Tuesday, December 30, 2008

乱の時代

 最近の政治情勢と経済情勢を評するときにテレビメディアコメンテーターの大勢を占めているのは、「この100年に一度という経済の非常時に政治が混乱して国会が進まないというのはどういうことなんだ、もう与党も野党も一致協力して法案を成立させる方向に向かえないのか」という意見だ。
 
 だが、これはまったく的の外れた意見である。というか、意見でも何でもない。こういうことを臆面もなく叫んでいる人が一部一定の割合で存在するのは当然だし、そういう声も遮断することなく取り上げることは悪くない。だが、マスコミに出るコメンテーターたちがそろってそんな声を挙げ、それが国民として考える当たり前の常識なんだとでもミスリードしようとしている(ミスリードになるという自覚はないのかもしれないが)のはちょっと問題だなあと思うのである。
 
 そもそも、政治とはそういうものだと考えなければならない。今は言論で争っているが、政治とは権力闘争であり、昔は大名同士が武力闘争をしていたのである。現在だって武力で争っている国は沢山あるし、政治というものはそもそもそういうものなのだ。武力で争えば周辺住民は戦火に怯えながら暮らすし、田畑は踏み荒らされ、村そのものを焼き払われたりもする。だが武力闘争をしている人たちには市民の苦労とか悲しみなどお構いなしだし、結果覇権を取った勝者は戦闘で疲弊した自らの財力を整えるため、田畑を焼き払われた農民に過大な年貢を課す。それが政治というものの正体なのだ。
 
 そんな彼らに「戦うな」とか言うこと自体にまったく意味がない。それはコメンテーターに「うるさいから黙れ」とか、レーサーに「ガソリンの使いすぎでエコじゃないから60km/hで運転しろ」とかいうのとあまり変わらない。無駄である。意味がない。
 
 では政治は何のためにあるのか。それは国家国民のためである。しかも広い意味で国家国民のためであって、だからその「ため」というのが国民にとっての今日のメシというものを特定して指しているのではないのだということをもっと考えなければならないのである。もちろん「今日のメシ」も重要なテーマである。しかし同時に「明日のメシ」のことや、「メシを食う意味」のことなんかも考えていかないといけないし、そのことを我々は考えなければならない。もちろんマスコミは今日の危機を声高に必要以上に騒ぎ立てるのが仕事なので、それ自体は放っておく必要があるのかもしれないが、それを見て軽々に同調しないようにしたいと思う。
 
 そもそも今「動かない」ということになっているのは、政治が変わるスピードが遅い仕組みになっていることが原因である。国民が騒いでも政治にはすぐに関係ないし、どうでもいいねと思っていられる制度なのである。今ねじれになっている根本原因は衆参の議席数バランスに問題があるのだが、これは最大で6年前の民意が現時点の政局に影響を及ぼすし、衆参同日選挙でもなければ、現在の国会の構成バランスが3度の民意で成立しているということが問題の根幹であると思うのである。小泉ブームに沸いた3年半前、安倍さんが支持を落としつつあった1年半前。5年半前ってなんだったっけ? まあそのくらいの時代の気分が、現在の我々の生活に影響を及ぼしている。一方でアメリカはこの不況直撃にもかかわらずオバマ新政権にチェンジしようとすることによって国民が期待を持ち得たりしている。その姿を見るにつけ、ああ、今の日本にはそういうダイナミズムというものはそうそうないのだなという気もしてしまうのだ。
 
 で、そういう選挙制度の悪弊を改善すべく動き始めてもう15年以上たとうとしているが、まだそれは終わっていない。自民に本当に体力がなくなり、民主が2期ほど政権を担当して初めて自民と対等な2大政党になれるのだろうし、そうなったときに民主があれほど言っていた選挙制度改革をさらに推し進めることが出来るのか? 自らの手に権力を握ったときに、それを失いやすくするかもしれない制度改革を推し進めていく意志を持ちうるのか。そういうところが問われてくるのであるが、その是非、有無を問う以前に、自民がその改革をやる可能性は万に一つも無いわけで、だから民主党の政権与党の資質云々を検証する前にともかくも民主党に政権を取ってもらわなければ話は先に進まないのだ。そしてそれ無しに民意が政治に反映するということはなく、公明党の集票力頼みの自民党が給付金とかやる羽目になったり、相変わらずの道路利権にうごめく人たちの言いなりになったりすることが続くという未来しか手に出来ないということになってしまう。
 
 それが嫌だと思うから、何とか政権交代に一縷の望みを託したいのだ。政権交代すればバラ色だとか、そんな過大な評価とか期待をしているわけではない。そういうことの先にしか、僅かであるかもしれないけれど光は見えてこないと、そういうことなのである。
 
 それに対して「野党は政局優先させるな」という声を発するのは、それは与党に組みするだけの、猫騙しのような姑息な戦法であり、各局コメンテーターたちは与党の走狗ではないと思いたいが、もしかするとそうなのかもしれないし、そうでないというのであれば、そんな姑息な戦法にまんまと乗せられないようにしてもらいたいと思うのである。
 
 もちろん、選挙制度が改革されることが最終の目的なんかではない。我々国民にとって必要なのは制度ではなく果実だ。だが今の果実は将来の世代の果実を先取りすることでバーチャルに得られている果実に過ぎず、しかもその将来の世代にまともな教育を与えることを(大人の都合で)止めてしまっている。これでは未来など感じられないと誰しも思ったとしても当然ことだろう。そんな状態にしているのは、政治というよりもむしろ行政の方であり、その行政の愚行にストップをかけられない政治の弱さともたれ合い状況こそが不安の根幹であり、そこを直せるのかどうかという能力の有無を100%保証することは出来ないだろうが、それでもそこに突き進む以外に希望の目はないのだということを、もっと多くの識者たちは声に出して発して欲しいのだ。

Sunday, December 28, 2008

フラワーショップキラキラ


 キラキラレコードの社長は花屋である。なんでかという理由はキラキラのホームページを参照してほしいが、とにかくそうなのだ。

 で、花屋の社長(私、大島は一応専務という肩書きです)は毎週土曜日にキラキラの前で花を売りにくる。その活動ももう6年半になるわけで、固定のお客さんもそれなりについている。

 花屋にとって最大のかきいれ時は年末だ。お正月にはどの家庭もお花を飾ろうということなのだろうか。まあ、そんな理由で、花が売れる。毎年この時期になると需要もアップするということで社長は忙しくしている。機会損失を最小にするべく、一生懸命になるのだ。で、僕もそれに協力というか、別に社長命令とかではなく、ま、お手伝いをすることになるのがもう10年以上の年末の恒例行事だ。キラキラ前で花を売るようになる前は、彼の売り場に手伝いに行ったりしていたわけだが、キラキラ前が週末だけの花屋になってからは、この場所を年末は毎日花屋としてオープンさせるのが僕の役割になっている。いやこれも社長命令なんかではなく、自主的に友人としてそれをやっているのだ。社長に売上げがあって潤っている方が、キラキラにとってもいいに決まっているからだ。

 というわけで、昨日は社長自身がやってきて(土曜日だから)花を売っていったが、今日からは僕が花屋として一肌脱ぐことに。なので日中にキラキラに来てもらえると、花を売っている僕の姿を見ることが出来ます。冷やかし半分でいいので、おヒマな方はぜひ足をお運びください。

Saturday, December 27, 2008

バンドマン来社2件

 今日は2組のバンドマンがやってきた。昼に来たのは先日キラキラレコード主催のライブに登場したバンドで、まだ学生で進路のひとつにバンド活動もあるのだという。まあ、進路というには生活の糧を得るための活動としてのバンドなのだが、要するにお金を稼げるようになるということを目指しているわけである。キラキラレコードは音楽で成功をするために努力できる人たちの壮絶な努力によって進んでいく企業であって、最初から「俺たち売れなくってもいいッス」なんて言っているようでは話にならないし、一緒に仕事をやる意味もない。だが、それと生活の糧をすぐに得られるようになるということとはまた別の話で、音楽に限らず、小説家や漫画家、プロスポーツに独立起業家など、自分の才覚で生きていこうとする人にはそれなりのリスクも当然覚悟しなければいけない要素である。一方でサラリーマンなど就職をするという場合、もちろんその能力の提供ということも含まれるが、すぐに企業の役に立つわけでもなく、しばらくはお金をもらいながら修行をさせてもらったりするし、そういう意味では誰しも最初のうちは時間を切り売りすることでお金をもらうという形であり、そういう意味では純粋に自分の才覚で生きていくということとは基本的に別の活動と言っていいだろう。
 
 自分の才覚で生きていく以上、そこには十分な展望、戦略というものが必要だし、予定通りにいかない場合の手当てというものも持っていなければいけない。だが、音楽で成功するということはそれほど確実性をもっていない世界でもあるから、そもそも戦略を立てるということが難しい。もちろんキラキラレコードには音楽で成功するための青写真というか、合理的なプランというもの、それについてのアイディアは沢山ある。いろいろなバンドがいて、それぞれが違った状況に置かれていて、それぞれの実情に合わせてそういったアイディアを組合せながら対策を練っていくわけだが、それでも確実ということではない。それは別にキラキラレコードに限ったことではなく、大手のレコード会社やプロダクションに所属しても、その中で成功を収める者もいれば、同じ時期に同じところに所属していても成功を手に出来ない者もいる。それは個々がどのくらい才能を持ち、努力を惜しまないかということ、あるいは運なども含めてどれだけ条件が揃うかによって結果もまた違ってくるということなのであるし、それ以前に成功というパイが少ないということが決定的な条件でもある。好景気の時と今みたいな不景気な時代では就職活動の成功可能性も違ってくるということと似ている。採用予定者数がそもそも違うのだから、同じ能力を有していても、景気が悪ければ採用が難しくなるということなのである。
 
 大学3年生が音楽で食っていくということと就職活動を同列に置いて考えるということは、そもそもが別のことなのだとは思うが、そう思うこともある意味当然のことでもあるし、その難しいことにチャレンジする時間はそれなりに残っている訳でもあるので、だからチャレンジしようという気持ちは尊重したいし、逆に卒業というタイムリミットがあることで、切迫感も生まれるし、いつまでに結果を出さなければいけないという思いが強くなることが、成功への近道になることもあるのだと思っているのである。フリーターをやって、いつでもいいんだという、そうは思っていなくても結果的にそういう状況に置かれることで、かえって目標が曖昧になるということも事実だ。
 
 例えばダイエットなども、漠然と痩せたいとだけ思っているようでは決して痩せない。なぜなら目標が曖昧だからだ。目標が曖昧というなら、目標を持てばいい。半年後に2キロ痩せる。これならかなりゆるめの目標だし、こういう目標でいいなら誰にだって出来るはずだ。でもその程度の結果だって、目標をハッキリ持たなければ痩せることはない。一方で3ヶ月後に友人の結婚式があるからそれまでにこのドレスを着こなせるようになりたいというような、タイムリミットを持った目標があったとすれば、痩せなければそのドレスは着られないわけだから、是が非でもという強くハッキリした目標が出来るわけで、そのドレスを着るために痩せなければいけない体重が8キロだとしても、痩せる可能性は高いだろう。それがいかに不健康な痩せ方であろうと、痩せるという単一の目標は達成するわけだ。
 
 学生バンドも、考え方が定まってなければ、卒業というひとつのリミットにその活動を妨げられる。だがその条件を逆手に取って自分たちの強みにすることができる。それは学生に限らず、フリーターであっても、正社員で働いている人であっても、立場の違いはあっても同じだ。要するに自分たちの置かれている立場というものがそれぞれあって、それぞれの立場でメリットもデメリットもあるはずだ。成功を得られない人というのは、実は何もやっていなくて、成功しない理由を自分の立場特有のデメリットにすり替えようとする。だから誰にも失敗する意味ありげな理由というものは存在する。でも同じ状況下にあっても成功する人もいるのだとすれば、そんな理由は意味がないことは明白だし、意味がないことを何万語積み重ねるヒマがあったら、その時間をプラスの方向に使った方がいいのになあと思うことはよくある。
 
 今日の昼に来てくれたバンドマンが僕との話にどのようなことを感じたのかはまだ判らない。彼らがこれからやろうとしていたことについてそれが本当に意味があることなのかということを結構シビアな言葉で批判もしたし、批判するだけではなくて、じゃあどうやればいいのかということも提案した。その上で今日来た2人はかなり何かを感じてくれたようだし、前向きに動いていこうという気持ちになってくれたようではある。だが、これを持ち帰ってバンド全員のミーティングになったときに、果たして全員が前に向けるのかどうかというと、それは未知数だと言える。前に向いてくれればいいのだが、すべての場合にそうなるほど、世の中は簡単ではないのだから。
 
 
<
 一方夜のミーティングでは、既に何度も話を重ねてきた2人が来社。3028というユニットは、来年3月にシングルを出すことで合意していた。今回もその件でいろいろと話を前に進めるためのミーティングだった。この2人は年齢的にもお昼のバンドマンとはまったく違うし、やらなければならないこともまったく違う。だが、じゃあ本当に違うのかというと、実はそうではなく、基本は同じなんだと思うのである。それはどういうことかというと、いい作品を作り、それを世の中に広めるということ。もうそれに尽きるのだ。バンドメンバーが多いのと少ないのとでは広がるスピードも初動に於いては違ってくるだろうし、学生と社会人では自由に出来る時間も違う。だが、やることは同じである。いくら良い作品を作っても、知ってもらえなければ売れないし、知ってもらっても良い作品でなければ買ってもらえない。そのシンプルなことをやるんだ、しかも向目的的に合理的な戦略を立てて動く。もちろん自分の置かれている状況に応じた範囲でしか動くことは出来ない。だから夢想のようなことを考えたりしてもダメだし、一方で自分のしたいことだけをやっていてもダメなのだ。3028の2人も状況的に制限は多い。しかしながらやろうとする意欲、アドバイスを取り入れようとする貪欲さはちゃんと持っている。その前向きな気持ちで頑張っているが、一緒に話をしていると、どうしても自分の解釈でやってしまっている状況があるみたいで、こういうミーティングでその間違いを修正することが必要なんだなと思ったりする。まだまだ僕の説明なども足りないのだなあという思いを深めることになるわけだが、それも彼らのように特に反発することもなくミーティングの内容を実践しようとするバンドマンがいるからであって、やはり強い気持ちで動いている人との付き合いというのはどういう形であれ自分のためになるんだなあと思う。立場は違えども、お互いがお互いを刺激しあえるような人間関係をこれからも築いていきたいと思うし、そういう意味でも彼らの成功への取り組みが、少しでも前進していってくれることを願いたいと思うのである。

