に引越した。それが正しいのか間違いなのかはよくわからない。だが、後悔はない。先日もFacebookで久しぶりに再会した旧友に「放射能ごときにビビりやがって」と言われた。まあその通りだから仕方ないのだが、東京の放射能状況が大丈夫なのかそうでないのか、素人の僕には正直わからない。でも不安に思いながら生きるよりは、多少なりとも不安を払拭することが僕にとっては大事だと思ったから、引越すことにしたわけだが、それが確実な健康的安全を意味するわけでもないし、東京に暮らし続けることが確実な健康的不安を意味するわけでもない。それは南相馬でも同じことだ。海外から見れば東京も京都もたいした違いではないのだろうし。

 先日のテレビでは、最後にニホンカワウソが目撃された高知県のある村が取材されていた。村の人は「人間社会が自然をダメにしちゃったんだろうなあ」ということを喋っていたが、彼の後ろに広がる光景は田舎そのもの、自然そのものだった。それでもニホンカワウソは生き残ることができなかったのだ。僕のような都会育ちの人間にはわからないような微妙な自然の変化が、名前に「ニホン」とついているような動物を絶滅させるとは。

 人間にはわからないような微妙な変化が、動物を絶滅させるのだ。後から感情論で「かわいそう」などと言っても後の祭りである。生きているうちに有効な対策をしなければ、生き残るというのは難しいことである。だが、実際は生きているうちの方が感情論が優先しているみたいで、それがなんとも哀しくなってしまうのである。

Tuesday, August 28, 2012

野田民主党政治の危険

 野田民主党がどうなのかということについて、もはや論を待たないとは思うが、一応念のため僕が思うところを述べておきたい。

 彼の政治のどこがダメなのかを端的に言うと、主権が誰にあるのかということについての認識不足、いや、誤認にあるのである。

 この国は一応民主主義制度ということになっている。だから国民に選挙権があり、選挙によって国をどう動かしていくべきなのかを決めるということになっている。先の総選挙では民主党も自民党もマニフェストという名の公約を発表し、それに基づいて国民は投票した。つまり国民はこの国の在り様を、それぞれ各政党のマニフェストを元に選択したということに他ならない。

 民主党のマニフェストがどうだったのかについてはいろいろと論があるだろう。デタラメばかり書いている各新聞などは、出来もしないことばかりを約束して国民を騙したマニフェストであり、そんなものは守れるはずが無いと。それについては異論がある。出来もしないことだったのかというとそうではない。それまでとは違う方針で国を変えていこうというものであったから抵抗は大きかった。だから実現に大きな壁はあったが、論理的に破綻しているような内容ではない。それは単に既得権益を持っている側と、既得権益から漏れていた側の攻防であって、マスメディアは既得権益を持っている側の家来のような立場でその論を張っているに過ぎない。今もあのときの民主党マニフェストは実行可能だと僕は思う。問題は、抵抗の多いその理想を押し進めていけるだけの力量を持った政治家がいるのかということだけだ。当時の民主党を引っ張っていた小沢一郎と鳩山由紀夫を表舞台から引きずり降ろしたのが現在の民主党執行部である。獅子身中の虫が、自分たちもそのマニフェストを掲げて選挙をしたにも関わらず、自分はその作成に関わっていなかったかのごとき態度で反古にしている。それが現在の野田民主党ということなのである。

 説明的な文章が続いたので、本筋に戻したい。あのマニフェストはひとつの理想であり、それの実現にはハードルがいくつもあるというのは理解できる。そのハードルを越えていこうという強い意思が政治家には必要ではあるが、百歩譲って今の執行部にはその意思にも実力にも欠けるとしよう。だから、現実を見て実現可能な政治を行なっていくのだというのが、野田政権の今の態度だ。これが根本的に良くない。彼の政権は一体誰から与えられているのか。それは民主主義における選挙制度を根本とした国民主権の考え方を是とするならば、やはり国民から与えられているのである。その主権者の意思を実現するために実務に当たるのが選ばれた政治家の役割である。だが、自民党政治との決別を選んだ国民の意思に反して自民公明との談合に走る。これは完全に主権者たる国民の意思を現場が否定しているということに他ならない。

 これを軍隊を例にして考えるとわかりやすい。軍の最高司令官(肩書きは何であろうと、とにかくトップで決定者)がある国と戦えという方針を示して戦争は起こる。戦争の是非はともかく、戦うとなれば、現場の元帥や大将や末端の歩兵まで含めて全員が戦わなければならない。それを最前線の師団長が「敵国もなかなかいいヤツらだし、俺は彼らと戦うべきではないと思う」と言って戦闘を回避したらどうだろうか。それでは戦争に確実に負ける。戦うべきではないというのであれば、職を辞して別の人に最前線を指揮してもらうべきである。

