Sunday, May 20, 2012

インセンティブ

音楽とネットの関係というのはいろいろな問題があって、情報の伝達がミニマムなところから縦横無尽に可能になったということがまずプラスの面で大きい。ミュージシャンもリスナーも、これによるデメリットはきっとない。いや広く言えばあるにはあるのだが、受け得るメリットに較べると無いに等しい。一方で音楽を無料でゲットできるという状況が生まれたことは、メリットよりはデメリットの方が大きいと僕は思う。もちろん金を払う価値の無い有象無象の音楽だってあるし、そこに0円の値段を付けても何の問題もないじゃないかという意見もなるほどと思うが、だからといってステキな音楽も横並びで0円でいいという話にはならない。しかしテクノロジーは音楽もテキストもすべて情報として均質に扱い、内容の価値について評価せずにトラフィックさせる。だから、音楽的な価値がどのくらいなのかということは一切無視して、有象無象の音楽が0円で流通することが可能であれば、当然価値ある音楽も0円で流通するようになる。

 この状態で、能力あるミュージシャンが価値ある音楽を創る意味とは一体なんなんだろうか?

 先日、ベイスターズが「熱いぜチケット〜負けたら全額返金」という企画をやった。そのチケットの購入者は、試合後に納得しなかったら返金を要求できるというものだ。細かな数字は覚えていないが、かなりの人たちが返金を要求したという。ボロボロの負け試合ならともかく、3対1で快勝した試合で返金要求である。

 テレビで見るだけなら金はかからない。でも球場に行き、勝った試合を見せてもらったにもかかわらず、返金を要求する。何事だと呆れるが、おそらくそれは日本人の文化に対する平均的な価値観なのかもなと思った。

 ミュージシャンに戻る。都会であれば街角で歌っているストリートミュージシャンを見る機会も増えてきた。だが、彼らを取り巻いているのは固定のファンと思われる人たちで、それ以外の通行人はほとんど足を止めない。ストリートミュージシャンは歌って、次のライブの宣伝などをして、持参のCDを売ったりしている。そこに投げ銭を受け付ける箱のようなものはほとんどの場合で存在しない。

 なぜか?投げ銭などほとんど期待できないからである。

 「街で歌ってるヤツらなんかの歌にお金を払う価値なんてないよ」という声が聞こえてくるようだ。それは一面で当たっているが、一面では大きく間違っている。現状としてお金を払う価値がない人が価値の無い音楽を奏でているというのは、確かにそうだと思う。だから、その声は当たっているのだ。しかし、なぜ価値の無い人が価値の無い音楽を街角で奏でているのかというそもそもの原因に想いを寄せると、声は間違っているという結果になる。つまり、価値ある歌を街角で聴きたければ、価値あるものを正当に評価するという土壌を育成することが不可欠なのだ。良い音楽だったらお金を払う。投げ銭を入れる。それも財布に残った1円ではなく、音楽の価値によっては千円札を入れる。そんな状況が当たり前になったら、ミュージシャンはそれを期待して、街を歩く人が心地良くなるような音楽を演奏するようになるだろう。そこに競争が生まれれば、より通行人にとって価値のある音楽が街を包むようになるだろう。そうすると「街で歌ってるヤツらなんかの歌には、お金を払う価値があるよ」ということになってくる。つまり、ニワトリが先かタマゴが先かという問題と似ていて、鶏も飼わないのにタマゴを期待するのは間違いであって、タマゴが欲しけりゃ鶏を買ってエサを与えることがどうしても必要になるのだ。だが、今のストリートミュージシャン界隈に於いては、エサも与えない鶏がタマゴを産まないことに対して腹を立てるような状況になっていると言えるのだ。

 「だって街で歌ってるヤツの歌はタダだろう? 入場料が要る会場ならともかく、勝手に歌ってるやつにお金を払うなんてアホだろ」という声が今度は聞こえてくるぞ。いやいや、海外に行ってみると判るが、NYでもパリでも、街角で音楽を奏でているミュージシャンは沢山いて、彼らの前には投げ銭箱が置かれていて、普通の人たちが次々にお金を入れていく。ダメな音楽に対しては恐ろしく冷酷だが、良い音楽にはお札が次々と入っていく。これは何なんだろうと、最初見た時はある意味カルチャーショックだった。しかし、今になって思うとそれが良い循環だったのだ。ストリートミュージシャンが奏でる音はとても心地良かった。旅先での音だったからということもあるだろう。しかし冷静に考えても、普通に聴いていて心地良かったのだ。そしてミュージシャンは1曲演奏が終わる度に少しばかり話をして、お金を入れてくれという訴えをする。それに対して人々が次々に応えてお金を投じる。

