Tuesday, April 28, 2009

バーン・アフター・リーディング

http://burn.gyao.jp/

 コーエン兄弟、この前はノーカントリーだったろう? マッカーシーだったろう? それからどうしてこんな、スチャラカな映画を作るんだろうって感じで、ちょっと面白かった。いや、くだらなかった。いや、くだらなくて素敵だった。ボタンの掛け違いで話は展開していくのだが、展開の中身を話してしまったら意味がないね。映像的な美しさとかを売る映画ではないから、展開が全てだ。この映画にブラッドピットとかジョージクルーニーなんてイケメン俳優が登場し、イケメンな感じとはまったく違うダメ人間ぶりを演じきる。イケメンが2枚目を演じているのは当たり前すぎるし、努力なんて全く必要がない。それは演じるスターにとっても成長がないし、もしも実力があるのであれば、その実力を発揮する場としては不適当だ。だから、こういう映画にこういう役で出る方が、彼らはその真価を発揮することが出来るし、出来なければ馬脚を現す結果になる。それゆえにチャレンジングであり同時にリスキーな出演だったといえるだろう。コーエン兄弟は彼ら自身のこれまでの成功があって、そういうキャスティングを可能にさせたと言えるのかもしれない。しかしながらそういう三枚目的な役にチャレンジしているのはいつもこのブラピとジョージクルーニーばかりだなという気がする。彼らはソダーバーグの作品などにも常連のように出演している。人的なつながりと仲間意識というものもあるだろうが、もっと他の役者も出てきていいんじゃないかなとか思う。もちろん作品も役も限られているので、出たくても出ることが出来ないのか、それともそもそも変わり者の俳優しか出たいとは思わないのか。ブラピたちは成功者であり、これに出たところで大作の主役から転げ落ちたという印象にはならないから出れるが、ギリギリの人が出たら「落ちぶれた」と思われてしまうのか。その辺はよくわからないけれども、もうそろそろ他の配役も考えていかないと、面白みは薄れていってしまうようにも思う。まあ余計なお世話だと思うけれども。

 なんか、見なくてもいい作品。それなりに面白いし、ブラピとクルーニーのダメ男ぶりは一見の価値あるかもしれないし、ストーリーも面白い。だが、2時間程度の面白さが終わった時に何かが残るかというと、何も残らない。映画とはそういうものだと思う人には十分な娯楽作品であるし、何か哲学とか教訓が絶対に必要だと思う人には確実に物足りない映画だと言える。

 僕は個人的には見て損したとは思っていないのだが。

Monday, April 27, 2009

敵なのに〜金本知憲『覚悟のすすめ』



 先日昼飯を食いに出たら、いつものお店が休みだった。それでいつもは行かないところに行こうとしたのだが、あいにく何も本を持っていなかった。いつもの店だったら新聞を読むつもりだったのに、何も読むものなくて注文を待っているのはなんか苦痛だ。それで、書店に入って何か買おうとしたところ、目についたのがこれ、『覚悟のすすめ』。

 これがけっこう面白い。というか、いいことを書いている。金本は阪神タイガースの4番打者だ。その前は広島にいたし、現在フルイニング連続出場の記録を更新していて、鉄人とか言われたりしている。巨人ファンの僕からすると憎たらしい男のベスト20に入るといっても過言ではない、ミスター敵。それが金本知憲なのだ。

 だが、書いてあることは真っ当なことだ。金本自身が書いたのかどうなのかは不確かではあるけれども、だけど単なるゴーストライターの発想ではこんなことは書けないだろうという内容がどんどん出てくる。単に知識がどうこうではなく、発想なのだ。例えばこんなことを言う。「プロである以上、全試合出るのは当然だと思う。確かに身体をいたわって年に数試合休むことで結果的に選手寿命を長くさせるという考えはあるだろうが、私は全試合に出る。なぜならプロだからだ。会社に勤めるサラリーマンにも有給休暇を取らずに働いている人は沢山いるだろう。」「死球を受けるとどうしても恐怖感を持ってしまう。だから、死球を受けた直後はいつも以上に踏み込むようにしている。自分に当てた巨人の木佐貫にも「気にするな、次も思い切って投げてこい」と言った。木佐貫も当てようと思って当てたのではなく、ギリギリの勝負をして投げたのだ。自分も逃げ腰で良ければ逃げられたかもしれないが、本気の勝負をして踏み込んでいるから当たってしまう。それは仕方のないことだし、プロだから真剣に勝負をするのは当たり前のことなのだ。それでけがをしてしまったらそれまでのことである。」