 戦争をするという例えにすると「それでも戦争は避けるべき」という頓珍漢な反論も出るかもしれない。だからもうひとつ例えてみるが、今度は緊張関係にある両国の国境での状況での例え。軍の最高司令官は「まだ外交でいろいろと和平の可能性を探っている段階だから、国境の警備を厳重にしながらも、絶対に攻撃を仕掛けてはならない」と全軍に命令している状況という例えだ。この時に最前線の師団長が「もう外交なんて面倒なことをやっても、敵国は絶対に妥協などしないですよ。このまま待っていたら相手の兵力が増すだけで、いざ戦闘に入った時に負ける可能性が高まるので、今まだこちら側有利の段階で先制攻撃をするのが得策だ」と言って勝手に戦端を開いたらどうだろうか。現場の感触としてその状況分析がいくら正しかろうと、組織としては完全に間違いである。

 要するに、この国は大きな組織であって、民主主義という理想の基に、国民全体が主権者として政治家を選び、選ばれた政治家は選挙の時の国民への約束に基づいて努力し働くのである。国民が選択した政策こそが実行されるべきであり、それと反対のことをやってはいけないのである。そういうことをしたのでは、もはや組織ではない。すなわち、この日本という国が国家で無くなるということを意味している。野田政権は、それを現在やってしまっている。司令官たる国民の命令を無視し、戦うべきで無いところで戦闘し、戦うべきところで戦闘を放棄している。だからダメなのだ。

 それでも「いや、マニフェストは実現不可能なことなんだから」というのなら、辞して他人にその職を譲らなければならない。すなわち解散総選挙だ。解散の権限は野田総理にある。それは実現不可能なことではない。辞して、その上で自ら「実現可能」なマニフェストを掲げて国民に問い、国民が「野田のいう通りだよね。前のマニフェストよりもこちらの方が国に取っていいよね」と判断すれば、また政権につけるだろう。それから思う通りの政治をすればいいのだ。

 だが、それを野田はしない。そして国民の選択とは真逆なことをする。それは民主主義の否定である。この野田総理の国家が肯定されるのであれば、実質的な戦力を有した自衛隊が、現場で勝手な判断をして暴発することも肯定されるだろう。なぜなら野田は立場上自衛隊の最高指揮官であり、最高指揮官が上司である国民の命令を無視していいのだから、野田の部下である自衛隊の全隊員が各部署で上官の命令を無視していいということにつながる。少なくとも理論上はそうだ。現実に各省庁の末端は総理大臣の政策をことごとくサボタージュしてしまっている。いつそれが防衛省の末端に起きないとも限らない。そうなってはいけないと思うから、僕は現在の民主党政権を構成しているメンバーを否定し、批判しているのである。

Wednesday, August 15, 2012

ホーム

 日曜日、長男昇太のお宮参りをした。僕らが結婚式をした下鴨神社で息子がお宮参り。不思議な巡り合わせだな。あの時は東京から結婚式のためにやってきたのに、息子はこの神社のすぐ裏の病院で生まれたのだ。

 4年5ヶ月前にもここに集まった家族たちが、あの時はいなかった小さい昇太のために集まった。昇太のためか、自分自身の楽しみのためかは厳密には言えないが、とにかく、楽しそうに集まった。

 お宮参りのあと、近くのお店で食事会。昇太と僕ら夫婦と、松阪のおじいちゃんおばあちゃんと、おばさん。福岡のおばあちゃんと、おじさんおばさん、いとこ二人(昇太目線で)。総勢11人の賑やかな会。嬉しかったなあ。

 なぜ嬉しかったのか?2日かけて考えてみた。それはこの会が、ホーム&アウェイでいうところのホームゲームだったからだ、多分。

 今まで東京から福岡に帰り、兄夫婦と甥姪を加えての食事だったりで、それは、家族の食事に僕が混ぜていただいているみたいなものだったと今は思う。もちろん僕も家族の一員だが、遠くから馳せ参じてきた外様のようなもの。で、結婚してからは奥さんの実家に行き、義父義母義妹と僕ら夫婦。僕がいなくても以前から成立してた食卓に混ぜていただいていた。無論、そんな意識はなく、この家で生まれたかのような馴染みっぷりではあったが。

 だが、日曜日の食事会は、昇太のために、僕ら夫婦の食卓にみんなが集ってくれたような、そんな気がした。僕らのフランチャイズ、京都スタジアムでのホームゲームだった。

 子供の頃は、正月の度におじいちゃんの家に親戚が集まった。でもおじいちゃんが亡くなってからは、その集まりも無くなった。おじいちゃんの家がフランチャイズで、だからみんなが集まれたのだ。フランチャイズもないチームは、何処かにアウェイとして出向くしかない。今は母の家に、兄と僕が集う形。母のすぐ近くに住む兄家族にとって、母の家はセカンドホームみたいなものだし、兄の家で食事会をすることだってある。だから、福岡から遠くに住む僕はいつもアウェイチームだったのだ。