Friday, December 26, 2008

キラキラビデオニュース



 キラキラレコードで時々不定期に作っているのがキラキラニュースだ。ビデオで作って、web上にアップする。かつては自分のサーバスペースにアップしていたが、今はもうYouTubeにアップする。なぜならYouTubeが以前よりもグッと使いやすくなったからだ。
 
 今回アップしているのは12月21日号。おいおい5日も経ってるじゃないかよって、ごめんなさい。まあキラキラレコードのページでは21日当日にアップしていますから、まあ良しとしましょう。
 
 以前は画面を面白くしようと、僕自身の声で商品を紹介し、それを簡易アニメ(といっても特別なソフトを使った自動生成ではなく、言葉に合わせて一コマ一コマ合わせていくというもの。非常に原始的)が喋るような画面を作って入れていた。で、これがとても大変。凄く時間を食う。ニュース映像を作ろうという気持ちが萎える原因となる。気軽に作れないとなると、ニュースとして発信するものは凄く重要なものだけということになるが、そんな凄い情報ばかりがあるわけでもなく、それで発信自体が滞ってしまう。ミュージシャンからは「ニュースで取り上げてくれ」とか言われて、それをホイホイ聞いているわけにもいかなくて、関係性がギクシャクしたりする。「ニュースに使ってくれ」「いやいや、そう簡単には出来ないんだ」「俺たちの活動は価値がないというのか?」悪循環とはこのことだ。
 
 もちろん、彼らの活動内容がわざわざ取り上げるほどのことでもないということだってある。誰しも自分の活動は過大に評価しがちだ。だが、もっとも問題なのは、気軽にアップできないということだと自分でも思っていた。それで、ビデオの撮影をいかに手軽にするのか、編集からいかに手を抜くか、アップする方法をいかに簡単にするのか、この3点を全部クリアするために、もうアニメでの紹介という形式を省くことにした。そして撮影はビデオカメラではなくてスチル用のデジカメに付いているビデオ機能を使うことにした。これにすると音声がちょっと、というよりかなり弱くて、音圧を上げたりするとノイズが目立つようになる。それでも、それでもいいじゃないか。パソコンへの接続もUSB1本で手軽だし、ちょちょいと出来てしまう。そしてYouTubeにアップするのであれば、どのパソコンからだって出来る。ネットカフェからだって出来ちゃうのだ。もちろんデジカメの画像をそのまま圧縮してアップするほどの手抜きではなくて、そこそこに字幕を用意して当てはめたりの編集くらいはする。でもかつてのニュースに較べれば圧倒的に簡単に情報を出せる。しかも一度YouTubeにアップしてしまったら、各バンドマンたちが書いているブログなんかでも簡単に埋め込めて引用できる。バッチリだ。
 
 これは要するに、時代の流れなのだろうと思う。かつて2000年に日記を始めたときにはブログなんて無くて、だから自分のサーバスペースにアップして公開するしかなかった。ブログが始まってもなかなかそこに乗り換えられなかったけれど、いざやってみれば、これまでなんでやらなかったんだろうとか思ったりする。映像も、そういうインフラの変化で、ユーザーに届けるための方法が変わるし、ユーザーが求めるスピード感なんかも変わってくる。もちろんそれに対応するために粗製濫造になることには注意しなければと思うのだが、でも一方では、速射砲のようにいろいろとニュースを発信していかなければ忘れられてしまうという恐れも、心のどこかに抱いていたいと思っているのである。
 
 
 最後になりましたが、上記の天空快のニュース、マキシシングルが出てますので、みなさんどうか買ってください。amazonへのリンクを張っておきます。
 

Thursday, December 25, 2008

若鶏のコンフィ

 奥さんと神楽坂まで散歩。ランチウォーキングだ。
 
 最近彼女がはまっているというフレンチビストロ。お友達と一緒に出かけたりするのにちょうどいいという。フレンチにはまっているというとなんかセレブリティのように誤解されそうだが、このお店はそんなに高くない、というかかなり安いといってもいいのではないだろうかと思うし(ランチ2皿で1050円、デザートとドリンクを付ければ1500円なのだから)、それ以前に僕の日常的昼食といえば、学生街のがさつなニセ中華屋のニセ麻婆豆腐ライス500円なりだ。
 

 
 前菜と主菜を選んで、デザートとドリンクも選ぶ。結局全部選ぶわけだが、その選ぶという作業も楽しいね。楽しいが、フレンチなんてあまり慣れていない人からすると、単語がいちいち判らなかったりする。コンフィって一体何だよ。でもどんなものが出てくるのかワクワクするっていうのも楽しい経験だ。だってこれ以降はコンフィっていえば「ああ、あんな料理ね」とか判っちゃってしまうわけで、今日のようなワクワク感を味わえるのは今日が最初で最後になってしまうという貴重なことなのだから。もっとも僕の記憶力次第ではまた同じワクワクも味わえるかもしれないのだが。
 

 
 で、コンフィ、美味い。マメと一緒に盛られてきた。マメも美味い。美味い美味い。そんなこんなで約1時間の食事タイムが終了。さっきウィキペディアで調べてみたら、低音の油でじっくりと熱することで長期間保存を可能にした保存食であって、厳密にはアヒルかガチョウ以外の肉はコンフィとは言わないらしいが、そんなのはどうでもいいね。だって美味しいんだから。コンフィにはカスレと共に供されるって、カスレはどうやらこのマメの調理法の一種らしい。
 
 デザートには黒胡麻のなんとかって、プリンみたいなものが出てきた。つーか自分で頼んだんだけれど。奥さんのデザートの方が豪華でボリューミーだった。酸味のあるフワフワチーズに甘酸っぱいフルーツのソースがかけてあった。ちょっともらったけどとても美味しい。無論黒胡麻のなんとかも相当美味しい。
 

 
 ちょっとした贅沢も時にはいいですね。それに、クリスマスに家族での食事がなによりの贅沢だ。
 
 帰り際に穴八幡に寄る。先日の冬至から境内には出店があって、縁日気分を盛り上げている。お腹一杯だったからなんにも手を出さなかったけれど、縁日とかも日本人の贅沢な風習だと思った。

不器用な男たち

 今朝のラジかるッはいつもと違う雰囲気でスタートした。飯島愛の死亡についてヒデちゃんが何も語らないわけにもいかないだろうし、どんなことをどんな表情で言うのか、ほぼ毎日この番組を見ている僕としてはちょっとした興味があった。飯島愛についてはさほどの感慨もないが、それを取り巻くいろいろな人たちの感想にはとても興味があるのだ。
 
 そして様々な人が昨日からコメントを出していた。文章のみのコメントが出る人も、カメラの前に敢えて立つ人も、そして自分の番組でなにか言わなきゃいけない立場だから言っている人。芸能界に数年いれば飯島愛と面識がないという人も少なかろう。その関係性の大小はともかく、なにか言えといわれれば1つ2つのエピソードくらい語れるはずだ。で、メディアもなにをか言わせようとマイクを向けるから、誰もがなにをか語るのだ。誰とは言わないまでも、この機にカメラの前に立とうとする人にはなんか退く。朝のワイドショーでいろいろ言う人たちの言葉にも、ちょっと退く。誰もが飯島愛を美化するからだ。死者に鞭打っても得はしない。哀れみをかけた方が無難なのは間違いない。気持ちとしても悼む気持ちがあると、どうしてもそういうコメントを発するだろう。それは特に売名とか好感度とかを意識せずともそうなって当然で、それが理由で退かれても困ると言うだろうし、僕もそう思うのだ。
 
 だが、やはり一面でその哀悼の辞が胡散臭く思えてしまうのも事実である。断っておくが、僕は飯島愛についてなんの感慨もないし、死んだからといって喜びも悲しみも特にはない。ああ、そうなんだというだけのことだ。でもここからいろいろなことを知ることが出来るとは思っている。不幸の時に周囲はどう振る舞うのかということだ。そしてそれはともかくも、自分が不幸なときに周囲はどういう振る舞いをするのかということを推し量ることが出来るし、そして周囲の不幸なときに自分はどうあるべきなのかということを考えることが出来る。別に処世術として如才ない振る舞いを学ぶということではない。所詮遠くの人に対してまで親身に行動できるほどの人間ではないことはわかっている。しかし人としてどう生きるべきかということ、そして自分にとって本当に大切な人たちに対してどういう人間でありたいのかということについて考えることは、自分が人間として成長することにつながるのではないかと思うのである。
 
 で、ヒデちゃん。沈痛な面持ちで飯島愛との思い出を語っていた。その死を受け止められないような感じだった。死因はまだハッキリしていないながらも、自殺なんかをするような人ではないと断言していた。その上で「バカだよって言いたい」と言っていた。自殺をしたのならバカだと言っていいだろう。でも、自殺をしているはずがないと彼自身断言していて、それなのにバカだと言うのである。最初、それは矛盾しているだろうと思った。文章で見ただけなら、その発言に論理性も一貫性も無いなと思うだろうが、テレビの生放送で語る姿を見て、きっと前日からこの瞬間が来ることを理解していて、なんと言えばいいのかをシミュレーションしていたはずなのに、結局うまくまとまらなかったんだなというのが伝わってきたし、だからたとえ論理矛盾だったとしてもそれがヒデちゃんの偽らざる感情だったんだなと思った。つまり、理由はどうあれ、こんなに早く死んでしまった友人に対してバカだと憤りたかったのだろうし、そんな友人の境遇に気付くこともなかった自分に対してもバカだと憤っていたのではないだろうか。
 
 一生懸命に言葉を紡いでいるヒデちゃんの横で合いの手を入れるように言葉を連射していた木村祐一が道化に見えた。同等の思い出や感情がないのなら黙っていればいいのに。もしも自分の思い出がヒデちゃんと同等だと思っているのだとしたら、それこそ空気が読めない人でしかないだろう。
 
 
 すっかり飯島愛のニュースに追いやられてしまったが、渡辺善美の造反もちょっとだけ面白いニュースだと思った。頑張ったなと思う。まあそう簡単に出来ることではない。小沢一郎たちが大挙して造反した時と違い、まだまだ渡辺善美は同士も策も足りていなかったのだろう。足りていないのにやってしまうところが、彼のまだまだ不器用なところだ。だけど居ても立ってもいられず、やむない行動だったのだろう。彼はこれから同志を集めていく、その核になるべく旗幟鮮明にしようとして、そのために1人造反したのだろう。だから、まだ自ら離党しないわけで、鮮明にした旗の下、「この旗に集まれ」というのがこれから数日の彼の行動になるはずだが、それもそう簡単な話ではない。自分の選挙区のことを考えると、後援会とか派閥の長なんかにも縛られているのが実態だし、大政治家だった親父さんのしっかりとした地盤という背景を持っていて、なおかつ国の未来のためにすべてを投げ打っていいと決断できる人はそうはいないだろう。そしてここが大切なところだが、じゃあ離党してどうなるのかというと、小規模政党を旗揚げするか、国民新党などの弱小政党に入れてもらうか、さもなくば民主党に合流するかしかない。田中真紀子のように無所属で会派として民主党と組むという方法も無くはないが、それでは政策実現は遠い話だし、そういう無力のまま選挙に勝ち続けられるような政治家はごく僅かである。だとしたら、渡辺さんは自分1人で無所属立候補を選ぶか、僅かでも同志を集めて政党を作るか民主党などの既存政党に合流するかしかない。さもなくば、造反はしたものの自民党に残って日陰者として時期を待つかである。10年以上前の自民離党者たちがその後どうなったのか、数年前の自民除名者たちがその後どうなったのか、そしてこのまま自民で政党人として動いた場合にどのような未来図を描き想像できるのか、そういったことを考えると、行くも地獄、戻るも地獄という感が否めない。
 
 それでもやらざるを得なかったのだろう。きれいな絵を描ける筆も絵の具も持たず、だけれども描かずにはいられなかったのだろう。筆も絵の具も持っているのに、いい紙がないといって動こうとしない中川秀直などと較べればよほど不器用で、そしてよほど共感を持てると思う。数日前のブログにはボンボンの限界とか書いたし、その評価は今もさほど変わっていないのだが、でもこの数日で多少成長したんじゃないかなと思う。不器用だと思われても思う道を進むということ。そしてその思う道というのは本当に思っている道であることを自分なりに確認した上での道であるということ。そういったことが前提となってさえいれば、それが時にドンキホーテ的であったとしても、いやそれだからこそ爽快に映ることだったり人だったりするのではないかと思う。
 
 
 そういう渡辺善美の行動に対して、民主党議員たちが満面の笑みで歓迎している映像も映ったりする。だがこれがまた底の浅い感じを露呈してしまっていると残念でならない。党首の小沢一郎は「もし離党したのならば話をする可能性もあるが、離党もしていないのにその言動を評価など出来ない」ということを繰り返しているというのに。
 