 カッコいい。いや、カッコいいとか言うと金本は「何がカッコいいんだ。当たり前のことを当たり前にやっているだけなのに」と答えるだろう。だがそれをカッコいいと思ってしまうほど、普通の社会はヌルいし、ユルい。結果を出す人はそういう「厳しい」ことを「当たり前」だと思って日々活動しているんだろうなと思うと、僕自身も反省しなければという気持ちになる。いや、手を抜いているつもりなどさらさらないのだけれど、まだまだ結果が出ていないことを考えるにつけ、もっともっとと決意を新たにした。そう思わせてくれただけでも、この本は読んでよかったなと思うし、多くのバンドマンにも読ませたいなとか思ったりした。

 あとこの本の中で少々笑ってしまった点があった。それは、金本が先輩後輩のけじめをしっかりと付けているということだ。先輩に対しては必ず敬称を付ける。が、同期や後輩については必ず呼び捨てなのだ。彼は東北福祉大に進むわけだが、そのへんのくだりには佐々木主浩などのプロ選手の名前が一挙に出てくる。同じ文の中で、先輩には「さん」がつけられ、同級生や後輩は完全に呼び捨てだ。この辺が面白い。プロのライターが書いて推敲をお願いしたという形で書かれていただろうとは思うのだが、こういう点は厳しくチェックしたのだろうなとか思った。これを読んだ関係者がどう思うかという点において、彼にはこの点は特に気になるところだったのだろうと思うと、逆に多くの選手やファンが彼のことを「アニキ」と呼んでいるのを一体どう思っているのかなと興味がわいた。

 いずれにしても、なんか金本のことはちょっと好きになった。ストイックに精進しようとする人を僕は好きなのだろうな。巨人戦では完膚なきまでに三振してもらいたいところだが、他の対戦ではガンガン打ってくれよとか、これからは思うようになるだろうと思うし、今後なんかの弾みであったとしても、FAで巨人に来たりはしないでくれと思う。なぜなら、そんな選択はこの本で感じた僕なりの金本らしさが全否定になってしまうからだ。

Saturday, April 25, 2009

 罪とはなんだろうか。大きなニュースを見ながら、誰もが語ったりしながら、今更と思いながら、僕もちょっとだけ考えてみた。草なぎくんの話。

 彼が捕まった理由は公然わいせつだったのだが、よくある変態男が裸にコートで出会い頭の女の子に向けてコートを開いて「うわっ」という変態犯罪者のそれとは違い、酔っぱらっての失態であって、逮捕されるようなことかよとか、みんなも言っているし、僕もそう思う。鳩山総務大臣が逮捕直後に「最低の人間」なんて言ってしまって、おそらくファンからの圧倒的洪水のような抗議が来てしまって慌てて謝罪&訂正会見を開いたが、いみじくも大臣が草なぎくんのことを「絶対に許さない」と怒りをあらわにした以上の強さで、多くの人たちから「絶対に許さない」と思われたことだろう。本来は大臣が怒るほどの行動ではないし、謹慎・活動自粛する必要が本当にあるのかねと思う。

 だが、今回の逮捕が間違いだったかというと、そうとも言えないという気がする。通報を受けて駆けつけた警官はどう思っただろう。騒いで裸の男がいる。しかも超有名人だ。捕まえることなど簡単だし、捕まえたらいろいろ取り調べとか出来る。面白いな、捕まえちゃえ。