 思うに、海外にはチップの習慣がある。サービスに対して満足したらお金を払う。サービスはけっしてタダじゃないんだということが身に付いているのだろう。日本人が旅行すると、レストランではチップを払うものだと思い込んでいて、料理代の15%という数字だけで金額を決めるが、別にサービスの質を判断してるのではなくガイドブックのルールに従っているだけである。しかし本当は素晴らしいサービスのウェイターには20%払っても良いのだし、ダメサービスだったら払わなくたっていい。だからウェイターやウェイトレスはお客さんのために頑張ってサービスしてくれるのだ。彼らの収入、基本給は比較的低い。しかしチップをもらえるから、最終的には高収入につながる。料理人以上に人気の職業なのだ。仮にお店自体が流行ってなければ、当然チップも増えない。だからどうやって集客しようかというところにも心を砕く。ストリートミュージシャンもそう。通行人が足を止めなければお金も入れてもらえないし、止めてもらえても演奏に感動してもらえなければお金は入れてもらえない。だから、お客さんのためにどうすれば良いのかを考えて練習もするし構成も考える。それで生活できる収入を得ている人も少なくないだろう。だとしたら、彼らはプロのミュージシャンといってもいいのかもしれない。

 一方日本はどうだ。レストランのウェイターをやってもチップはもらえない。当然時給で働くことになる。サービスの質を良くしなくても、お店が流行ってなくても、決められた時間だけ行って働けばお金になる。だからプロだ。でも本当にプロか? プロの仕事をしていると言えるのか? もちろん誇りを持って全力でやっている人がほとんどだろう。しかし仕組みとしてはプロを生み出す形にはなっていない。お客もサービスの質を見抜く目が養えない。

 そういう社会的な違いがある中で、ストリートミュージシャンは今日も街角で歌っている。しかし、通行人が投げ銭を入れるという習慣がないから、ミュージシャンも通行人を喜ばせようという思いが少なく、自分の音楽活動の宣伝的な歌を歌うことになる。ある意味の押しつけだ。押しつけだから通行人も通り過ぎる。悪循環に陥っている。

 さて、やっと本題に入るぞ。

 ネットの普及がミュージシャンの収益体制を覆しつつある。音楽はCDで買うものという常識から、音楽はタダで手に入れるものという常識に移りつつあるように思う。それを喜ぶ人も多いだろう。だが、それは結局ミュージシャンを苦しめ、音楽から撤退させる。撤退しなくとも音楽だけに才能や時間を使うことが難しくなり、結果としてその人の才能の半分以上を生活費稼ぎの別の仕事に浪費させることになる。それでリスナーはいいのだろうか。結果として才能をしゃぶり尽くすことが出来なくなる。個々には恵まれた環境で音楽に専念できる人も出てくるだろう。しかし全体として音楽に対して支払われる金額が減れば、ミュージシャンは総じて貧しくなる。それでどうして音楽に人生を捧げようという気になるというのか。

 スポーツなら海外に行ける。言葉が要らないから、速い球を投げたり、遠くに打ったり、上手く蹴られる人なら世界で活躍できる。日本よりも稼げるなら行けばいい。だが日本語をベースにした文化としての音楽をやっている人は、そう簡単には出ていけない。日本のリスナーがすべてである。

 韓国では日本以上にデジタル化が進み、CDショップは数年前に日本よりも早く街から消えたという。そして違法ダウンロードがまかり通っているという。物価や所得、人口も日本とは比較できない韓国で、ミュージシャンはどうしたかというと、韓流と称して日本にやってきた。元々は韓国語で歌われていた歌に日本語の歌詞をあて、歌って踊って大人気だ。彼らは韓国で稼ぐことに見切りを付け、日本市場で稼ごうとしたのだろう。当然だ。そして日本で稼いで力をつけた彼らの一部はアメリカにも進出しようとしている。そこで成功するのかどうかは別として、アグレッシブだなと正直思う。だが、韓国のリスナーたちはどういう思いだろうか。いいなと思ったアーチストはすぐに韓国を離れ、別の言語で歌うようになる。それが韓国の人たちにとって嬉しいことなのだろうか。僕にはそうは思えない。もしも日本のアーチストたちが日本での活動に見切りをつけて欧米に活動の場を移したらどうだろうか。ダルビッシュがメジャーリーグで投げているのを見て喜ぶように、アメリカで活動するアーチストを日本の誇りとでも呼ぶのだろうか。だが考えてもみてくれ。それは彼らが日本のマーケットに見切りをつけた結果なのである。つまり、我々の音楽に対する評価のあり方が、彼らをそのように追い込むということなのだ。