 まあ小沢一郎の言っていることには原則論はあってもスピード感がないという批判もあるだろうことはよくわかる。だから10年以上も彼の理想を実現するのにかかって、今なおそれは継続中だったりするのだと思う。いろいろと失敗をして、理想論だけでは物事は進まないということも学んで、自民党の中では若くして絶大な力を握って、自分が決めれば日本が動くと思っていた感もあっただろうが、それは間違いだったということにも気付いただろう。だから彼なりの根回しも、実験も行ってきた。それは端から見れば変節とか、論理矛盾とかいう批判もあったと思う。だが、彼はそうした終始一貫の不器用なまでの原則論男なのであり、だから幾多の批判に曝されようとも、今なお根強い支持者たちに支えられ、国の在り方を託されようとしているのだと思う。そういう不器用さからすれば、まだ自民にいる人たちの言葉に迎合するかのような浮薄な行動は取れないのだ。取れないのだし、取らずにその姿勢を変えずにしばらくいて欲しいと思う。いや、それはもし離党したときの渡辺善美のハシゴを外すようなことをする可能性があるということではなく、目的のためならば社会党とも手を組んだという過去の経験から、そしてあまりの原則論だけでそれを突っぱねては損をするという痛手の経験から、彼がやろうとすることは火を見るより明らかではあるけれども、今は原則論的な立て前を口にするしかないのだし、彼の骨の中には、日々歩いて息をするかのように、そういう自然な論理が口に出ているのだと、僕は思うのである。

Wednesday, December 24, 2008

気持ち悪いものたち

 M1ってなんだろう。とにかく気持ち悪くて仕様がないのだ。NON STYLE、面白いよ。でもそれってどういうことなんだろうという疑問が拭い去れない。
 
 ぶっちゃけて言えば、型に自らはまっているということの哀しさなのだろう。誰かに評価されるということは素晴らしい。だが、評価されるための偏向というか、自分を合わせてしまっているというか、軍門に自ら下ってしまっているというか、そういうものがどれだけ面白かろうと、面白いという評価とは別に、気持ち悪いという感情がどうしても付きまとってしまうのだと思う。
 
 これはミスコンなんかにも感じることなのだが、ミスコンという場があって、そこににこやかに登場しようとする人たち。もしこれが62億の人の顔がネットで公開されていて、それを62億の人が強制的に見せられて、拒否する自由なくもっとも美しい女性に投票した結果とかなら別にいい(そんなことは出来るわけもないけれど)のだが、ミスコンというものがあって、それに「私は美しいのよ」って思ってる女性が自ら応募して、それでその主催団体関係者が選ぶという作業の結果なのである。これも気持ちが悪い。まず「私は美しい」と思っているということを「応募する」という形で表明しているところが気持ち悪い。そして「応募する」ということは、その関係者たちの審美眼を最初から信じますよと思っているということも気持ち悪い。
 
 しかしここ数日のテレビを見ているとM1グランプリのNON STYLEをとにかく持ち上げ、ミスコングランプリの人をとにかく持ち上げ、それで視聴者も喜んでいるとでも言わんばかりのメディアになっていて、それも気持ち悪い。まあそういう「誰かの」評価を受けたということでしか価値判断が出来ないメディアなのだろうし、そして我々国民なのだろうということが露呈しているようで、それが限界なのだろうという、一種あきらめにも似た気持ち悪さが漂うのだ。
 
 アルバムが全曲タイアップとかデビュー3ヶ月で紅白が決まったとかいわれている女性ボーカルバンドも、結局「タイアップ」「紅白」という権威付けによってその価値を評価させようという感じがするし、ド迫力のCM攻勢で世の中に浸透させようとしているわけだが、そういうのに普通に反応してチャートとかに入ってくるのを見ると、「なんでそんなに踊らされるんだろう、もっと自主的な判断とかないんだろうか」とか思って、やはり気持ち悪い感じになってきてしまうのである。
 
 
 まあ、それは誰にも注目されていないミュージシャンたちを一生懸命リリースしては赤字になってしまうレーベルを運営している僕の、世を拗ねた遠吠えと思ってもらっても全然構いません。でも、僕は思うのだ。無名のミュージシャンたちも口を開けば「夏フェスに出たい」と言ったりして、それも権威に擦り寄る、一種気持ち悪いことなんじゃないかと。だから積極的にそういうフェスなんかに対するアプローチなんかしたいとは思わないし、その前にもっとやるべきことがあるだろうと、彼らには言いたくて仕方がない。
 
 
 余談になるけれど、YouTubeでM1の今年のネタを見ようと思ったら、オンエア翌日の朝方にはもうアップされていた。みんなどうして自分の得にもならないことを一生懸命に作業しているんだろうと、それもちょっと気持ち悪かった。で、このブログを書こうと思ってもう一度見てみようと思ったら、朝日放送とかいろいろな関係者が申立をしていて削除されていた。オンエア翌日の昼過ぎのことだよ。それがどのような死活問題になるのかは知りませんが、関係者のみなさんもご苦労様といいたいし、やっぱり気持ち悪いなと思った。

Monday, December 22, 2008

バンドマンへの手紙

あるバンドマンから相談を受けた。彼が今取り組んでいるレコーディングに自信が持てなくなり、リリースそのものを考え直したいという相談だった。もちろんこちらのリリース計画という問題もある。だが、音楽に取り組むミュージシャンのことは常に気がかりなのだ。返事をまとめるまでに時間がかかったけれど、僕なりの意見を投げてみようと思った。特定を避ける意味でも一部伏せ字にして、なおかつ一部削除したものだが、基本的にほぼ全文をここで紹介したい。

-----------------------------------

 メールありがとうございます。返事が遅くなってすみません。

 バンドを維持するというのは非常に大変なことです。だからこそバンドが続くということ自体が一種の奇跡だし、リスペクトの対象となるのだと思います。キラキラレコードの関係でも、解散とか脱退は日常茶飯事です。だから、○○くんがバンドの結束を図ることが出来なかったとしても、それは特に非難されるべき問題とは思いません。

 思うに、○○くんの場合は自分の頭の中に音楽の形がかなりの程度出来上がっていて、それをバンドという人間同士の組合せの中でどう再現するかということを、このところは追求していたのだろうと感じています。ですがそれは最初から結構難しいことでもあっただろうと思うのです。

 なぜなら、まず「他のメンバー自身がそれぞれに音楽の理想を持っている」ということもあり、バンドでたった1人のメンバーの理想を追求するということが、他のメンバーの理想を押しとどめてしまうということにつながりかねないという問題がひとつ考えられます。押しとどめられると、普通、人はいじけます。いじけると一緒にやっていくのが嫌になります。その結果、脱退とかいう状況が生まれてくるのですね。

 そのステップを乗り越えて、○○くんの理想を他のメンバーも理解したとして、次にはその理想の音を再現する能力と意思がどこまで備わっているのかという問題も考えられます。世の中にはそんなに上手な人ばかりがいるわけではありません。上手な人は既にどこかでバンドメンバーとして活動していることが多く、1人あぶれている人をとりあえず仲間にしたという状況では、その人がプレイヤーとして抜きん出ているという可能性はそう高くないといえるでしょう。そうすると、練習はするもののうまくいかない、録音するとリズムがずれるとか、いろいろな思いも寄らない結果になってしまう。

 しかし、音楽活動とはそういうことの繰り返しです。

 そこで、○○くんに逆に質問をしたいのですが、納得とか満足というものはいったいどういうものなのでしょうか?

 こういう質問をする背景として、僕にもひとつの考え方というものがあります。それは、音楽には正解がないということです。

 今○○くんは●●●●としてセカンドアルバムを作ろうと必死に頑張っている最中です。そういう中で試行錯誤を繰り返しています。それはレコーディングの作業の中での試行錯誤もあれば、それ以前の問題としてバンドの形でやっていくのがいいのかどうかという問題での試行錯誤もあるでしょう。ある人を入れてみたものの長続きしないとか、だから脱退してもらったり、向こうから脱退していったり、そんなことの繰り返しでしょう。ライブも1人でやってみたり、バンドの形でやってみたり、いろいろやってみて、自分にとってもっとも最適な形はなにか? それを探す旅の途中といってもいいのかもしれません。

 でも、最適な形はなにかという問いに対して、答えはありません。もしそんなものがあるのだとしたら、世の中のバンドはすべてその形を取っているはずです。しかし現実にはいろいろな音楽ジャンルがあり、いろいろなメンバー編成がある。もちろんソロミュージシャンだっている。それはそれぞれが自分たちの今ある形を最高だと思ってやっているか、もしくはその形でしか活動できないという事情を抱えていて、それでもやっていこうと必死にやっているからだと思います。なぜなのでしょうか? それは、答えは「今の形」がそれだからです。今最高だと思って一緒にやっているメンバーと一生ずっとやっていけるかというと、そんなことは奇跡に近いほど可能性が低いことです。バンドが解散してソロミュージシャンになったとしたら、その時はその形で出来ることを必死でやるしかない。そうやって、「今」の形を必死にみんな頑張っているということなのだろうと思うのです。

 どんな形を取ろうと、人はいろいろと意見を言います。褒めてくれる人も、非難してくる人もいます。どんな音楽だって、それは音楽に限らず、絵や映像、政治活動とか飲食店経営などもそうだし、会社員として普通に勤務する人の生活に対しても、それを知った人はいろいろなことをいいます。ソロ活動をしている人に「バンドの方がいいんじゃない」とか言うだろうし、バンドで活動していれば「ソロの方が身軽で自由だよ」とか言うでしょう。それは、どんなことにも良い面と悪い面が共存しているからです。
バンドマンは基本的にナイーブです。○○くんはナイーブの筆頭といっても過言ではないかもしれませんが、でも○○くんだけがナイーブなのではありません。多くのバンドマンと接して感じるのは、バンドマンは感想を欲するけれども、非難に対してはものすごく恐れている。音楽を非難されるとまるで自分自身の存在を否定されているかのごとくに萎縮してしまう。そんな姿を見るときに、僕は必ず「心配する必要はない、どんなことをやっても必ず非難されるんだから。その非難は、時として嫉妬だったりすることも多いんだ」ということを言います。事実そうですし、無責任な非難に萎縮する義務も必要も全くないと思うのです。

 話は逸れましたが、僕は○○くんに1つアドバイスができるとしたら、それは「今の○○くんの音楽を●●●●として世に出していくことに意味があるのではないか」ということだろうと思います。僕らは今平成の時代に生きています。平成20年もまもなく終わるというこの時代に生きているのです。もしも僕らが1960年代に生きていたのだとしたら、音楽表現も当然変わっていたでしょう。それは音楽に人たちが求めていたことも違うし、僕らが手にすることの出来るテクノロジーもまったく違います。僕らは時にビートルズを嫉妬します。彼らにはまだまだ未開拓な広大な音楽世界が残されていた。しかし2000年代終盤の今、殆どの表現手法はやり尽くされた感があります。ビートルズが今の時代にデビューしたのなら、果たしてあれほどの活躍が出来たのか?それは大いに疑問だと思います。しかし、そんなことはいくら言ってもはじまらない。何故ならビートルズはあの時代にしかデビューできなかったのだし、そして僕らは今この時代に音楽を創るしかないのですから。そしてそれは厳密に言えば、○○くんが今2008年の終わりに出来ることと、2009年に出来ることも結構違うのだと思うのです。そうした考えのもと、僕は○○くんには「今」の自分の音楽に忠実であり、そして自信と誇りを持ってもらいたいと思うのです。もちろん、メンバーが固定できなかったという負い目はあるでしょう。そしてそのために時間を使ってしまって、本来であればここまで出来たのにという理想と現在ある音との違いはあるのでしょう。でも、それが●●●●の2008年であったはずです。その過程で○○くんがサボっていて、一生懸命にトライをしていなかったのであれば、恥ずかしい思いをしても仕方がありません。しかし、自分の中での理想の音楽を目指してトライし、頑張ってきた結果だというのであれば、それを恥じる必要など何もなく、むしろ胸を張って堂々としていていいのだろうと思うのです。

 例え話になりますが、受験に失敗して浪人をすることになったとしましょう。その時に大切なのは合格したかどうかではなく、真剣に合格に向けて頑張ったかということだと思うのです。真剣に頑張っても運悪く不合格になることもある。また、いい加減にやっていても運良く合格することもある。僕はたとえ不合格になったとしても、それまでの過程で頑張ったことそのものが価値があると思うし、そこで頑張ってきたという経験が、その後の活動に対して最も重要な要素だと考えます。僕自身大学受験で2浪していますし、もしかしたらそれを回り道だと思う人もいるかもしれません。でも不合格という現実を知り、だからこそ頑張らなければいけないという気持ちがさらに強くなり、人生の一時期、真剣に取り組んだということが、今の自分の支えになっているような気がします。そういう意味でも、浪人体験はけっして恥ずべきことなんかではなかったなと考えています。

 ○○くんの中に、現時点での作品のクオリティに納得がいかない部分があるということは既に聞きました。ではそれはどの程度の満足と不満足なのかということも問題になってくるのではないでしょうか。いうまでもなく、完璧を目指します。でも、完璧など有り得ないのが現実です。では完璧と非完璧という相容れない2つの状況の間にあるエリアの、一体どこに着地点があるのかということが問題になってくるわけです。これは本当に問題です。なぜなら答えなど存在しないからです。もっといえば、今「完璧」と思ったものであっても、後日考えてみれば「完璧じゃなかったんじゃないか」という疑問は普通に起こってきますし、そして自分が完璧だと思っている音であっても、第三者はいろいろと非難してきたりするのです。そうなってくると本当に答えは見つからず、結果的には2つの選択肢から選ぶということになってしまいます。それは「本当に完璧なものが出来るまで追求し尽くす」という第一の選択肢と、「その時の主観で、なんとか無理矢理にでも納得できる形でOKをだす」という第二の選択肢のどちらかです。音楽家は芸術家ですから、第一の選択肢の方が純粋で真摯な態度だと思いがちです。しかし、それは時に逃避でもあるわけです。なぜならそんな結果は存在しないのですから。第二の選択肢は無責任のように思われるかもしれません。しかし、形にしなければ結果はついてこないし、結果がなければ評価もない。もっといえば、存在すらなかったことになってしまう場合もあるのです。僕はそのことを重視します。これは決して適当にやっていこうよということではありません。今の結果や結果に対する評価から逃げないという、そういう真摯な態度だと考えているのです。

