Monday, November 05, 2012

弱者を利用するのは誰か

 田中眞紀子文科相が3大学の認可を認めなかったことが話題になっている。

 まず断っておきたいのだが、僕は野田内閣は一刻も早く解散すべきだと思っているし、擁護するつもりはないし、野田の再選を支持した田中眞紀子のことも蔑む思いである。

 だが、今回のことは報道が騒いでいるような暴挙とはまったく思えない。そしてこのような報道の流れになっていることが非常に胡散臭いと感じているのである。

 まず、今回の不認可によって影響が出る、入学を希望していた高校生や、短大が4年制大学になることで編入を希望していた短大生がインタビューを受けて苦しい胸の内を明かしていた。また、翌日に控えたオープンキャンパスに参加するために神戸から秋田までやってきていた高校生も困った表情をしていた。福祉を学ぶために会社を辞めて受験勉強していたオッサンも困った困ったと言っていた。確かに困るだろう。そういう学生に罪は無い。そういう意味では混乱を来している。うん、確かに困ったことだ。

 と、非常にわかりやすい組み立ての報道なのだ。これがどうしても胡散臭い。入学を希望する若者たちをなんとか救済したいよね。そりゃそうだ。それで田中眞紀子が悪者に仕立てられる。だが問題はそんなに単純なものではないはずだ。

 大学が出来る(今回の場合は専門学校が4年制大学に変わるケースが1つと、2年生の短大が4年制大学に変わるケースで、厳密に言えば大学が出来るというのとはちょっと違うと思うが)ことによって利益が得られる人たちというのがいる。そういう人たちは表に出てこない。大学の学長予定者という人は会見を開いていた。が、経営者自身が出てきて会見しているケースは見ていない。彼らは短大を4年制大学にすることで補助金が増えるのだろう。監督官庁の人たちも出てきていない。彼らは大学を新設する際に便宜を図ることで天下り先が出来るのだろう。そういう人の声は出てこずに、入学希望者の声だけが出てくる。いかにも胡散臭い。

 現在800ほどある大学の47%が定員割れをしているという(どこかの報道で見た数字で、誤っている可能性あります)。少子化で子供も減っている。それなのにどんどん新しく新設する理由はどこにあるのか。普通に考えれば、それによって補助金がもらえて儲かるという仕組みに乗っかっている経営者と天下り先を確保しようという官僚の利害が一致しているということだろう。そのことに田中眞紀子は斬り込んだわけで、ある意味闘争だ。これまでの仕組みで行けば時代の変化についていけなくなって国自身が歪になることは自明の理だ。現在はその歪さが顕著になってきていて、それで改革をとみんなが叫んでいる時である。だが、改革には痛みが伴う。これまでの仕組みに乗っかっていた方が楽だし、それを維持したいと思っている人は確実にいて、その人たちが痛むのだ。その痛みが大きければ大きいほど、抵抗も激しくなる。野田内閣というのは、本来改革を叫んで政権を取ったにもかかわらず、既得権に張り付いている側の人たちからの抵抗に屈してしまったダメ内閣である。それを批判する声は多い。それなのに、今回のようにこれまでの仕組みを改めようとする動きに対して、世論はいとも簡単に「田中眞紀子の不認可は暴挙」だという説に流されてしまう。

 これは、弱者を利用する黒幕の強者に、僕らの世論まで操られているということに他ならない。利益を阻害される人たちが、受験をしようとしている学生の苦しみを前面に出すことで抵抗しようとしているのだ。それにころっと騙されてしまっては、いつまで経っても改革なんて無理なんだろう。

 もしも今回の大学が認められなくなったことで、学生の学ぶ機会が奪われたと考える人は、どうか考えてほしい。不況の中で奨学金が奨学金という名の高利貸しに変化してしまっている事実を。保育園の待機児童がいまだに解消されていないという現実を。800ある大学には補助金が交付されていて、これから更に大学の数が増えれば、補助金も増えていくのだ。その補助金を奨学金制度の財源に回した方が絶対にいいと僕は思う。47%の定員割れしている大学があるのであれば、そこに学ぶ機会はたくさんある。鉄筋コンクリートの立派な大学校舎を造る余裕がこの国にあるのなら、待機児童を受け入れる保育園をもっと作ればいい。そうすることで親がもっと働きやすくなり、結果的にもっと子供を作るゆとりが生まれ、将来の国の活力にもつながっていく。苦学生が学ぶことにかかった費用を完済するために苦しむ必要もなくなるし、家が貧しいからといって進学を諦めなくても済む可能性が増えるし、結果的に若者の勉強が豊かな社会につながっていく。学ぶ機会というのはそういうことではないのか?