 それは音楽だけに限ったことではないだろうが、人はお金のある方に流れる。食えないより食えた方がいい。安定的に食えることが保証された方が、創作活動には専念できるし、その結果いい創作が生み出される可能性も高まる。結果的にすぐれた創作物を楽しめるリスナーの得になる。

 もちろん個別にどうあるべきかということと、全体にどうあるべきなのかということは別の問題だ。あるアーチストについて気に入らなければ、そんなアーチストにお金を支払う必要などはない。それは、サービスの悪いウェイターになどチップを払う必要がないのと同じである。しかし、いい音楽を生み出しているアーチストには積極的にお金を払うことを常識として持ち、何らかの形で受けた感動を制作者に還元していこうとすれば、僕らはもっともっと豊かな音楽を享受し、楽しい音楽ライフを送れるようになるんじゃないかと思う。例えば、毎年3枚はCDを買おうとか、街で歌ってるシンガーがいたら100円でいいから投げ銭するとか、ときどきぶらりとライブハウスにいってみるとか、なんでもいい。その対象がどんなアーチストでも構わない。1億人が何らかの形で、昨年よりも2000円多めに音楽に払うようになったとしたら、確実に音楽関係者は少しずつ潤うようになるし、そんな巨大マーケットのためになる音楽をどんどん生み出していくようになると思うのだ。そうなれば、K-POPに席巻されるような事態にはならないんじゃないかと、そんな風に思う。チャートを嵐とAKBと韓流が占めている現実を嘆く人も多いが、それは、嘆いている自称音楽ファンたちは、それだけ音楽にお金を使っていないということに他ならない。お金も払わずに嘆いてんじゃないよと、僕は言いたい。ミュージシャンにも金銭的なインセンティブは必要なのだ。彼らに「武士は食わねど高楊枝」を強要している場合ではないのだ。

 少なくとも、ネットからいかに無料で音楽をゲットするのかに血道をあげているようでは、結局は無料で価値の無い音楽のような雑音しかゲットできなくなるということを、多くの人は理解しなければいけないと思う。もちろん、音楽そのものに感動もしないし価値も無いと断言する人にまでお金を出せと強要するつもりなどはさらさらない。そういう人は、きっとネットから無料で音楽をゲットするようなこともないのだろうから。

Wednesday, May 16, 2012

祭り

雨のため1日順延になった葵祭が、本日京都で開催された。

 京都の三大祭りのひとつに数えられていながら、GWからもずれるうえに、曜日に関係なく15日開催が基本なので、東京に住んでいた頃には生涯見ることのない祭りなんじゃないだろうかと、強い憧れをもっていた、それが葵祭だ。しかし昨年京都に移住して以来、葵祭は身近なものになる。昨年は偶然日曜日に重なったが、今日は普通の水曜日で、あろうことか会社から徒歩2分の道を通る。昼飯前に近くを散歩するくらいの感覚で見に行ける。ああ、人生は不思議なものだなとつくづく思う。

 まあお祭り自体は大いなる平安絵巻的仮装行列ということであって、雅の風流を除けば少しばかり退屈でもある。しかし退屈なんて言ったらバチが当たるな。一昨年までは生涯見ることのないものとして憧憬の対象だったのだから。まあ本当に退屈だと思っていたら、今日だって見に行きやしない。僕はおそらく来年も再来年も見に行くだろう。丸太町通りで見るのではなく、下鴨神社糺の森で見たり、上賀茂神社まで遠征したりもするだろう。今日も少しばかり京都御所の中まで入って見たら、昨年の丸太町で見た行列とはまた違った趣だった。場所で印象が変わるのも面白い。来年からもきっと面白いはずだ。