 これまた話が逸れるかもしれませんが、来年△△△△というバンドがCDを発売します。彼らは今年の9月に解散状態に陥りました。バンドメンバー間での意識の違いが発端でしたが、これ以上一緒にはやれないという結論に達したのです。そこで、バンドのリーダーが、バンドをやめて田舎に帰ろうという思いを持ちながらもやはり辞められず、自分以外のメンバーを探して復活することにしたのです。バンドでボーカルが変わるということはかなり大きな変化ですし、以前のボーカルはそこそこ上手かったので、新しいボーカルと練習するうちに「まだまだだな」という思いがありました。そんなとき、10月の末に、あるCM制作会社の人から某携帯電話のCMに△△△△を採用することを検討したいという話が舞い込みました。しかし新しいボーカルでの音源はなく、プレゼンにかけることも出来ずにその話は立ち消えに。僕らは大いに落胆しましたが、その時に彼らは、「いつまでも練習しているだけでは前に進めないということをメンバー自身が強く感じ、まだまだ不完全かもしれないけれど、なんとか作品を形にしたい、そしてそれを自分たちのスタート地点にしたいんだ」という気持ちになりました。それで急遽、CDをリリースする方向で動き出すことにしたのです。それから僅かの間に、練習とアレンジとレコーディングをしました。この中で彼らは「やれば出来ることをしてこなかった。CMの話があって、それ自体はうまくいかなかったけれども、でもそのおかげで自分たちに足りなかったものがなんだったのかということに気付くことが出来たから、結果として良かった。もしあの話がなければ今でもレコーディングはおろか、ライブさえやれていなかったかもしれない」ということを言っていました。

 僕は、○○くんにもその「なにか」を知ってもらいたいと思うのです。きっとやれると思うのです。それはなにも超一流アーチストと同じ音作りなんかではなくて、○○くんに今できるすべてで構わないと思うのです。そして今、○○くんの手には未完成ながら頑張って創ってきた音源がある。それをどう評価するかはもう他人に任せておけばいいのではないでしょうか。今の○○くんの音、●●●●のサウンドを、そのまま出していくことで、初めてその次のステップにうつれるのだと思います。

 長くなってしまいましたね。僕も長時間を使って書いてみました。このメールで○○くんがなにか吹っ切れて、一歩でも前に進むことができれば、一生懸命書いた甲斐があります。

 それでは、○○くんの考えをまた連絡してください。お待ちしています。

キラキラレコード、大島栄二

--------------------------------

この手紙もいろいろな批判を受けるかもしれない。なんのためにそんなことを書くのかとか、それでミュージシャンをコントロールしようとしているだろうとか、いう人はいて当然だと思う。コントロールの反対は放置だと思う。レーベルの存在とは、平時はさほど意味がないのかもしれない。しかし、ものすごく売れているときの事務作業をさばくという役割と、行き詰まっている時の相談役というこの2つが、レーベルの意義ではないかと思うのである。ある時は突き放すだろう。そしてあるときはあとちょっとの気持ちの支えで前に進めるというミュージシャンの支えだったり後押しをするだろう。今回の手紙がどういう役割になったのかはよくわからない。だが、僕としては十分ではないかもしれないが、僕に出来る言葉を投げることしか出来ない場合もあるのだ。

Sunday, December 21, 2008

救済法

 オウムの被害者を救ってくれるということらしい。救済法が施行されたとかいうニュースを見る。
 
 って、遅くないですか。いや、生ぬるい。遅過ぎやしないですか? 
 
 被害者の一体どのくらいの人がすでに鬼籍に入っているのだろうか。サリン被害の後遺症で亡くなった方も、多少の後遺症はあってもそれ以外の理由で亡くなった方もいるだろう。その人たちの気持ちを考えてみる。それは残された人たちへの不安と後悔だ。悔やむったってたまたま偶然にその列車に乗ったというだけのことである。その偶然を反省する以外になにを改めることができるのか。原因を克服できずに結果を受ける。これほどの不公平はないだろう。しかしそんな中で開き直れる人はまだ幸せで、結果として家族に迷惑をかけてしまうとか、一緒にいてやることが出来ないとか、そんな思いを皆抱えながら最期を迎えたりしているのではないだろうか。せめて、国がそのあとの手当を考えてくれるかもしれない。そんなことくらいでも不安を取り除くことは出来る。神や仏を信じるのは来世への希望なら、残す現在への安心を与えるのはこの現在の社会がどうあるのかということだけだ。寿命ならば仕方ない。いずれ来る順番だ。だから残る者たちもそれなりの覚悟をして生きていくしかないと思えるだろう。だけど、それは順番ではなく、逆宝くじのようなアンラッキーの結果であり、その不幸を少しでも取り除くような、そんなことをこの社会はできるのか、それとも出来ないのか。そういうことが問われているのではないかと思う。というより、そんなことを今頃になって問うていてどうするのだ、一体。
 
 にも関わらず、今頃救済をするとかしないとか。しかも申請手続きを受け付けるとか。どうしてお役所仕事ってこうなんだろうねって、ちょっと呆れる。救済法はどうしてこんなに遅くなったのか。法律が成立するのに時間がかかったのか、それとも試行までの時間を置く必要があったのか? なにが事実で正解なのかはわからないけれど、わからない人が大半だということで考えると、そういう大半の人のうちのさらに大半の人は、国のやることに呆れるだろう。そして失望するだろう。そういう小さな失望の積み重ねの先に、大きな失望と反政府主義、アナキズムというものがあるということを、どうか国会の人とか官僚の人とかには思い起こしてもらいたいと切に思う。

Friday, December 19, 2008

世界が静止する日



 早速観てくる。キアヌリーブスのある意味真骨頂な映画だと思う。というのは、キアヌリーブスってなんか真実味がないのだな。真実味がないというのは別にリアルではないとか、演技が下手だとかいうのではない。むしろその演技力を評価したいくらいだ。何故ならあんな役をこなせる俳優はそうはいないと思うから。これホント、心からの叫びです。
 
 つまり、彼のはまる役は、どれも人間のようで人間ではないというもの。最大の代表作マトリックスシリーズはもちろんそうだし、コンスタンティンの役どころもそうだった。そもそものスピードだってある意味人間離れした活躍を見せるわけで、あれは人間だけれども、人間じゃないよと誰かが言ったら素直にうなずいて信じてしまいそうになる。
 
 だからといって、心のない人非人などではなく、どれも心優しかったり、心を理解したくって一生懸命だったりする。シュワちゃんとかスタローンが見せる「どうだい、オレって優しいだろう」と言わんばかりの偽善的優しさとは違い、もしかしたら自分でそれ気付いてないんじゃないのと突っ込みたくなるような不器用さで生きている姿が、なんか憎めない感じの、キアヌ独自のキャラが、作品を超えて活きているように思うのである。
 
 こういうのって、シュワ、スタ、ウィリスといった野郎どもにはもちろん、どんな役もこなしてしまうジョニーデップにも難しいと思う。AIでジュードロウが演じたロボはそんな役どころで、なかなかのものだったなあと思うが、それもあの激しいメイクとCG処理を施してのものである。素顔でそれを演じきれるキアヌとはもう別次元だと言わざるを得ない。
 
 ここまで書いていると、なんかキアヌ大絶賛というように思われるかもしれないが、そうではない。キアヌにはそういう役がはまるというだけのことで、その役にはまるためにキアヌが何か努力をしているのかというときっとそうではないと思う。ただ自分らしさを素直に出せばそうなってしまうだけで、それを見抜いた監督やプロデューサーが、そういう役にキアヌを起用しているだけのことだろうと思う。いや、なんのリサーチも事実考証もしてませんけれどね。
 
 で、この映画。思った通りキアヌ、やってくれる。スーパー超人的な感じが凄くして面白い。映画自体はそんなに面白くなかったのだ。ストーリーの掘り下げは深くないし、地球の危機と家族の愛を重ねるなんて、宇宙戦争とかデイアフタートゥモローとかとほぼ同じで、人間のことを徹底してやっつけようという宇宙人や冷徹な自然が敵だったという点では、宇宙戦争やデイアフタートゥモローの方がハラハラするといってもいいだろう。ま、その「ハラハラする」といったその2作がどのくらいつまらなかったかということを考えても、この地球が静止する日の面白さ度が伝わるのではないかと思う。でも、そんなストーリーとかそういった点を考慮してなお、キアヌのキアヌぶりを観るというだけで、この映画は見る価値があると思う。なんか、ある種伝統芸能だなとか思う。キアヌには人間国宝の資格があるよ。「そんな評価を共有できるぞ、オレ」っていうイカしたセンスの人にだけ、この映画お薦めです。そうでない普通のハラハラを求める人にはもっと別の映画があると思います。多分。

Thursday, December 18, 2008

最後の初恋



 映画『最後の初恋』を観る。目黒シネマにて。原題は"Nights in Rodanthe"。"The Notebook"、"Message in a Bottle"、"A Walk to Remember"等の映画化作品を持つニコラス・スパークスの原作による作品。個人的には"The Notebook"(邦題は『きみに読む物語』)の予告編がとても好きで、実際に映画を観るとそこまでではなかったという印象がある。非常に物語らしい物語で、そうなるだろうと思っていたらそうなっていくという感じで、しかもドラマチックな方向に方向にという流れがある、そういう作品だったのだ。ニコラス・スパークスという作家はそういう作家だと言ってもいいのだろう。ただ、そういう言い方をするとありきたりな話しか書けないダメ作家というような印象を与えてしまう恐れがある。だがそういうダメ作家が次々とヒット作を出し、洋書コーナーでドーンと作品が展開されているという状況など生まれるはずがない。だとすると、文章力が優れているのだと解釈すべきであり、映画で原作を云々するというのは初めから意味がないことだと言ってもいいのかもしれない。
 
 で、今回の映画はリチャードギアとダイアンレインが主役で、恋に落ちる2人を演じる。恋に落ちるとか書くとネタバレだと言われるかもしれないが、このタイトルで主役級がこの2人しかいなくて、恋に落ちずにどういうストーリーが? というわけで恋に落ちると堂々と書くが、別にストーリーをどうこう言うつもりなどはない。僕がこのブログで触れたいのは役者のことだ。リチャードギアはどちらかというと好きな俳優だが、好きになったきっかけはプリティーウーマン。そりゃあジュリアロバーツの方がより好きになったわけだが、リチャードギアも好きになった。強そうだけれど弱さも持っているという役をやらせたらはまり役だなと思うのだが、この作品を観ていて、「あれ、なんでリチャードギアって2枚目俳優としてやっていけているんだろう?」と思った。鼻が大きく、目は小さく、どこにイケメンの風格があるのかと正直疑問である。これならガンバ大阪の遠藤の方がイケメンだぞ。いや、どちらも違うという例えでということでね。
 
 ダイアンレインの娘を演じているメイ・ホイットマンという女優さんがいるのだが、僕はこの人に好感を持った。決して美人とかではない。どちらかというと将来が危ぶまれるようなルックスでもある。だが、演技は非常に優れている。冒頭では憎ったらしいなあという気持ちにさせられるし、途中で母親の異変に直面して成長する姿を、僅かな出演シーンで感じさせるし、なんか、力があるなあと思ったのである。この映画ではあるシーンで主演のダイアンレインが感情の揺れを爆発させるのだが、そこはそれなりの長回しで彼女の演技にすべてを任せるようになっている。そういうところに象徴されるように、全体的に編集力よりも演技力に比重が置かれている映画だと思う。それだから、メイ・ホイットマンの力も伝わったのだろうし、主役の2人の力によって平均並みよりちょっと下という程度の面白さになったのだろうとか、勝手ながら思った。
 
 音楽はとても良かった。だからリンクはサントラにしました。

Tuesday, December 16, 2008

俺聴き:2008年12月10日渋谷タワレコ(Vol.3)

先日のブログの続き。俺聴きという勝手に試聴機を聴く企画で12月10日に渋谷タワレコで聴いたCDの感想第3弾で今回の試聴分は終わりです。



秀吉/へそのお
 これ、イイね。歌モノとロックの中間を行くようなジャンルだと思うが、演奏は結構激しい。彼の歌にこの演奏のテイストは合ってないと僕は思うのだが、その激しさにも負けていない、歌の芯の強さというものを感じる。今売り出しのソウルシンガー清水翔太なんかにも全然負けていない、質の高いボーカリストだと思う。だが、このバンドの名前と、CDのジャケットのほのぼの感が、きっと彼のことを誤解させてしまうし、そして将来的には足を引っ張っていくような気がしてならないのである。


二階堂和美/ニカセトラ
 買うとしたら基本的にジャケ買いの世界。それほどにインパクトもあって手元に置きたいなと思うジャケットではある。で、内容はカバー集。選曲はいい。本人の選なのだろうか? 1曲目に蘇州夜曲を持ってくる辺りが、なんか業界人のあざとさを感じてしまい、本人の選ではないんじゃないかとか勘ぐってしまうし、歌を聴く限りに於いては、彼女はそんなあざとさを持ち得ない、自然人じゃないかと思ってしまう。
 で、内容なんだが、なんか雑多。カバー集っていうとひとつのテイストでいろいろな曲を聴けるなという喜びがあると思うのだけれど、同じ人が歌っているとは思えないくらい、自由で過激。ライブ的なものがあったりするし、オリジナルを崩すっていってもここまでやるかよって感じの曲もあったりするし、なんか聴いていて落ち着かない。バラエティというのではなく、バイオレンスな印象だ。これをずっと通して聴くのは聴く側にも力がいるし、僕にはそんな力がなくてもいいなと思う。もし予算的にお金持ちだったら、2曲目の「話しかけたかった」を聴くためだけに買っても悪くはないと個人的に思う。
 
 

福原美穂/Love~Winter Song
 なんかのドラマの主題歌だというシールが貼ってある。ジャケの写真はなんか森泉みたいな感じだが、この人、力あると思う。聴いていて凄く惹かれてしまう。3曲(タイトル曲のインストも収録だが、これはここでは曲数としてカウントせず)入りなのだが、それらのテイストは全部まるっきり違うといっても過言ではないだろう。だけど、全体に芯が通っている感じがするのは、きっと彼女のボーカル力がストーンとこの3曲を貫いているからなのだろう。これがシングルじゃなければ買いだなと思う。アルバムが出るのを待ちたい。
 