 それは違うと思う。確かに警察は「なぜそんなことを」と思うようなとんちんかんな嫌疑をかけてくることはある。3年ほど前車を止められ、持ち物検査ということでダッシュボードやトランクを開けさせられ、ポケットの中身まで調べられたことがある。どうやら麻薬を持っていないかランダム(と思いたい)に検査していたらしく、まあ当然だが何も出なくて解放されることになるのだが、その過程で友人が持っていた万能ナイフのキーホルダーを「銃刀法違反の恐れがある」とか言って脅された。あとで調べると銃刀法に触れるのは6.5cm以上の刃物らしく(記憶をたよりにしています。記述時の確認はしていません)、当然違法などではないのだが、そういうことを平気で言う。そうかと思うと18年ほど前には駐車していた車にぶつけられて、戻った時にはドアミラーが折れていた。110番通報したら自転車のおまわりさんが4人もやってきて「これは見つからないなあ〜」と言いながら全くやる気を見せず、がっかりしているところに「これ、こんなところに駐車していていいのか?」とか言い始めた。その場所は私道だった場所で駐車違反には当たらないのだが、それでも警官にそういわれるとこちらも怯む。やる気のない彼らの態度にはぶつけた犯人以上に怒りを覚えていたものの、ここで過剰な文句を言うと駐車禁止で切符を切られるかもという心配が先に立ち、捜査を強く求める声を挙げることも出来なかった。警察といっても完全ではないし、目の前に全裸のSMAPがいたら「取り調べをしてみたい」という気持ちが起こっても不思議はないが、今回の場合はそんなことではないと、勝手な想像ながら思ってしまったのだ。

 というのは、捕まえて何もなかったら大問題になることは想像に難くない。好奇心よりも前にビビリが先に立ったとしても不思議はない。出来ることなら関わりたくない。事なかれ主義は人間の根幹的な行動基準だ。だから本当は見過ごしたい。しかし今回は通報を受けている。夜中に騒いでいる人がいるという通報だ。だから何らかの対処をしなければいけない。目の前には全裸で騒いでいる男がいる。明らかに不審者だ。それが酔っぱらいなのか、それとも麻薬の幻覚症状なのか、見ただけでは判らなかったのだろう。警官に対して暴れたという。押さえるしかない。少なくとも通報された騒いでいる状況を現認している以上、それは取り除かなければいけない。逮捕か、保護か。暴れている以上逮捕するしかないと思ったのだろう。それに芸能人の麻薬汚染が騒がれている昨今、この以上行動を見たら疑っても不思議はなく、その方面の検査もしなければいけないけれども、この初動で保護にしてしまったら、尿検査とかすることも難しくなる。逮捕しておけば取り調べの過程で尿検査することにも正当性が出てくる。逮捕時に手錠をかけていないことを考えると、本当に現行犯として公園で逮捕を執行したのかどうかは判らないと思う。警察署に連れて行って、そういう検査をするためには逮捕という形にしなければというあとからの判断だったとしても不思議はないと思う。いずれにしても、異常行動が原因で、疑われる行動理由に対して調べるために逮捕という形に至ったのではないかと思う。

 そこで、今回の逮捕理由なのだが、公然わいせつだ。パトカーに乗せる際に暴れて抵抗していたらしいので、公務執行妨害での逮捕だったり、暴行容疑での逮捕だったりしてもおかしくないとも言えるのだ。もしもそうだとしたら、これは意味がまったく違ってくる。世論も違ってきただろうと思う。酔っぱらい男ではなく、暴力男ということになってしまう。世論も厳しさを増すし、そもそも警察は公務執行妨害とか同僚への暴力に対してはもう対応が違ってくる。徹底的にやってくる。今回35時間で釈放されたが、警官への暴力ということになれば、取り調べのための拘置期限ギリギリまで拘置することだってあったかもしれない。鳩山大臣は選挙を前に世論の反発を恐れて慌てて発言撤回して謝罪したが、警察は世論なんて気にしない。むしろ世論を味方にするための情報リークもしただろう。そんなことになっていたら、草なぎくんのイメージダウンは計り知れなかっただろう。そんなことを考えるにつけ、今回の罪名が公然わいせつで良かったと思う。パンツだけでも履いていれば良かったのにねという意見もちらほら聞かれるが、僕はパンツまで脱いでいたから良かったんじゃないかなと思うのである。それだから、警察にも逮捕する大義名分が出来たし、今回の逮捕に対して「仕方ないよね」とは言えても、「警察は不当だ」という声にはならない。だって、脱いでいたんだから、公園で。SMAPでなくても捕まる内容だ。騒いでいる男を捕まえる理由としては別件のような印象も無いわけではないが、この別件理由があったからこそ、警察も草なぎくんもダメージが最小限で収まったと僕は思うのだ。

Friday, April 24, 2009

失敗する理由

 お昼にラーメン屋さんに入った。お昼といっても3時半くらい。いつも行く定食屋さんは既に休憩に入っている時間で、初めてのお店に立ち寄ったのである。このラーメン屋さん自体つい最近オープンしたお店で、大々的な看板に「いつか食べてみよう」とかは思っていたところだった。