 今の仕組みを変えないのであれば、そういった問題は永遠に変わらないだろうし、変わらなければ少子化や不況も変わっていかない。もちろんそれは文部科学の分野だけでなくあらゆる社会制度についていえることだ。変えたくない人は、変えないで済む理由を自らの欲を前面に押し出してアピールなど絶対にしない。変えることで生まれる一時的な歪みに苦しむ弱者の存在を押し出してアピールするのである。それに単純に反応していたのでは、社会の仕組みを変えようという勇気ある政治家などすぐに潰される。潰されると、僕らが選挙の時に選択する選択肢を失うということになる。

 まあ、僕は田中眞紀子の選挙区に住んでいないし、住んでいたとしても次の選挙で田中眞紀子を選択肢として選ぶことはないけれども、そのこととは切り離して考えると、やはり田中眞紀子をただ感情的にバッシングしていれば解決するということではないと思う。そして、今回田中眞紀子の唐突な決定によって困る人たち確実に存在していて、彼女をバッシングさせようとして、弱者を前面に出してきているということがどういうことなのかは、やはり考えておく必要があると思うのだ。

Thursday, November 01, 2012

覚悟

 IWJというのがある。岩上安身氏が主催する報道団体だ。

 IWJは昨年の初め頃だったか、それとも一昨年の暮れ頃だっただろうか。岩上氏がUstreamを使ってインタビューなどを報じ始めたのがきっかけだと記憶している。亀井静香や森ゆうこなどへのインタビューを行なっていた。郷原弁護士などにもインタビューしていた。その頃は岩上氏自身がUstについてさほど詳しくなく、自前のパソコンでどのくらいのことが出来るのかを試行錯誤していた感じだった。iPhoneでの中継でかなり画質が粗いものなどもあった。

 それは大手メディアとは違う報道が広まり出した頃だったともいえる。ニコ生は少々先行していろいろな番組をやっていた。ケツダンポトフというダダ漏れ番組に注目が集まっていたのもその頃だった。それに比べると岩上氏の試行錯誤は見てる側からももどかしいくらいで、オッサンがITに疎い感じが全面に溢れていた。しかしながら彼のやりたいことは明確だったし、そこでしか見られない聴くことができない情報はたしかにあった。

 当初は小沢一郎への不当な司法圧力への抵抗という印象があったIWJだったが、昨年311以降は東電や政府への切り込みが増えた。そこでしか見られない、そして見るべき情報がたくさんあった。東電の会見はいつも唐突で、深夜に行なわれることもしばしばだった。それをきちんとフォローしてくれていた。事故直後の熱のようなものがあった頃から、毎回たいした情報も無くなって多くの報道がその会見を報じなくなったあとも、IWJはずっとそこにいた。そういうものがそこにあるという安心感があった。たとえ毎回その中継を見なかったとしてもだ。

 東電会見だけじゃなく、政府発表の会見なども細かく中継をした。政府とは違う説を主張する学者のインタビューやシンポジウムも細かく中継した。デモが始まればデモをリアルタイムに中継した。東京にいない僕もまるでそこにいるかのようにその雰囲気を感じられた。警察発表のデモ参加者数がいかに当てにならないかということも、そういうものを見ないとわからない。わからないでは、僕らは次の判断が出来ないから、やはりそういう情報ソースは必要だと思う。政府発表やマスコミの報道がいかに偏っているかを知った今では、その必要性はいや増していると思う。

 そのIWJを主催する岩上氏のTwitterでは、このところ会員数についての悲痛なつぶやきが続いている。今年の夏頃の中継数を維持しようとすると5000人ほどの有料会員が必要なのだという。だが現在3800人ほどらしい。見ている人の数はそんなものではない。だが、有料会員となると3800程度になってしまっている。それでは今の規模の中継を維持することは無理なのだという。

 今の規模の中継を維持せずに、スタッフも解雇し、岩上氏1人になったとしてもIWJは続けるのだという。だが、それでは中継できない「事実」が表に出てこなくなる。だから岩上氏はそれを避けたいと強く願い、会員数を公にして、支援を求め続けている。

 大手新聞は毎月5000円近くの購読料を取り、それで1000万人もの読者を抱えているところもある。IWJをそれと較べても仕方ないが、その大新聞を批判する人が多いにも関わらず、IWJのような奇特なメディアを支えようとする人があまりに少ないのには驚く。結局大手新聞を支える人の方が多いのだ。それも圧倒的な差で。1000万人と100万人の差ならまだわかる。1000万人と10万人でも、まだ仕方ないなと思える。だが、1000万人と3800人だ。その差はなんと2631倍。これで正しい報道を求めるなんていうのは絵空事だ。