 


 この俺聴きブログ、アップするといろいろと見に来てもらって嬉しい。と同時に明らかに関連アーチストの検索でここに辿り着いている人がいるようで、その人たちに対して申し訳ない気持ちもある。
 
 僕もインディーズレーベルを運営していて、所属アーチストたちが日々どのようにやって作品を作っているのかということも知っているし、なかなか思うように音を出せないながらも締切とかあったりして、「これが今の自分たちのすべてなんだ」という感じで世の中に作品を出しているのが現実だ。それを売っている自分の見方も、愛情を持って彼らの中の良いところを理解してもらえるように訴える毎日だったりする。だから、何も知らないあまり関係のない人が誤解に基づいて勝手な非難なんかをしていたとしたら、ちょっと待ってよ、ちゃんと聴いてよとか言いたくもなる。じゃあ今僕がやっていることはどうなんだ、誤解に基づく非難とは違うのかという自問自答は常にあるし、取り上げられたアーチストのファンたちからすると「ふざけんな」というようなことを書いてしまっているかもしれないとも思う。
 
 だが、世の中に作品を出すということは、評価に曝されるということでもあるのだ。インディーズの売れないアーチストの悲劇は、非難を受けることではなく、その非難さえされるチャンスに恵まれないということなのである。事実レコード店の試聴機に入るということはそう簡単なことではなく、僕にこうやって感想を書かれているというのは、前提として試聴機に入っている、レコード店の人にそこまで認められているということがあるのだ。そういう状態になれば、批評を受けるのは当たり前だ。それは普通に聴いてくれる若者が「これ、つまんねー」とか心の中で思うこともそうだし、僕みたいなのがあーだこーだといってブログに書くこともそうなのだ。趣味とか、得意なジャンルとか、それまでの音楽のバックグラウンドとかによっても感想は変わるし、その時の気分なんかによっても大きく左右される。だからどんな音楽でも良いという評価と悪いという評価に分かれるのが普通であり、だとすれば僕にこうして良く書かれたり悪く書かれたりしたからといって一喜一憂しないで欲しいと願う。願ったところでどう思われても仕方ないのだが。
 
 キラキラレコードに所属するバンドにいつも言うのは、批判を恐れるなということである。批判を恐れれば、トゲのない丸い音楽しか作れなくなる。それはつまらないじゃないか。思いっきり蔑まれるくらいで丁度良いと言っている。その根拠は、売れているモノほど叩かれるということだ。おそらく今の日本でもっとも叩かれているのは浜崎あゆみだったり倖田來未だったりするだろう。だが、そういう音楽がもっとも売れているのも事実だ。それは彼女たちの音楽にはなにか引っかかるものがあるからで、その引っかかり方が、ある人には素晴らしいものとして残り、別のある人にはクダラナイものとして残るだけのことだ。引っかかるものがない音楽など、結局誰の心にも止まることなく、良いとも悪いとも言われずに消えていくだけのことだ。
 
 
 そもそも、僕の発言に影響力などまだまだないのであって、気にするほどのことじゃないですよと、どうかわかって、見逃して欲しいところです。

Sunday, December 14, 2008

レコーディング&ビデオ撮影

 プライベートで多忙だった1日。土曜日は朝から義母が上京し、夫婦で東京案内。義妹や友人や友人の嫁やまた別の嫁さんの友人とか、それぞれ別々に会ったり話したりメシ食ったり、そんなこんなで夜の8時過ぎ。まだ1日は終わらない。嫁さんとその友を残して僕は車を走らせ一路藤沢へ。藤沢のスタジオで有刺鉄線のレコーディングが行われていたのだった。夜の慣れない道で迷いつつも、地図を頼りにようやく22:30頃にスタジオに到着。ほぼレコーディングは完了していて、メンバーは多少疲れの表情を見せていた。だが、こんなところで疲れてもらってはいけない。なぜなら、今夜僕は彼らのビデオ撮影をするために藤沢までやってきたのだから。

 ビデオ撮影についての僕の考え方はというと、まずは作るということが大切だというものである。かつてはビデオを撮影してもそれをテレビで流してもらうことは結構難しかった。しかし今はYouTubeなど、ネットで見てもらう機会が普通にあるし、だからどんなマイナーなPVでも、ユーザーが「見たい」と思えば見ることが出来る。しかも即座にだ。おそらくバンドの姿を見るという機会は、ライブハウスで生で見るよりもYouTubeで見る機会の方が多いだろう。しかも気軽に、世界中のどこからだって。だとすれば、バンドがライブをするということと同等か、それ以上の重要性があるはずだと思うのである。

 では、どういうものを作れば良いのか。もちろん良いものに越したことはない。だけれども自ずと限界はある。まずは予算的なもの。大セットを撮影スタジオに組み立てて、CGとかも駆使しまくり、さらには有名俳優さんに出てもらうとか、やればやるだけ良く見えるし、話題にもなるだろう。が、しかし、そんなことを言っていてはそもそも無理だということになってしまう。だから、まずは作れる範囲で作るのだ。よくライブハウスの固定カメラの映像をYouTubeにアップしているバンドがいるが、あれは正解だと思う。特別に撮影編集出来ないのであれば、それでもアップした方がいい。なぜなら、その映像があることで曲を聴いてもらえる機会が出来るからだ。もちろんそれを見て「つまらない映像だ」といって評価してくれない人もいるだろう。しかし、一方でわかってくれる人だって必ずいる。アップしなければプラスマイナスいずれの評価もゼロなのだ。だったら、まずは作るということが大切で、それをアップするということが大切で、そのために何が出来るかということを、一生懸命に、しかし同時に冷静に考えていくことが重要なのだ。

 今回はもうこのタイミングで撮影しなければいけない事情があった。なぜなら今回のレコーディングは来月発売のマキシシングル用の音源で、そしてそのシングルにはエキストラ形式でPVを入れることが決定していたからだ。来月のだよ。今日までは彼らもレコーディングに専念させる必要があったし、しかし全員が集まれる次の機会をとか言っていたら、もうシングルに収録することさえ出来なくなってしまうのである。なので、レコーディング終了の瞬間をつかまえて、ビデオ撮影をするということになったわけだ。

 最初は、時間的にも暗くて撮影には向かないだろうから、ジャケット等の最終チェックをして朝を待ち、朝の江の島あたりの海で撮影をしようということにしていた。しかしスタジオの近くは結構いい雰囲気で、街灯の明かりも結構煌々としていて、これなら撮れるかもと直感した。どうも周囲は住宅地区ではなさそうだったし、多少音を流しても苦情が来ない感じがしたのも僕の気持ちを後押しした。「じゃあ、始めよう」そう言う僕の言葉にメンバー一同ちょっと驚きを見せたものの、抵抗したり反対する理由もないし、じゃあということでスタートすることになった。

 写真撮影の時は縦横無尽な表情を作ってくれる新ボーカルのユーセフも、ビデオ撮影となるとちょっと勝手が違ったのか、どうやって気持ちを乗せていいのかちょっと戸惑っていた。ライブならマイクスタンドがある。ギタリストやベーシストなら楽器を演奏するという作業がある。だがPVではボーカルにマイクを持たせると絵的な自由度も失われるし、そもそもマイクスタンドなど持ってきていないのだから、もうやってもらうしかないのだ。最初は戸惑っていたものの、数テイク撮ってみると徐々に慣れてきて、自由な表情を見せるようになってきた。いいぞいいぞ。でもあまりに自由すぎるので、「こんな風にした表情で」とか「動きはこの範囲で」とかの指示を出す。映像に自分がどう映っているのかを想像して演じるというのはなかなかに難しいことで、でもカメラを向けている者としては「こうしてほしい」というものがあるので、そういう演出をすることになる。

 そういう演出に従って動くということはアーチストの自主性を放棄するという考えの人もいて、だからスタッフの意見にことごとく反抗するような人もいる。でもそれは自主性をどうこうということではない。こちらがいくら頑張ってやってみても、事実を歪曲することなど不可能で、そこに映るのはアーチストそのものでしかない。意図としても彼らをねじ曲げようとかいう想いはなく、むしろ彼らが一番輝くようにするにはどうすれば良いのかということを考えて、その考え方によってベストと思う結果を得るためには、被写体の協力が必要なのであり、演出とはそういう協力の要請だと僕は思う。スタッフといってもレーベルのボスとアーチストというすごく近しいものだけではなく、雑誌のインタビューアーとか、一期一会の関係性なんかもある。そのすべての関係性のなかでスタッフをコントロールしようなんてことはまず不可能だし、だとすれば、そういう関係性のなかで相手を信頼するということが必要だし、その上でもっと自分の考えを実現したいと思うのであれば、相手の仕事の中身を理解し、こういう動きをしようとしている場合はどういう法則で動いているのかということを察し、先回りして自分の動きを制御していくという、そういうことをしていけるように自分が成長していくことが大切だ。ダメな自称アーチストの場合は、自分が理解していないにもかかわらず、相手に相手の主張の根拠を逐一説明させようとして、その説明を当たり前のこととして敬意を払わず、そしてその説明を理解せずに反抗をするし、自説にばかりこだわる。そうなってくるとそのスタッフは愛想を尽かすし、次からはもう一緒に仕事をしようと思わなくなる。結果として、アーチストは自分の可能性をひとつひとつつぶしてしまうという結果になるのだ。盲信する必要等はない。だが、自分が相手の持っているレベルと対等なのかということを常に自省し、その上で言うべきことは言い、従うべきは従うという、そういう柔軟性を持つことが必要なのだと思うのである。

 やや脱線したが、有刺鉄線のメンバーは僕のことを信頼してくれているのか、演出指示にも普通に従ってくれた。従いつつも不安はあるのだと思う。ボーカルのユーセフが自分の出番を終えて、僕がギターとベースの撮影をしている時、車の中で休憩しててもいいよといわれたにもかかわらず、僕が撮影しているのを後ろから見ていた。そうするとどんな構図で映っているのかということが見えるから、僕の撮影についての理解が深まったのだろう。「いやーカッコいいよ、いい感じで映っているよ」と演奏している2人に向かって盛んに声をかけた。ユーセフのそういう声を聞いて、10回以上演奏をして疲れまくっている2人もダレているわけにもいかず、さらに白熱のパフォーマンスを見せてくれた。

 そこでユーセフが車で休んでいたら、何も知らないままに過ぎていっただけだっただろう。もちろんそれで今回のビデオの質が変わってくるわけではないが、そうやって疲れているにもかかわらず外で僕のカメラのビューアーを覗いていたということが、彼の中でのビデオというものへの理解度を高めることにつながるわけだし、それが成長というものだろう。そういう成長でまた次の機会にはより高度なパフォーマンスをカメラに最適な形で見せていくことが、彼の中でのシュミレーションを通して出来るようになる。それは今後有刺鉄線が売れてきて、スタジオでセットを組んだりしてのビデオ撮影をすることが可能になった時にも、かならずこの成長が生きてくるのだと思うのだ。

 撮影が終わり、近くのファミレスでジャケデザインの打ち合わせ等を済ませ、一路帰途へ。彼らの家をそれぞれ経由しながら会社に戻った時は既に午前5時半。ちょっと休んで、今このブログを書いている。ブログが終わったら、ビデオの編集を24時間以内に完成させるために仕事が続くのである。

Saturday, December 13, 2008

俺聴き:2008年12月10日渋谷タワレコ(Vol.2)

先日のブログの続き。俺聴きという勝手に試聴機を聴く企画で12月10日に渋谷タワレコで聴いたCDの感想第2弾。今回は3枚。あと3枚あります。数日以内の次回に続きます。



サカナクション/セントレイ
 名前からするとなんか奇をてらった変態バンドなんじゃないかとか勝手に思っていたが、かなり正統派。そして実力派。聴いていて非常に心地良いサウンドだと思う。この直前にラウドな音源を聴いたりしていたからそう思ったのかもしれないが、心を持ったバンドと技術を持ったスタッフの融合という感じに聞こえる。両者のせめぎ合いが制作の現場では常にあるわけだが、僕個人の好みからすると、もう少しバンドの攻撃性が出てくると、ベストだと感じた。
 3曲目で、1フレーズだけ加工された音になっていて、全体の音量も小さくなっている。途中から生音に近いミックスに戻すということでこの曲の印象を上げていこうという策なんだと思うけれども、では2曲目との比較というものもあるわけで、2曲目から続けて聴くときには、3曲目のパワーが下がったように感じられてしまうので、すなわちこの曲の力不足であるかのような印象を与えてしまう。そういった点で、ちょっとこういう作りはどうなんだろうとか首をかしげてしまう。



school food panishment / Riff-rain
 ポストロック+エレクトロニカに女性Vo内村が加わるという説明があったけれども、その立ち位置以外に売りはないのかという感じがする。このVo、歌は確かに上手いが、問われるべきは上手いだけではなく、他のアーチストとどう違って、圧倒できる武器を備えているかということになるのだと思うのだが、そういう圧倒的な何かがあるのかというと、それは僕には感じられなかったのである。
 しかし、これamazonのリンクを見てみると来年の発売予定になっているな。なのにタワレコでは売っているって、どういうことなんでしょうかね?
 