 で、入る。さすがにこの時間にメシ食いたいという人は少ないのか、お客は僕1人だけだった。入り口付近にある券売機にお金を入れる。とその時、店員の女の子が近くに寄ってきて、僕がどのボタンを押すのかを見始めた。なんかプレッシャーを感じる。選択肢は比較的多そうなメニューなのでゆっくり選びたかったのに、なんか気持ちが焦る。そんな気持ちで焦って押すと、女の子はチケットを受け取る前に「○○〜、面固め〜」と、厨房に伝えた。

 席に着くとそこからは厨房が見える。厨房の中の一番貫禄があるオッサンが、さっき僕の注文を伝えた女性店員を厨房に呼び、ラーメンの作り方を指導している。それ、僕の注文のラーメンだよね。僕の注文を教材にしてるよね。説明をしている間に時間はどんどん経過するよね。オッサンは若めの女性店員に指導するのが楽しいのか、終始笑顔。まあそれはいい。店員同士がフレンドリーになることは悪くない。だが、僕のラーメンで指導してもらいたくないな。こんな時間に昼飯を食べる人は、腹が減っているのだ。一刻も早く食べたいのだ。だから、さっきの券売機での一件にも腹を立てずに辛抱しているのだ。だって、食券を出してから作り始めるよりも、ボタンを押した時点で作り始めた方がいち早くラーメンを提供できるというのが、客にプレッシャーを与えながらも注文を決めようとするお客のすぐ横でボタンを盗み見ている理由だろうと思ったからだ。それなのに、僕の注文でラーメン制作の指導をしている。それによって数秒であっても遅れてしまう。もしかすると味まで変化するかもしれない。ああ、もうこんなラーメン屋には二度と来ないぞ。僕は固い決意をしたのだった。

 早稲田通りはとにかくラーメン屋さんが多い激戦区だ。年間10軒程度オープンし、同じように10軒程度閉店する。今日のお店の3軒隣は去年の8月に閉店したままだし、真向かいにあったラーメン屋も1ヶ月前くらいに閉店して、今まさに内装の工事が行われている。道を挟んで30mくらいのところにあったつけ麺屋さんも閉店して工事が進んでいるし、その10m先のラーメン屋さんも以前そこにあったラーメン屋さんが閉店してすぐに別ラーメン屋さんがオープンし、半年後に閉店して現在内装工事中だし、大変な状態である。思うに、ラーメンがまずいのではないのだろうと思う。彼らのユーザビリティや状況適応能力が欠如して、それをなんとかマニュアルで補おうとするから、結局は個々のお客さんに不快な思いをさせてしまって、定着してもらうことが出来ずにいるのだろう。

 いや、もちろんすべてのお客さんに満足してもらうことなんて出来ない。どこかで割り切りも必要なのだが、しかし根本的なこととして、お客さんに満足するための決まり事ではなく、一つ一つの対応をどうすれば良いのかという現場での判断の際に、「お客さんが大事」ということを忘れずに考えているかということがあるかないかが、そういう対応の一つ一つに現れてくるのだろうし、店の命運を左右するのだろうと思う。

-----------------

 このところ新しいバンドマンたちとの出会いが多い。彼らと話をしていると、勇気がわいたり、がっかりしたりと、こちらも平坦ではいられなくなる。

 そんな中で思うのは、誰もが不安に駆られているということだ。不安に駆られた時にどういう態度に出るかというのが人それぞれで、不安をさらけ出す人と、不安なんてありませんといわんばかりの虚勢を張る人に大きく分かれるのが面白い。前に行くのかそれとも後ろに下がるのか、まさに希望と不安の間のせめぎ合いなのだが、どちらに行くにしても理由が必要になる。