 で、行列の中心には斎王代という、十二単を纏ったお姫様がいるのだが、毎年京都の女性が選ばれて斎王代の役目を果たす。今年は会社員の女性が選ばれたということだったが、老舗和装小売店の社長の娘ということで、まあお嬢だ。いや、それがうらやましいということではない。100%まったくうらやましくないかといえば難しいところだが、妬むような気持ちなどはまったくないし、お姫様役はお嬢様育ちの女性がやはり似合うだろうと思う。で、斎王代はそれとして、その他にも沢山の人たちが平安装束に身を包んで行列は行なわれる。馬に乗る女性も、歩くだけの女性も、馬を引く男性も馬に乗る男性も、荷物を運ぶ男性も、老若男女問わず沢山の人たちがその行列に参加しているのだ。あれは、一体どういう人たちなんだろうと、素朴に思った。

 僕は昨年から京都に引越してきて、1年経ったもののまだまだ他所者だと思う。自分でもそう思う。だが、東京にいた時にどうだったのだろう。早稲田通りにカフェを構えて、ずっと営業してきた間も、地元の青年会的なところからお誘いを受けたことがなかった。いつも行っている定食屋のオッサンがその会長だということは知っていた。僕は学生時代からその店の常連だったし、道ですれ違えば挨拶もする。だが、お神輿の時も火の用心の夜回りの時も、僕に声など一切かからない。いや、神輿も担ぎたくないし、夜回りもしたくない。だって面倒だもの。でも、「参加するかい」と声がかかって、そこで「やりません」と断るのならともかく、一度も声がかからないとはどういうことなんだろうってずっと思っていた。怪しい店だったから声もかけにくいということだったのだろうか。でも、おそらくその青年会が地元の小学校から一緒の人間関係をベースに成立しているんだろうなと、僕は思っている。それならなかなか他所者は受け入れられないだろうなと。26年東京に暮らし、その地に店を構えて8年間、店閉店後もオフィスとして利用していたから11年間は通りの路面のテナントでやっていたのに、それでもやはりその通りでは他所者だったんだろうなと思う。それが良いとか悪いとかではなくて、現実としてそうだったと。

 僕の兄は父の眼鏡屋を継ぎ、今も生まれ故郷で頑張っている。そのためか、周囲は知人だらけで、山笠にももう20年程参加しているし、ちょっと前は小学校のPTA会長もやった。地元の名士というには年齢も商売もまだまだかもしれないが、少なくとも他所者ではない。兄が他所者だとしたら、地元の人なんていないだろうというくらいだ。

 東京にいる頃は町内の他所者であっても友人はたくさんいた。だが、京都に移ってきてからは基本的に夫婦だけだ。お店をやるでもないので、地域に知り合いなどほとんど増えない。そのことを悲しんでいるわけではない。だが、祭りに参加している人たちを観光客と一緒に眺めていて、僕の立ち位置は何なんだろうと考えてみたのだ。

 考えてみれば東京での生活が僕の人生の中でもっとも長い。なのに、京都に移った途端にそこは自分のルーツなどはまったくなかったということに気がつく。遠くの、栄えている街でしかない。今ももし帰る場所があるとすれば、それは東京ではなくて福岡なんだろうと今は思う。ただ、福岡に帰ることはまずないので、だから、今いる京都をそういう場所にしていくべきなのだろう。でも東京で26年かけてそれが出来なかったわけで、京都でそんなことが出来るのだろうか。はなはだ心許ない。

 しかし、もう来月にも生まれる我が子にとっては、この京都が生まれ故郷になるのだ。ここで育ち、ここで友を作る。彼のルーツはここになる。だとしたら、子育てをする中で、僕も否応無しにこの場所に組み込まれていくんじゃないだろうかという気もしている。子はかすがいだとよく言ったもので、それは通常は夫婦の絆を強くするという意味に使われるのだが、僕は今、子供が僕ら夫婦をこの京都という場所につなぎ止めてくれるかすがいになるような気がしている。そうなったらいいとか、よくないとかそういう僕の意思とは無関係に、僕はこの街に根を下ろしていくのかもしれない。

 そしてこの街のお祭りにも参加するような、そんな未来もあるのかもしれない。まあ僕が今から斎王代になるのは100%不可能ではあるが、祇園祭の鉾の引き手くらいにはなる可能性もゼロではないかもしれない。