 

People In The Box / Bird Hotel
 悪いことは決してないのだけれど、じゃあ良いかというと特にそんなことはなし。残響の歌モノで、ショップとしても高評価のような感じはするが、僕がいつも聴いているデモの中に入れたとしてもメチャメチャ頭角を現すというようなレベルだとはとても思えない。歌モノである以上ボーカルが勝負の分かれ目になるはずなのだが、そのボーカルが弱い。ボーカルが弱いというのは、ウィスパーボイスっぽいという意味合いではないのだ。どちらかというとウィスパーボイスに近い感じではあるが、でも本気のウィスパーボイスには力があるのだが、このボーカルには力がない、弱い、という感想を持ってしまうのだった。

Friday, December 12, 2008

政治も経済も面白すぎです

 朝刊を読んでいたらシーリング外しに躍起になる厚労省と押さえたい財務省のせめぎ合いとか書いてあって、政治家は何をやってるんだと思うと、そういった役所を代表するような政治家とかがかなり暗躍。記事のトピックとしてはタバコ税についてなのだが、税調の入り口に「増税反対」を訴えるタバコ農家の人たちと、「増税賛成」を訴える健康を気にする団体の人たちが双方プラカードを抱えてセンセイたちが入場するのを待っている写真が。いやあそれぞれの立場だったら切実な問題だというのも判るが、どうもそれぞれが言っている主張の論点が微妙にずれていて、これが大所高所からの論議を双方にしろといってもそれは無理な話だなあと思うし、だからこそそういうことの調整を政治家がやらなきゃいけないはず。しかしセンセイたちもそれぞれの団体の代弁者になっていて、というよりもそういう団体の人たちを利用して主張の正当性を証明するための材料にしているだけで、結局は役所の利益を守るために躍起になっているとしか思えないのが悲しいところだ。
 
 夕方のニュースではアメリカ車会社のビッグ3への支援が否決されたという話が。それにつれて円も急騰してしまい、ついには89円台に突入したということ。でも、これ原因は何かというと車業界の労働組合が支援を受けるために会社が示した改革案を否定したということである。要するにリストラ案だから労働組合が首を縦に振れないのはよく判る。だけれども、それでビッグ3が倒産してしまったら元も子もないってことが判らないんだろうか? もちろん僕がここで知り得る以上の膨大な情報とか利害関係があるわけだから、簡単に決めつけるのもどうかとは思うが、でも話をシンプルにして考えればわかるはずのことが、細かな立場の違いから起こる意図のズレとパワーバランスが、こんな目もあてられないような結果にどんどん進んでいくということが、ちょっとだけ面白い。
 
 しかしニュースはこういうセンセーショナルなことをセンセーショナルにかきたてるのが本当に好きなんだなあと思う。というのも、円が高くなって困る人もいるけれども、喜ぶ人もいるのである。今海外に行こうという人は値段が安くなって万々歳だし、輸入業者はホクホクじゃないか? そういうのを「些末なこと」とか「海外に行けるようなのは裕福な人なんだから、本当に困っている人ではない」というのは簡単だが、一方で年末年始に海外に行く人は少なくなっているという現象を捉えて「だから不況は深刻なんだ」とかいうニュースを作るのもマスコミの人たちだということを、僕たちは忘れてはいけないように思う。今日も外を歩いているとガソリンスタンドの値段表示はいつのまにかハイオクでも130円とかで、ついこの間まで平成のオイルショックとか言っていたのがウソのようだ。あの煽りに驚いて車を手放した人はぜひ「煽りすぎたことの責任を取れ」とか言って訴えて欲しいとさえ思ったりするよ。
 
 経済って所詮お金の奪い合いであって、利下げとか普通に起こったりするときにはマスコミも大して騒がないけれど、それによって昔は利子で食っていけた人たちは生活設計を根本から見直す必要に迫られたのだし、バブルで地価が上がりに上がった頃、直後にバブル崩壊で多くの不動産が不良資産化して銀行も不動産業者も苦しんだとか言うけれど、その裏では本来そんな値段ではなかった土地を10倍以上の値段で売って現金を手にした人たちもたくさんいるわけで、そんな人たちは「儲かってスミマセン」とかは決して言わない。また、銀行が不良資産を抱えて大変だとか言っても、その直前では土地を転がして莫大な利益を得ていたのである。たまたま引き上げ時を間違って苦しんだだけで、そんなのは株式投資で失敗した人たちと基本的には変わらない。いやいや、銀行は護送船団方式で政府の言いなりに動いてきただけだし、銀行自身の考えで物事を進めたりは出来なかったんだよとか、言う人もいるかもしれない。しかし、そういう護送船団方式の中で保護されていて、事なかれ主義の中で動いてきただけであって、不良資産とかの損もして、保護主義の中で楽をしてきたという得もしているのである。それに本当に護送船団方式が嫌だったのなら、そんな仕事は辞めてしまってたらよかったのだ。
 
 本当は額に汗して日々の稼ぎを得るというのが基本なのだが、今や社会も複雑になって、そういう単純な話ではすまなくなっているのもわかる。でもやはりそこに原点はあるということを理解する必要があると思う。人々がそれぞれ頑張って自分に出来る創造や製造をする。販売も含めてサービス活動も価値の創造であることには変わりない。なにも工場で働くだけが製造ではないのである。そういうクリエイトを1人1人がすることによって、日本の全体の力は大きく強くなっていくはずだと僕は思うし、思いたかったりするのである。

俺聴き:2008年12月10日渋谷タワレコ(Vol.1)

昨年からCD屋さんに行っては試聴機を聴いて、勝手に感想を書くというサイトをやっています。それをブログでも書くことにしました。
今回は12月10日に行った渋谷タワレコでの俺聴き、第1弾です。沢山聴いたヤツを1回で紹介すると長くなるので、今回は3枚のみ。数日以内の次回に続きます。



lego big morl / Ray
 タワーで強力プッシュしていた。3枚連続リリースとかだし、ワンコインCDとかで価格が500円。これ3枚出して多少売れても金銭的な利益なんて全くないだろうけれど、そういう企画で盛り上がりを作ることが出来ればそれでいいのだろうか? 聴いてみましたがつまらないし、ピンと来ません。
 ちなみにこのジャケットはamazonで紹介されていた来年のアルバムのものらしい。ワンコインCDを3枚出して、それをアルバムに向けるという企画なのだろうか。よく判らないけれども。



flumpool / Unreal
 1曲目の「花になれ」はauのLISMOで使用された曲。だったらこうやってコーナー出来るだろうし、レーベルもショップも力入れるの解ります。でもこの曲はサビになって初めて「ああ、これか」と思うくらいでした。このサビもどちらかというと音符的にも大きな盛り上がりはないし、それがサビという感じなのだから、Aメロがそんなにグッとくることを期待してはいけないのか、それともグッと来ないからつまらないと言った方が良いのか。それは定かではありません。
 タワレコ渋谷のお薦めは1、3、6、7曲目だそうです。全部聴いてみましたが、6曲目はノリがよくて、いいなと思いました。でも全体的にグッと来ないのは、やはりこの声質に特徴が無くてインパクトに欠けるからだと思います。
 
 

butterfly inthe stomach / BANK
 ほぼ1年前に小樽のCDショップで偶然に試聴して大気に入りだったバンドが、これはメジャーデビューしたということなのか? その辺はよくわからないものの、旧譜にもあった楽曲を含むフルアルバム。で、かなり期待して聴く。1曲目の冒頭がなんか風景を感じさせるようなSE。正直、なんでこんなことをするのかなと思った。実力あるんだからシンプルに楽曲だけをズガーンと打ち出せばそれで勝負は決まると思うのに、冒頭のこのSEがどうにも気持ち悪くて気になってしまう。
 で、順番に聴いていて感じるのは、インディー時代の旧譜に入っていた楽曲との差がありすぎると思うくらいに、新曲にインパクト無し。レコーディングはそれなりにきれいに作られている感じで悪くないのだが、そういう環境とか技術のところに気持ちが向かっているのじゃないだろうかという雰囲気が全体からドーンと湧いて出ていると思う。要するに、新曲の方が旧曲よりも凄ければ、全部新曲でリリースするはずだし、すべきなのだ。でも旧曲に頼らざるを得ないところが、制作面でのパワーの欠如と心理的なガツーン感の欠如を示しているのではないかと思う。まだ新人なのでそんなことで評論するなよと僕自身思うのだけれど、こういう才能のあるバンドだからこそ、そこでの腹の据え方というものが、将来のカリスマ感に直結するのだという意味で、厳しいことを言ってみたいとか思ったりするのだ。
 そういう意味で、2009年の期待の新人とは今でも思っている。だがこのアルバムが彼らの足を引っ張るような予感を拭い去ることができないし、タワレコポップには「2009年ブレイクアーチスト」の文字が躍っているものの、もしかすると既に彼らは終わってしまっているのかもしれないとさえ感じた。
 それとこのCD、音圧を上げすぎ。普通音圧を上げすぎるとノイジーになったりすることが多いが、このCDはそんなこともなくて、そういう点でもレコーディングがしっかりしていると思うのだが、3連の試聴機で続けて聴いたりしていると、逆に大きすぎるというのが聴きにくいという印象につながるのだということを発見。過ぎたるは及ばざるがごとしだ。音圧上げたい気持ちは判らないではないけれども。

Wednesday, December 10, 2008

マリオ

 YouTube映像です。バカ丸出しでくだらないけど、そういうことを真剣にやっている人ってステキです。いや、迷惑も沢山かけているだろうし、嫌悪感を抱く人も少なくないかもしれないけれど。
 
 で、最後のシーンのその先がちょっと気になるところです。(これを撮影しているカメラクルーがいるということは、最後のシーンもやらせである可能性も否定できませんが)


Tuesday, December 09, 2008

政治乱気流

 昼食の定食屋で見た読売新聞。崩壊寸前の自民党の模様をいろいろと書いてあった。もううんざりな感じがする。渡辺さんはまだしも、中川ー小池グループはいったい何なんだろうか。小池さん自民を出てもう行くところはないよといいたい。それぞれの行動や発言にはそれぞれに言い分はあるだろう。だが、総大将が潰れるならば共に潰れようぞ。そんな気持ちの人でなければ何も信じられない。しかもそこに書いてある発言で笑ったというかあきれたというか、「勝負は選挙後だ、選挙前に動いても意味がない」みたいなことを誰かが言っていたそうな。結果的にそうなったというのなら仕方のない部分もあろう。だが今の時点で選挙のあとに自民党を出るとかでないとか本気で言っているとしたら、選挙も予算も先送りした麻生さんよりも酷い。選挙で信を問うのから逃げたのなら弱虫のレッテルで済むが、選挙が終わってから国民も予想しないような動きで立場を決めていこうというのでは、信を問うどころか、信を問う機会そのものを欺瞞で奪おうという発想であり、これは許してはいかんなという気持ちになる。
 
 だが、僕が思いを馳せるのは国民新党の人たちのことだ。彼らはいってみれば泡沫である、政党としては。しかしこういう乱の時代には小政党がキャスティングボードを握るということはここ数年の政治を見ていると常識化している。でも今現在の政治情勢からすると、国民新党はキャスティングボードどころか政治再編の核にさえ成りうる立場にあると言っても良いだろう。自民党を飛び出す人たちは早晩出てくる。しかしかつて小沢一郎が自民党を飛び出して新党を立ち上げたときと違い、今飛び出す人たちに付いてくるイメージは泥船から逃げ出すネズミのようなものだ。どれだけの美辞麗句を並べたところで頼もしいイメージは出てきやしない。だとすると、それをなにかが受けて、そこが新たに力を持つための駒となるような演出をしていかなければ難しいだろう。いや、渡辺、中川、小池といった面々は、そうはいってもスター政治家であって、彼らが看板になることはなくとも選挙で落ちるということは、たとえ無所属となっても考えにくいことである。だが、その他の無名政治家の数を頼まなければ、如何にスター政治家といえ今後力を持っていくことは出来ない。だから数が絶対的に必要であり、そのためには無名政治家も拾えるような拠り所が必要になる。それがなんなのか。民主党か?それはないだろう。今の時点でそういった元自民の人を迎え入れようという声を上げるとその民主党議員が危なくなる。だとしたら、無所属状態の平沢氏が新党を立ち上げるか、それとも国民新党がその受け皿となるかということも有力な選択肢になる可能性はある。
 
 だが、元は同じ自民というといっても、亀井さんたちがいた自民党を代表するのが麻生、古賀、森といったラインであって、そもそも小泉改革を強力に後押ししてきた中川ー小池といったラインではない。というか、むしろそこは憎んでも憎みきれないという存在なのである。
 
 そして当然、この数年民主党と合併寸前までいった経緯などもある国民新党が、すでに次回の選挙協力も具体的に進めているという中でいきなり民主に反旗を掲げるというのも考えにくいことである。もちろん亀井さんも綿貫さんも選挙はかなり強い人なのであり、どうなろうと自分だけが勝ち残り、そして訪れる選挙後の再編を、国民新党の人としてデーンと待っていればいいのだ。そこでもっとも「乗れる」案とかグループに合流したり、協力したりすればいいのだろう。そういう意味では、自民党脱出寸前でありながらなお「勝負は選挙後」とか言っている人たちとはまったく立場も思想も違うといっていいのかもしれない。
 
 まあ、そんなこんなで次の選挙はドラマチックで波乱に満ちたといっても良いのかもしれない。民主が単独で300を超えるような大勝をしてしまえば、他の勢力が入り込んでいく余地など無くなってくるし、本当は政治のスピードという点ではもっとも望ましいことではあると思う。しかしながら、実際はそこまでの大勝をすることはないだろうし、だとしたらそこでうごめく魑魅魍魎がどんな策を巡らしたとしてもおかしくはないし、そんな展開にドキドキはするかもしれないが、きっとワクワクなんてしないだろうと思う。

届かぬ言葉

 バンドからの電話。バンドとして自分たちの方針で2009年チャレンジしていきたいので、キラキラレコードでのリリースは見送る方針でということだった。彼らとは先日ミーティングをして、今年の活動状況とそれに伴う結果についての考察と、それでは来年どうしていくのがいいのかということについて話をしていたばかりだった。キラキラレコードの基本方針としては、最終的には方針はバンド自身が決めるというものであり、強制なんて出来るわけがないと思っている。ただ、バンドが100%自分たちの持っている情報だけでプランを決めていくと、要するに失敗する可能性が高いという認識は持っている。それはバンドがバカだとかいうのではないのだ。どうしても成功体験や失敗体験が少ないことと、自分に厳しいプランを立てにくいということがその理由である。これはバンドに限ったことではないだろう。スポーツにもコーチが必要だったりするように、バンドにもそういうものが必要であり、折に触れたミーティングで、そういうコーチングをしていくことがキラキラレコードの役割なのではないかと考えている。
 