 最近の例でいうと、先日こちらからの提案に対して最終的にNOを返してきたバンドがいた。まあ具体的な提案がどうだったかは触れないが、彼らの理由として、「勉強するためにも、今回は自主でやってみることにします」ということが挙げられていた。もちろんそれも一つの決断だ。勉強するならそれもいいだろう。しかし、以前にも自主でリリースをしていて、そしてまた同じことをやろうとしているのである。年齢の問題もあるし、一体いつまで同じ内容の勉強をしようというのだろうか。契約をしたことによって得られるものもあるわけで、それを知ることなく以前と同じことを勉強していくことに大きな意味があるとは思えないのだけれど、まあそれも彼らの選択なので仕方がない。問題は、再び自主をやることによって本当に得るものが大きいのだという積極的な理由からそういう結論に至ったのか、それともキラキラレコードとやることによって失うものがあるんじゃないかという、それを避けようとする消極的な理由が大きかったのかということだろう。当然だがキラキラレコードもボランティアでやっているわけではないので、それなりの条件を提示することになる。それが耐えられないリスクだったり負担だと感じたのかもしれない。だとすれば、もったいないことだなと思う。何もしなければ事態は打開されていかないのだし、打開されなければいつまでも今のままでしかないのだから。

 別のケースで、やはり提案を受け入れ、リリースに至ったケース。契約終了後に今後の展開についてのひとつのアイディアを提示した。そのアイディアが意味することが最初あまりピンとこなかったらしくて、「それをやる意味が本当にあるのか」「結果は出るのか」など、不安ばかりを口にしていた。なので、とりあえず騙されたと思ってトライしてみて、それでダメだったらやめればいいし、別のやり方を考えてみればいいじゃないかといって、具体的にどうすればいいのかという手順も細かく伝えて、トライしてもらった。そうすると初動としては十二分の結果につながり、彼としても手応えを感じ、アイディアを教えてくれてありがとうという感じの感謝の言葉を返してくれた。やるまでは、懐疑的だったのである。だけど目をつぶってやってみることで、新たなフィールドに立つことが出来た。もちろんそれがゴールなどではないし、運用の仕方もこれから洗練されていく必要があるだろう。しかしながら、トライしたことが結果につながるということは素晴らしいことだと思うし、そうやって最初懐疑的だったミュージシャンが意を決して前進してみたということが、音楽の質とか活動の量とか、そういったものとは関係なく、どんなミュージシャンにとっても大切なことなのではないだろうか。

 もちろん僕のアイディアが絶対唯一ということではない。他にもいろいろな方法論が世の中にはあるだろう。だからそれらの中から何を選択するかということなのである。だから他のものを選んで、キラキラレコードを却下するというのももちろんアリだ。だけど表面的に別のものを選んだようであっても、それが実質的にはキラキラレコードのやり方から逃げただけだったとしたら、それは成功につながるものではなく、失敗する第一歩になってしまうのだろう。出会ったミュージシャンたちがそうならなくて済むように、出来るだけ言葉と心を尽くして説明している日々なのだが、伝わる場合と、伝わらない場合があることも、仕方のないことかもしれないと思ったりしている。

 また別のケースでは、やはりあるミュージシャンがやって来て、僕が彼に向かって「キラキラレコードが何をしようとしているのか」みたいなことをいろいろと説明しようとしてもなんかその反応が薄いことがあった。どうなんだろう、やる気があまりないんだろうか、単に音楽業界の人と会ってみたかっただけなんだろうかとか、不安はよぎる。だが、もう少し話をしてみると、どうやら彼にはそういう説明そのものが不要だったのだ。数度のメールのやり取りと、キラキラレコードのサイトでの情報、そして先日送った資料などを見た段階で、気持ちは固まっていたのである。今更「キラキラレコードとは」みたいなことの説明を受けるまでもなく、具体的に契約に向けて段階を進めたいということだったのである。いつもは2時間とかミーティングをすることも珍しくないのに、その時はせいぜい40分程度だっただろうか。しかも半分くらいは雑談のような内容だった。手がかからない。それは事実だろう。だが、だからといって僕らが楽をしたいわけではなくて、余計な説明などに時間をかけるのはもったいないという気持ちがあって、だから、そういう回り道ではなく直線距離で動けるということについては、僕は彼らを高く評価したいし、余った時間は、もっと別のことで彼らのためになることに費やしていきたいとか思ったのだった。

Wednesday, April 22, 2009

法治国家とは

 林真須美被告の死刑が確定。これはどうなのだろうと思う。というのは、法律論と感情論がごちゃ混ぜになっているように思うからだ。林被告に罪があるとか無いとかの話ではない。この裁判に論理的一貫性があるのかということと、全体的に法は全てのケースに公平に開かれているのかという点で疑問があると思うのである。