 
 覚悟と題したのは、IWJを応援したいとかそういうことではない。僕が昨日TLを眺めていたら、岩上氏の一連のツイの続きにあるバンドマンのつぶやきが目に入ったからだ。「ライブ出演の誘いを受けた。ノルマ有り。さて、どうしたものだろうか」というもの。これを見て、ああ、両者の覚悟には天と地ほどの開きがあるなと感じた。

 バンド活動にライブはつきものだ。ライブをやるにはライブハウスに出なければいけない。ライブハウスはボランティアでやっているのではなく、商売だ。そこに出てライブをするのであれば、ライブハウスも儲けさせなければならない。ライブハウスに出るバンドの大半はまだ無名で、だから集客は簡単ではない。だが集客ゼロではライブハウスも大損害だ。だからノルマというハードルを設定し、バンドマンのケツを叩く。集客できなきゃ自腹だよ。だからバンドマンは頑張って友人たちに声をかける。いやあ、バンドマンも楽ではない。

 楽なのが良ければ、ライブなどやらなければいい。自分の部屋でギターを鳴らして歌って悦に入っていればいい。だがそれでは広がらないよ。そしてそんな活動に誰も振り向いてくれないよ。

 バンドマンは自分で音楽を表現して、それを他人に認めてもらいたい。だから人前で演奏をする。言葉で「良かったよ」と言ってくれる人もいる。そこから進んでライブのチケットを買ってくれる人、CDを買ってくれる人が出てくる。CDが3000円だとすれば、その音楽には3000円払う価値があるという評価だ。CDが100枚売れているバンドと、10000枚売れているバンドでは、「その音楽には3000円払う価値がある」と評価した人の数が100倍違うということだ。認めてもらいたければ、CDを売らなければいけない。ライブのチケットを売らなければいけないのだ。それができなければ、自分の音楽には価値が無いと認めなければいけなくなってしまう。

 それでも、なかなかチケットは売れない。だから、ノルマがあれば怯む。そして演奏をする機会をひとつ失う。

 これは岩上氏が会員数が伸びずに現状の中継規模を縮小するということと同じだろう。ノルマが無いライブを探すというのは、無償でボランティアで手伝ってくれるスタッフを捜して、人件費を抑えようということと同じだろう。だが、岩上氏はそうしたくない。スタッフにはちゃんとメシを食わせてやらなきゃと思っている。食わせてやることで、歳を重ねていずれくる自分が一線を退かなければいけない日にも、この報道中継という機能が失われないような社会を築いていくことを目指している。要するに本気なのだ。だから、Twitterで執拗に有料会員になってもらうためのお願いを続ける。

 僕は、売れないバンドマンがそのくらいの執拗さで「ライブに来てほしい」「CDを買ってほしい」「買ってもらえなければ自分が音楽を続けていけなくなるんだ」「自分の音楽が続かなくなるのは世界中の音楽ファンにとって大きな損失なんだ」と主張しているのを寡聞にして見たことがない。もちろん、音楽はエンターテインメントであり、夢を売る商売という一面もあって、そんなに切実な風を見せることがどうなのだろうという意見もある。僕もそう思う。だが、それはある程度の基盤が確立できる人の言うことである。売れなくて、ライブのノルマもカツカツなバンドは、生き残って自分たちの音楽を続けていくためにも、四の五の言っている暇があったら訴えていくべきだ。必死でお客を呼ぶべきだ。そうしないと活動は縮小する。縮小していく音楽に未来はない。そしてなにより、本人が必死でない音楽表現に対して、他人であるリスナーが必死で好きになる理由がないではないか。

 自分こそ本物の音楽をやっているんだというミュージシャンが必死にならなければ、いわゆる商業音楽に負ける。自分こそ本物の音楽を求めているんだというリスナーが必死にならなければ、いわゆる商業音楽だけがはびこることになる。だからもっと必死になってもらいたいと思うし、ミュージシャンはむしろハードルの高いものにこそどんどんチャレンジしていってもらいたいと切に願うのである。

 そうでないと、IWJに命をかけて取り組んでいる50過ぎのハゲたオッサンに完全に負けているということである。いや、岩上氏はものすごい人だと思う。そのものすごいオッサンでさえ、あの活動に対して3800人の有料会員しか集まってもらえないのだ、今のところ。無名のミュージシャンが自分勝手に作っている音楽がそうそう簡単に有料で支持されるなどと簡単に思っている場合ではない。だが、今すぐに3800人のホールライブを成功させろと要求されているわけではないじゃないか。せいぜい10〜20人ほどの集客を要求されているだけなのである。それができずに何の価値ある音楽だろうか。と、自分自身を叱咤できるミュージシャンだけに、明日はやってくる。そう思う。