 で、彼らは今年1年、リリースして以降彼らの思うままの方針で活動をしてきた。具体的なことを言うとバンド名も特定されるので控えるが、その活動は僕から言わせれば甘いし、間違っていた。しかしバンドはそれまでの活動内容からそれでいいと思っていたのだろう。だが、目標設定も曖昧で、当然のように求めるべき結果などついてこなかった。それを踏まえて、先日のミーティングだった。僕は言葉を選びながらも彼らの今年の行動を否定し、来年一緒にやるのなら当然いい結果を目指さなければいけないし、こちらとしてもそうでなければやる意味はない。だから彼らにリリース以外のところでも言うべきことは言い、高いハードルを設定し、それに向かって頑張っていけるなら頑張ろうと伝えた。その上で、彼らの中で一定の結論に達したのか、その直後に電話で「一緒にやらせてください」という意志表明をもらっていたのだった。
 
 だが、昨日夜に突然の電話で、「やっぱり白紙にさせてください」とのこと。もちろんこちらも正式に次の作業に向けた契約を交わしてはいなかったので、白紙にしろと言われればそうするしかない。最終判断は彼ら自身がすべきことなのだから。しかし、こちらとしても彼らに対する期待もあったものだから、何故そんな結論に至るのかということを問いただした。彼らの口からはそれなりの理由も聞くことが出来た。だが、やはりそこの根底にあったのは、こちらから提示した高いハードルというものが彼らには乗り越えられないということなのだろう。いや、ちゃんと向かいさえすれば乗り越えられないはずはない程度のものでしかないと僕は思うし、逆に言えば、それを乗り越えられないようではバンドとしての未来なんてないではないかということしか言っていないと思う。もちろんそれがゴールなどではなく、それを乗り越えたときに初めて次の目標を設定できるわけで、「バンドで成功する」ということを考えたときには避けては通れないことだったのだ。
 
 だが、それを乗り越えられるかどうかということをリアルに検討したときに、心理的なブレーキがかかったのではないだろうかと思ったりする。テレビなどでタレントさんがバンジージャンプや高飛び込みを強要されて、一歩踏み出すだけなのに何十分も踏み出せずにいる姿をよく見る。もちろんそれには演出的な恐怖感情もあるだろうが、本当に怖がっているケースもある。そういうのを見て、飛べる人からは「なんであんなに怖がるのかわからない」とか、あるいは「ここ飛ばないと、次から仕事もらえないよ」とかいう意見が出されるだろう。だが高所恐怖症の人からすればそこから飛ぶなんて信じられないことだし、それを強要されても、いろいろな理由をつけて、飛ばずに済むのなら飛ばずにいたいと思っても仕方がない。同じように、今回のバンド諸君にとっては、僕から提示されたプランというものが、ミーティングの席ではやれるかなという思いもあったものの、結果「やっぱり飛べない」という方向に気持ちが傾いたんだろうと思う。
 
 自分たちの納得するやり方で来年は勝負をかけたいんだという言葉を使った。しかしそれはもうこの1年で結論出たじゃないかと思う。しかももう10年近くそうして自分たちのやりたい方法でやって来たのだ。その結果が今の状況であるなら、どこかでやり方を変えるべきだしそのどこかは、今しかないということを伝えたかったのだ。だが、その言葉は届くことなく、今回のような結果に至ったということが、なにか虚しく、僕を哀しい気分にさせたのだった。
 
 もちろん、キラキラレコードにもダメな部分はまだまだ沢山ある。それはそれで彼らに不安を与えたのかもしれないとは思う。そこは否定するつもりはないし、今後の活動でもっともっと頑張っていきたいと思うのだ。それとは別に、彼らとは違うバンドマンたちが今も一緒に頑張ろうということで動いてくれている。そのことを幸せなことだと思い、彼らの成功でキラキラレコードの成功とし、今回のバンドにも「ああ、やはり一緒にやっていればよかった」と思われるくらいになっていきたいと心から思った。もちろんそれは結果であり、頑張る目的などでは有り得ないのだが。


今年一番好きになったアーチストともいえるPriscilla AhnのDream(PV)





これはオフィシャルビデオということだが、本人の歌をカメラ1台で追っている映像。

Monday, December 08, 2008

Macintosh2ci



 初めて買ったマックは、タイトルの2ciだ。メモリ5メガ、ハードディスク80メガというスペックで、今から見ると自転車どころか青虫のような性能しかないが、それでも当時の一般的なパソコンだったNEC9801シリーズから較べると、それはもう種類が違うというくらいの、例えて言うなら普通の携帯電話とiPhoneの間にある違いの100倍くらいの「違い」を持った機械だった。
 
 まだビクターに勤めていた僕は、これで出来ることに「未来」を感じ、会社を辞めて独立するきっかけにしたのだった。ソフトと合わせて150万円ほどしたが、そのローンの重みに耐えながらも、会社を立ち上げてキラキラレコードをスタートさせたものだった。
 
 その初代僕マックの2ciが先日友人宅から帰還した。この2ciを数年使った後、僕は後継機種をそれなりに買い足していく。だけど捨てるわけにもいかず、マックに興味を持っていた友人に貸していたのだった。その友人も今やiMacを使っていて、実家に置いていたこの2ciを僕のところに戻すことにしたのだった。こちらとしても今やノート型しか使っていないという状況。しかも現行の液晶ディスプレイには接続できないし、接続したところで機能的には使用に耐えられるスペックではない。でも心情的にも捨てるわけにはいかないんだな、これが。
 
 僕のところにはパソコンを持っていないバンドマンなんかが沢山来ては、「やっぱ買った方がいいんですかね?」とか質問してくる。そういう人には「本当に要るって思わないんだったら買う必要はないと思うけど」と言う。だがその言葉の裏には「オレは150万かけてもこれは必要だって思ったんだけどな」という思いが常にある。パソコンで出来ることなんてたかがしれている。だがそのたかがしれていることで自分の選択肢が飛躍的に広がることもときにはある。その必要性を感じない人にはただの箱である。ただの箱に5万円だって払う理由はない。だが、それに150万払っても惜しくないという価値だって、人によってはある場合があるのである。
 
 また、別のバンドマンは「やっぱり上位機種を買った方がイイですかね?」とか聞いてきたりすることもある。その時にはこう聞くことにしている。「で、何をしたいの?」と。そうして返ってくる答えはたいてい「メールとか、ネットとか、ワープロとかですね」程度だ。だったら、秋葉原の裏通りで外人さんがやっている露店に売っている数年前のノートパソコン1万円保証無しっていうのでいいんじゃないだろうかと真剣に思うのだ。だって僕の2ciはその保証無し露店パソコンの100分の1程度の機能しかない、今やジャンクですらない機械であって、それでも結構いろいろなことができたのだから。

Sunday, December 07, 2008

早明ラグビー

 早稲田が負けた。だが、見ていて良い試合だったと思う。ハラハラしたもの。
 
 内容的に見てどうかというと、諸手を挙げて賞賛するようなものではなかった。早稲田は今シーズン2敗を喫し、久しぶりに対抗戦優勝を逃した。ラグビーが好きだが今シーズン試合を見たのは今日が初めてで、優勝を逃す原因となった帝京戦などは当然見ていない。結果だけを知って、ええっ、何故? と思った。だが、今日の試合を見ていて、これなら優勝できるわけはないなと納得できたのだった。
 
 それはなぜか? ミスが多いからである。
 
 パスを落とす。そこで落としたらそれまでの連続攻撃が止まってしまう。ラグビーにとってはそれは致命的な失敗なのだ。だがそういうミスを連発していた。もちろん、それは明治の攻めが早くてプレッシャーを受けるから普段なら落とすはずもないボールを落としてしまうのである。だったらプレッシャーを受けないようにすればいい。そういうのは簡単だが、現実には相手も必死なので、受けるべきプレッシャーは当然あるものと覚悟して、そこで如何に冷静にプレイをするのか。それが普段の練習の賜物なのだろう。だが今日の早稲田にはそれが足りなかったように思う。
 
 だが、もしもそういうことも出来ていて、例年のように完璧な優勝を果たしていたとしてもだ、ここ数年の日本選手権で大学チームは社会人に対して勝てていない。それほど社会人と学生では力の開きがある。今日の早稲田がミスをしないチームであっても、それで完璧と言うことはできないのだ。だとすると、学生は学生としての立場ではつらつにプレイをすればいいのだと思う。出来ることを頑張ればいいのだ。高校野球がプロよりレベルが低いとしても、それで面白くないというのはイコールではないし、何より粋ではない。
 
 粋ではないというと、対抗戦を優勝した帝京大学だが、その健闘は讃えたい。だが、今年の帝京大学のチームには外国人選手が多数入っているという。いや、強いかもしれないよ。でも、それでいいのかとか思ってしまう。もちろん早稲田だって明治だって全国のラグビー名門校からスカウトしまくってチームを作っている。そういう意味では外国からスカウトするのとそんなに変わらないという気もしないではないし、卒業後のこととか考えると帝京より早稲田慶応に行こうという選手たちが多いだろうから、帝京が苦汁をなめ続けてきたことへの打開策のひとつといえる。そして外国人選手が全部日本人選手よりも優れているというわけでもないし、そういう意味では外国人選手の何が悪いと言われれば、どこも悪いわけではないが、だからといって素直に納得できない気持ちも拭えない。
 
 昔読んだある4コママンガに、吐痰道というのがあって、多くの人が通る道にも、1日誰も踏まない「目」というべき場所があるという。そこを見つけて痰を吐くというのが吐痰道なのだが、弟子が「踏まないところに吐けば良いんだったら、植え込みに吐けば良いんじゃないですか」といったら師匠は「確かにそこは踏まないだろう。それでいいと思うなら吐いてみたまえ」と答え、弟子は植え込みに痰を吐く。そこで師匠が「面白いか?」と問う。弟子はどんよりした表情で「いや、全然面白くないです」と答える。師匠は「吐痰道の極意は面白さにあり!」と満面の笑みで諭す。
 
 これとスポーツのことを一緒にするわけにはいかないが、やはり、突き詰めていったとしても「面白くない」ということに尽きるのだ。
 
 そういう意味でも今日の早明戦は面白かったのだ。すでに6位が決定していて大学選手権への出場を逃している明治。普通に考えれば戦力の差は明らかで、早稲田は少々なめていたと思う。前半終了間際の戦略、ペナルティゴールを狙うというものに既にそれが現れていた。それはセオリーでもある。しかし時間がないからトライよりも3点だという、確実に点を重ねようという、その表情には冷静というより、冷めたというものを感じた。しかしゴールは外れる。しかも2回もだ。そして後半、明治に立て続けに点を取られ、そこから焦りの攻撃に転じる。明治もそれに真正面からぶつかればいいのに、時間稼ぎの戦略に転じ始める。だが往々にしてそんな逃げの戦略は上手くいかない。早明戦においては特にそうだ。元来あった地力の差が出たのか、早稲田もトライを入れ始める。ロスタイムの最後の最後でトライが入り、最後のゴールが決まれば同点に追いつく。明治も追い込まれた。
 
 だが、無情にもゴールはポールにはじかれた。明治の勝利。やはり舐めてかかってはいけないのだということを、激しく早稲田フィフティーンに思い知らせるという意味でも、ここは点が入らなくて、9年ぶりの敗北を喫したことにも意義はあったし、そうであるべきだったと思う。ボールが逸れていく瞬間に歓喜の明治。彼らにとってはこれが今シーズン最後の試合だから、勝ちで終わってよかったなと思う。一方早稲田にはまだまだ試合があるのだ。対抗戦では負けたけれども、大学日本一を目指して新たな戦いに向かって頑張ってもらいたい。そして、日本人チームでも負けないぞということを示して、本当にこのシーズンは面白かったなと締めくくらせてもらえればいいなと思った。

Friday, December 05, 2008

STONE FREE



 この夏にCDを出したバンド、STONE FREEの3人がキラキラレコードにやってきた。彼らのCDは最近ちょっと売れていて、年内には追加生産にかかることになっている。売れていないバンドからすると羨ましい限りだろうが、本人たちはそれなりに悩みを抱えている。
 
 今日の悩みはまさに「どうやったらもっと売れるんだろうか」ということだった。売れているとはいえ、やはりリリース時直後の勢いはなく、数字の伸びの鈍り方に、かなりの焦りを感じてしまっているというのが実際のところだ。で、彼らとして他になにが出来るのかを僕に聞きに来たというわけだったのである。じゃあ僕が何を言えるのか? なにかの魔法を使って、一夜明けると彼らが大スターになっているような状況を作れるかというと、そんなことはない。もちろん彼らもそんなマジックを期待しているわけではなく、自分たちで出来るなにかをやりたいんだ、やりたいんだけれど、何をやればいいのかわからないから教えて欲しいということだ。それなら答えはある。そのためにもまずは君たちが今やっていることを確認させてくれよ。
 
 彼らは現状の活動を報告してくれた。報告は虚飾に満ちていることもある。ウソはつかないが、どうしてもいいところを誇張して言いたい。それは罪ではない。人間だったら誰しもそうしたくなるものだ。しかしそれでは対策は打てない。だから「じゃあこれはどうしているんだ、そこのところはどうなんだ」と問いただすのが僕の仕事である。そして、上手くいっているところと上手くいっていないところを整理する。そして上手くいっていないところについて改善策を出す。根本的な路線が間違っているようであればそこを一旦壊して、新しくプランを提案する。そうしてバンドの活動はより効率的に、向目的的になっていくのだ。
 
 ただ、新しく提案するプランが諸手を挙げて受け入れられるかというとそうではないことも多い。彼らには彼らの理論とプライドがある。そして決定して進んできた現在の方針だったのだ。そしてこれは意外と忘れられていることも多いが、バンドはバンド内での意見統一が必ずしも出来ているとは限らない。そういうときは、往々にして積極性が弱いメンバーをなだめすかしながら這うように活動を進めてきているという経緯がある。だとすれば、最効率の策がそのまま彼らの方針になっているとはいえないし、そして最効率の策を提案すると、消極的なメンバーが破綻するという危険性だってある。だから次善の、そのまた次の妥協策で動いている場合もある。そういうときには僕の新しい提案は素直には受け入れてもらえない。
 