 まず、一貫性の点。死刑の根拠は状況証拠である。確かに林真須美は怪しい。そしてこのような事件は社会の安心を脅かすものだから、是が非でも解決が求められる。そして状況証拠は1000以上あるという。だが、だからといって直接の物証がなくて人を死刑にするのはさすがに無茶な結論だという気がする。法は、僕らの生活の拠り所だ。それに頼らないわけにはいかないのだ。だから、正しくあってもらわなければ困るのだ。かつて警察が取り調べで強引な自白強要を行って冤罪をたくさん生み出した。その反省から、自白至上主義から証拠主義に変わってきたのではないのか。だとしたら、物的証拠もなく、状況証拠を積み重ね、死刑を宣告することにはやはり問題があるような気がするのだ。もちろんこの裁判について詳細に調べたわけではない。だから報道をみての感想にすぎないが、法律の基本が疑わしきは罰せずだとしたら、やはりこの裁判の結論には無理があり、それでも有罪を確定させるには一層の捜査が必要だったのではないかと思わずにいられない。

 先日の痴漢事件の最高裁での逆転無罪というニュースを思い出す。あれも、被害者の証言だけを頼りに一審二審と有罪が言い渡されてきた。もちろん痴漢被害が後を絶たないという現実がある。それをなんとかしなければという問題は消えていない。被害者に立証責任があるとすれば勇気を出して訴え出るという女性がいなくなるという問題はある。だが、それと法は別次元の問題で、無実の人間が犯罪者になってしまうことが許されていいはずはない。例えばラッシュ時に女性専用車両を設けていたりするのも社会的な取り組みの一つだ。それ以外にも、コンビニなどに監視カメラをつけて犯罪抑止を目指したり、タクシーに録画装置をつけて事故現場の証拠を残そうという取り組みがあって成果を上げているように、電車にも録画装置をつけて、痴漢は証拠が残るのだという方向に電鉄会社が投資をしたり、それに助成金を出したりするような、そんなことも社会が取り組めばいいのであって、そういう環境整備がないところで多数の冤罪被害者に屈辱を強いたり、痴漢被害者に屈辱を強いたり、その両者で争わせているということは、やはり社会的な不備を国民に押し付けているだけであって、法治国家の怠慢のように思う。

 法の公平性という点での問題としては、秋田の事件との比較を考えるのだ。豪憲君殺害事件だが、あれは、畠山容疑者自身が罪を認めているのだ。争う点はほとんどないはず。なのに、畠山被告が事件当時の記憶を失っているということを理由に死刑の求刑は難しいということだった。これがよくわからない。子供を二人殺害していて、それは死刑には当たらないのだろうか。そして林真須美は罪を認めていなくて、物的証拠もなくて、それで死刑である。捜査機関はそれほどに確実なのか。自分は林被告のような立場に置かれることは絶対にないのだろうか。もしもそうなったときに、どのように自己弁護をすればいいのだろうか。

 いくつか思うこととしたら、近所に嫌われないようにするということだろう。そして高額の生命保険は掛けないこと。必要以上に太ったりしないこと。どれも気をつける必要など無いことだし、犯罪を立証する材料になどなり得ない事柄だ。だが、もしも林真須美が近所付き合いがよくて地域の人気者で、吉永小百合のような美貌だったとしたらどうだったんだろうか。それでもこのような結果になっただろうか。

 そんなことを、最近のニュースをみていて思ったのである。

Monday, April 20, 2009

有刺鉄線ライブ


 一昨日の土曜日、新宿URGAに有刺鉄線のライブを観に行った。有刺鉄線は昨年の秋に方向性の違いから一旦バンドを解散、しかしそもそもバンドを作った中心人物のギタリスト山崎がメンバーを新たに募集して再スタートを切った。しかしボーカルの変更というのはバンドにとっては大きなことである。楽器のプレイヤーが変わって起こる微妙な違いとは全く別物で、誰が聴いても違うということが判る。例えて言うならば、ギタリストが変わったというようなレベルの違いではなく、ギターベースドラムのバンドが、木琴鉄琴フルートのバンドに変わったくらいの、それほどの違いがあるのだ。その違いをそれまでのファンがすんなり受け入れてくれるのかが大きな障壁であった。
 