 そんな万年アウェイチームの僕のところに、福岡から、松阪から、万年ホームチームの人たちがやってきた。しかもみんな嬉しそうだ。そういうのが、なんか良かった。

 松阪の家族は日曜日に日帰り。福岡の家族は京都観光をして先ほど新幹線に乗った。

 はあ〜、ふう〜、疲れたよいろいろ。でもそんな疲れを乗り越えて、家族は家族になっていくんだと思う。アウェイチームがホームチームにランクアップするのが、そう簡単であるはずはないのだ。

Friday, August 10, 2012

金メダル

オリンピックが盛上がっている昨今、まあ僕も見ている口ですが。つい3週間前までは「あれ、ロンドンオリンピックってもうすぐなの?全然盛上がってないけど」なんてことを言っておきながら。

 で、そんな昨今とは関係なく、僕は仕事で単純作業をしていた。朝からずっとやっている作業で集中力を切らさないために、ストップウォッチを取り出した。iPhoneのやつ。で、1工程を計ると、12秒。つまり1分間で5工程出来るということだ。10分で50工程、300工程やるためにはちょうど1時間かかるという計算になる。だが、ちょっとしたミスをすると12秒は20秒にもなる。しくじってはダメだと思えば思うほど緊張して手先が乱れる。結果、計算上の1時間は平気で1時間半にもなってしまう。

 そんなことをしながら、僕は思った。アスリートのやっていることというのはこういうことなんじゃないのだろうかと。僕らはオリンピックを見て簡単に「もっと速く泳げないのか」などという。だが、彼らのやっているのは、僕が1工程12秒かかることを7秒でやるということなんだろうと思う。それを世界のトップクラスが競っていて、人類として6秒半は無理だが、7秒なら可能で、あとはその7秒をどれだけコンスタントにミス無く維持出来るか。そういうことなんじゃないかと思った。

 例えば水泳で、今の泳ぎ方だと7秒だが、工夫すれば6秒90くらいにはなるかもしれないと考える。だから、今までの泳ぎ方を変えてみる。だがうまくいかない。しかしフォーム改造には筋肉改造も伴い、簡単に前のフォームに戻すこともままならない。それでも6秒90になれば、他を引き離すことだって出来るに違いない。そう思って、トライする。それを全世界のトップがやっている。そういう究極のことを4年間やって、ロンドンに集っているのだろう。

 そんなことを考えながら、僕は自分がやっていることはどうなんだろうと考えた。目の前の単純作業の効率を上げることが僕にとっての金メダルではない。だが、こんなことであっても、集中してやりこなせば30分でも速く終わり、その分別のことに費やすことが出来る。その積み重ねが、人生を豊かにするんじゃないかとか、そんなことを考えたのだ。

 このブログも、一時期(ブログに移行する前の日記の頃)は毎日のように更新していた。それは今から考えるとヒマだったということなのだろうか。今は結婚もし、子供も生まれ、自分だけの時間はどんどん減っている。だが、それが自分の人生を小さくしているなんて思うのは間違いだと思う。もっともっと無駄にしている時間が多いような気がする。それを見つけて、減らしていくことで、有意義な時間の使い方を出来るような、そんなことをふと考えたりしたのだ。それが結局もっとブログを書くということにつながるのかもしれない。ブログをたくさん書けば有意義なのかと問われれば、どうなんだろうと首をひねるしかないが、でも毎日文章を書いていくことで、文章は上手くなる。自分は磨かれる。それでいいではないか。人間は水泳が上手いから偉いのか?サッカーが上手いから偉いのか?そうではないけれども、上手くて、オリンピックに出場している人たちは輝いている。人はそれぞれの輝き方がある。文章が上手くなる自分というものにも十分に価値がある。ぼんやりと過ごして文章が下手なままよりは、ずっと有意義だ。

 つまり、水泳が上手い人が目指す金メダルもあれば、サッカーが上手い人が目指す金メダルもある。僕はオリンピックに出場は出来ないけれども、僕なりに目指す金メダルがあっても良いじゃないか。それは日常を見直して、集中力を高めることでそのメダルに近づけるんじゃないだろうかと、そんなことを思ったりしたのだ。

 今日もこうやって、出社して午前中に2つの仕事を終わらせた上でこうしてブログを書くことが出来た。今までならずるずると午後を迎えていたことだろう。ちょっと嬉しいし、誇らしい。まだまだ遠いが、僕なりの金メダルに一歩近付いたような気分がする。