 また、バンドマンにはバンドマン同士のネットワークというものがある。そこでいろいろとアイディアをもらうことも多い。だが、売れていないバンドの友人はまた売れていないバンドマンであることが殆どだ。そこで聞くアイディアはそのバンドを売れさせられなかったアイディアでしかない。それを金科玉条のようにして頑張っているつもりになっていることもある。キラキラレコードは彼らが売れることによって利益を得る。しかし友達は利益を求めてアイディアを出してなどいない。だから、純粋でピュアだと思われがちだ。そこに騙しは一切無いから安心だと思うのだろう。だが、それではまるで進まないのだ。そのことに気付かずに僕の提案を却下するようだったら、それは成功への限りない遠回りだと言わざるを得ない。
 
 で、STONE FREEに戻るが、彼らもそういう時期があった。今年出したアルバムは2枚目で、1枚目を出したときには独自の路線を突き進みたく、頑張っていたものの結果が付いてこなかった。僕も少し放任していたところ、今年あるきっかけから2枚目を出すことになり、今は僕の提案も取り入れつつ、頑張っているところなのである。それで今日いろいろと話をする機会だったのだけれど、先日提案していたことについて一生懸命やっていて、それなりの成果を得てはいたものの、十分とはとてもいえないような、運用の間違いをしている部分が沢山発見された。それを細かに指摘して、その改善を要求した。一種の目からウロコ状態であり、「ああ、もっと頑張りますよ、やる気満々になりました」という感じでキラキラレコードを後にした。
 
 提案とはなかなか難しいもので、僕が意図していることを完全に他者に伝えるのが簡単ではない。いつも思うことだが今日もまたそれを再認識した。だからこそ細かな修正が必要であり、ことあるたびにこうしてミーティングを開催しなければいけないのだ。STONE FREEはその点如才ないというか、結構こまめに連絡を入れてくれたりする。それはこちらから投げかけていくべきことかもしれないのだが、どうしても後手後手に回る状態で、彼らのようにちょっとしたことでも連絡を入れ、会社まで来てくれるということを繰り返してくれているのはとても有難いことだし、嬉しいことだ。そういうことをすべきだということを、彼らは1枚目のアルバムの際に知ったのではないだろうかなんて思ったりするのだ。
 
 
 
 今日から、毎回とは言わないものの、気になった映像をYouTubeでリンクしていきたいと思ったりしている。このブログを読んでくれている人たちへのプレゼントになれば幸いだし、その映像に対してでもいいから、コメントとかトラックバックをもらえればもっと幸いです。
 
STONE FREEのPV〜僕が撮影して編集もしました。



FLYING KIDハマサキの『幸せであるように』〜フライングキッズも解散し、1人でいろいろ頑張っている浜崎もいいオッサンになってきて、他のことをするとかでもなく歌一筋の人生から抜け出せない感じの、枯れた感じが僕は好きです。



 

Thursday, December 04, 2008

トラックバック

 トラックバックというものがよく判りません。
 
 ウィキペディアなんかでの説明とかも見たけれど、イマイチ感覚としてよく判らないのです。先日話をしていて、「ブログのアクセス解析なんかを見ていると、明らかに知らない人が見に来ている様子。それは何故なんだろうか?」と質問したら、「それはトラックバックがダダダッとついて、それで見に来たりしているんじゃないか」というお答え。それで気になってみたものの、やっぱりよく判らないまま。mixiなんかで、特定ワードに対して検索とかするとその言葉に関連する日記やらコミュニティのトピックやらが出てきたりするけれど、それとはなにか違うような気がする。mixiニュースなんかに関連する日記を書くと、それが元となるニュースのところで「関連する日記」ということでリストアップされ、ニュースを見た人なんかが見に来たりする。でもトラックバックはそれともどうやら違うようだ。
 
 ブログによるが、勝手にキーワードらしきものを検出して、文字が反転してクリック可能な状態になることがある。そのワードに関しての関連ブログにでも飛ぶのかと思ったら、どうやらそのワードについての商品を売っている画面に飛んだりするようだ。そのリンクは自動的にリンクされるもので、でも見た人は僕がその商品を売ろうとしているように思ったりするのかな、それはヤだなとか思うが、それを外す方法がよく判らないのでそのままにしている。本当はこのワードに対してキラキラレコードの商品とかにリンクさせたいなとか思うのだけれども、そういうワードはリンク反転しないままだし、HTMLを駆使してリンクをいちいち貼ることも可能だけれども、かなり面倒臭いので今のところやっていない。斯くして、僕のブログも無意味なリンクの宝庫となっていってしまう。今日の日記でも、「ワード」からマイクロソフトワードなんかの通販に飛んだりするのかな?してもしなくても、この日記のこの部分を訂正したり削除したりはしませんけれど。
 
 そりゃあ多くの人に見てもらいたいさ。そのためには努力を惜しみませんよ。えええ、そうです。目立ちたがり屋です。そして、なんかアフィリエイトとかで利益得たいですよ。そんなに霞を食って生きているわけではありませんから。でも、じゃあアフィリエイトやって暮らしていけるような稼ぎを得られると思っているかというと、そんなことなどまったく思っておりません。結果としてこのブログがすごく影響力があるような、多くの人注目のページになったとして、その結果モノも売れるようになるんだったらそれを拒むことはありませんが、だからといって、そのために書きたくもなく読まれたくもない文章を書いているわけではありません。そんな本末転倒なことは僕の本意ではありません。
 
 ただ、やはり美しくありたいわけです。イケメンというような意味ではなく、書いた文章に美しさを求めたりしたい。たとえばmixiでの日記では、一文一文改行したりして、それでピッタリ収まる表現を心がけるものの、ブラウザが違えばそんな意図など吹き飛んでしまう。携帯で読まれた日には改行していることで却って読みにくくなってしまっているなんて、知ったときには顔から火炎放射が吹き出たものです。2000年からキラキラレコードのサイトで始めた日記、それをブログに移行してからのこの日記。これではmixi等とは違って改行にこだわらず、むしろこれでもかというような入れ子構造の長く複雑な文章を書き連ねることで、結局それで離れていく人がいたとしても、読みにくいと文句を言われようと、そんな中での判りやすい表現というものを心がけたいというこだわりをもってやっていたりする。よくブログマニュアル本なんかに書いてあるような、「文章は短くしましょう。その方が読みやすいですよ」なんていう教えには「アホか」と言いたいわけです。それって、「ケガをするといけないからナイフを使うのはやめましょう」とかいうのと同じで、単純な合目的論でもって高度なクリエイティブへの可能性を全否定するような方法論でしかなく、それによって得られるメリットと、失われるかもしれないデメリットを考えることなく、安易に安易にというようなバカの考えでしかなかったりすると思う。もっともそれも、ブログを簡単にはじめられるようにするためのひとつの方法論であって、そういう「簡単・安易」というハードルの故に加速度的に広まり、そして僕らも簡単に使える一種のインフラが出来ているという功績はあるし、それは積極的に認めるのです。そういう意味で、このところ話題にされている、橋本知事の「学校に携帯は要らない」という説にも一理はあると思ったりするわけです。なぜならそこには学校という共同の場を管理する立場の人の発言としての重要性があり、高度な人も低度な人もいる場所に於いては、全体のメリットとデメリットのバランスを考える必要があるわけです。この夏にプールへの飛び込みで事故が起こったことを受け、県下の高校では飛び込みを一切禁止という馬鹿げた通達を出したおかげで水泳部の練習が出来なくなったという話があって、それは全体の利益によって高度に追求をしている人たちの成長を阻害するという、まったく持って現実を理解していない人たちの無能さによる弊害だったわけですけれど、ブログに於ける長文というのは要するに高校生の飛び込みみたいなもので、そりゃあ多くの高校生にとっては飛び込みの必要性はまったくなくて、安全のためにもそんなことはやめなさいと言うのもいいだろうが、それでは目的を達成することが出来ないという水泳部員がいるように、僕は長文を敢えて書くことによって、自分なりの、身勝手かもしれないけれども、目標というか、美意識を追求したいと思っているのです。
 
 つまり、安易に美しいものが得られるなんて考えるのは間違いであり、それがわかっているのであれば、やはり敢えて安易とは逆の方向に向かっていきたいというのが、僕の真意なのです。
 
 で、そういうところで「トラックバック」なる言葉が飛び込んできて、どうやらそれはブログが広まるためには非常に有効なものだということらしいのですが、なんかそれがいまいちピンと来なくて困っている今日この頃なのです。しばらくはブログに習熟していない人の練習の場、実験の場にしていこうという気もあって、だから訳もわからずトラックバックにチャレンジしたりすると思います。その時には「ああ、醜いな」と思われる人もいるかもしれませんが、まあひとつご容赦ください。ヘンな足跡(ブログではそうは言わんのか?)とかもつけまくる可能性もあったりしますが、ひとつご容赦くださいませませ。

Tuesday, December 02, 2008

渡辺喜美

 朝のワイドショーに生出演。このところ麻生政権に批判的なコメントをカメラ前で連発していたのだが、生出演ということでちょっと注目。底の浅さを感じる。どういうところが底が浅いのかというと、要するに麻生批判の根拠が希薄なのである。批判が自己目的化していて、司会者の「じゃあ、どうすればいいんでしょうか」という質問に対して、自身の政策を披見する、そこまではこちらも期待していないものの、じゃあ麻生政権批判する以上は退陣を要求するのかというと、それさえしない。政治家は批判の際には対案をというのが鉄則のはずで、民主党が行う政権批判に対してはこの鉄則を必ず振りかざしてくるのが与党自民党の常套手段なのだが、その自民党議員が自ら選んだ政権を批判するときに、その対案を示さないとはちゃんちゃらおかしい。野党は通常政策の根本から違うわけで、だから現政権の大方針の上に成り立つ具体策に対して対案を出すということは、野党としてはその否定する与党の大方針を一旦認めた上での施策アイディアを示すことになり、それはえてして自己否定、自己矛盾を生みかねない危険なことでもあるのだ。しかし、今回のケースは与党議員の発言であるから、末節の具体案を出すということもその根本の大方針については概ね賛成の前提がある訳なので、だったら普通に自分の対案を示すことは可能なはずなのだ。でも、今回のケースは渡辺善美氏は麻生政権と距離を置く立場にあって、だから政策の根本となる大方針にも不賛成であるかもしれない。そもそもそれで同じ政党に属しているというのがおかしな話でもあるが、まあそれはそれとして、立場が異なり、現政権が非常に危うい状況にあるなら、それを否定して打倒を表明してもおかしくないのに、それでも、「じゃあどうすれば」という問いに対して政策としての対案も示せなければ、退陣要求もない。
 
 いやいや、問題はそんなに単純ではないんだよ、今退陣させてしまったら選挙に突入しなければいけないわけで、そうなると(自分が)困るから、それを大々的に要求することは出来ないんだよ、とか言われそうだ。もちろんその通りだろう。でも、だったらメディアに、マイクの前に出てこなければいいのだ。しかし一言だけのマイク前コメントならば深い話をしなくても済む。だから調子に乗って喋ってしまったのだろう。その結果番組に呼ばれて、中身のない批判しかしていないということが露呈してしまう。いや、出てきて良いんですよ。でもそこまで出てしまったらさらけ出すしかなく、さらけ出したら、それは自分にとって結局マイナスになってしまうということを、出る前に気付いて欲しかったなあと思う。
 
 以前大臣をやっていたときに、テレビの前で泣いたりしていた。その時に、足を引っ張る人がいるとか言ってボヤいていたけれども、本当は足を引っ張られていたのではなくて、この人を応援しようという人がほとんど居なかったということだったのではないだろうかとか思った。これがボンボンの限界ということなのだろうか。

Monday, December 01, 2008

祭りばやし

 夕刻より駒込へ。大学時代の友人が毎年やっている書道のグループ展『書展・祭りばやし』を観に。今回で19回目の書展。書道の展覧会というと堅苦しいものを想像するかもしれないが、それは多分僕らが書道に親しんでいないからなんだろうと思う。友人がその会で毎年発表する作品は自由奔放で、見ていてとても楽しくなるのだ。グループ展というが、それは大学のサークルで同期だった4人での展覧会で、4人の中には書道を仕事にしている人もいるらしい。で、そういう人と較べると友人は会社員で、そういう意味では肩肘をはる必要はないのか、自由度にブレーキがかからずに思いのままにやっている感じが、ああ、こいつは学生の頃とそう違わない感覚を持って生きているんだなと嬉しくなってくるのである。
 今日は展覧会の最終日で、もうすぐ打ち上げに突入しようという時間帯だったためか、会場はお客さんでごった返していて、友人も対応に追われている様子。仕事柄そういう対応が大切だと思っているから、応対を邪魔しないようにと軽い会釈だけして帰ることに。僕に気付いた友人にとっては僕もお客の1人だから、そのまま帰しては申し訳ないと思ったのか、「お茶だけでも出させてよ」と言ってくれるが、遠慮してみた。彼は「いやあ、大島はホント皆勤賞並に来てくれて、有難いよ」とか言ってくれる。そうやって覚えてくれているだけでいいよ。そう思う。
 
 僕がその展覧会に毎年足を運ぶのは、友人でそういうことを継続しているヤツがほとんどいないからだ。展覧会を開くというのは大変だし、そのために作品を作り続けるということはそれ以上に大変なことなのだ。それをやっている姿を見ることで、なんかエネルギーをもらえるような気がするのと同時に、僕もちゃんとやっていかなければという気にさせられるのだ。
 
 多くのミュージシャンは売れることを目指している。もちろんそれは大切なことだ。だが、それとは同時に、続けていくということも大切なことだと伝えたい。というか、僕自身がそのことをもっともっと理解したい。
 

入り口の看板。これは友人が書いたのかどうか判りません。


河東碧梧桐の詩の一節を書いた掛け軸。


クリスマスの飾りとして作ったものらしい。自由な感じ。