 しかし、僕はファンが受け入れるかどうかが障壁なのではないと思っていた。メンバー自身が受け入れるかどうかということが最大の障壁なのだ。
 
 もちろんメンバーは言っただろう。新しいボーカルに、ベーシストに満足していると。彼らと一緒に道を切り開くと。しかし人間は過去をそう容易く断ち切れるものではない。しかも、青春を熱唱していたパンクバンドなのだ。もしも心模様とは全く別の風景をテクニカルに作詞していたというのならば、過去を断ち切るのも簡単だろう。なぜなら過去や現在の出来事にあまり関心や思い込みなどないのだから。しかし有刺鉄線は違う。山崎は違う。彼は熱い男だ。それまでのメンバーたちとの活動が熱ければ熱いほど、その熱が冷めるにも時間がかかる。バンドは生き物だから、そう長い時間のブランクが許されるはずも無い。だからすぐにでも頭を切り替えて再スタートをする必要があった。そのことは彼も十分に判っていたし、だからこそ、ものすごい勢いでメンバーを探した。集まったメンバーたちも熱い男たちだった。それで再スタートが切れると思った。だが熱いが故に不器用な男、山崎。彼が本当に再スタートを切るためには、言葉だけの新メンバーというだけではなく、旧メンバーを超える絆をそこに見いだすことが絶対的に必要なんだと、昨年秋の僕は思っていた。
 
 それから紆余曲折、いろいろなこともあって、今年1月には急遽のシングルリリースをおこなった。これは結構強引な流れだったと思う。しかしその強引な動きの中で、彼らの絆は少しずつではあるけれども、確実なものになっていたのだろう。そして今回のライブ。新宿URGAはそこそこの満員状態で、それは決して彼らも僕も満足できるレベルではない。だが、このライブでの僕の目的は動員とか、そんなところにはなかった。確認だ。彼らにとって今絶対に必要なのは、演奏能力でも歌唱力でも音楽センスでも、ましてや結果としての動員力なんかではない。そんなのはクソくらえだ。いや、誤解なきよう断っておくが、どれも大切なことだ。そういうものが無くていきがっていても単なる負け犬の遠吠えになってしまうのだから。それらが大切なことを十分に理解しながらも、あえてそんなのはクソくらえだと言いたい。なぜなら、それを先に求めようとするのは本末転倒だからである。大切なもの、必要なものはなによりも彼らの絆であり、それが出来て初めて、彼らは真の意味で新生有刺鉄線としてスタートできるのである。言葉で言うのは簡単だが、実際はそうそう楽なことではない。だから僕も敢えて彼らにこういうことを言葉で告げることはなかったし、彼らがもがいている姿を横目で見ながら、もがく中で、彼らだけの共通体験を重ね、大切なものを掴んで欲しいと思っていた。
 
 彼らの絆は、どうだろう。僕が太鼓判を押すとか、彼ら自身が宣言をするとか、そんなことで第三者が確認することの出来るようなものではないと思っている。たまたま持っていたデジカメで、動画を撮影したので、興味がある人はそれを見てもらえればありがたいし、そこにある演奏が、彼らの今であり、すべてであるのだ。
 

『あの頃、オレンジの靴』
 しかし、これを撮るために最前列に出張ってしまったが、スピーカー前の衝撃に耐えられる耳ではもうないんだなとか思ったりした。次の朝まで耳鳴りが続いてしまっていたのだ。

Saturday, April 18, 2009

張本さん


 イチローの快挙に騒然とするマスメディア。騒然とする日本と言いたいところだが、WBCの時ほど国民全体が騒然としている感じではないような気がする。まあ、だからといって快挙が損なわれるわけではない。WBCはイチローだけの結果ではないが、3086はイチローだけの結果であり、本来はこちらの方が彼の快挙であり、偉業だといえるだろう。
 
 でも今回のニュースで、もっとも興味深かったのはこれまでの日本最多安打記録保持者だった張本さんだ。昨日イチローに記録を塗り替えられた張本さんは、その前日から球場に足を運んでいた。その模様はテレビなどでも伝えられていた。グラウンドに入ってくるイチローに声をかけ、健康状態を気遣い、さっさと抜いてくれと言った。どういう気持ちなんだろうかと思いながら見ていた。日本一位という記録。それはもう燦然たるものであり、誰がそこに並ぶことがあろうかというくらいの圧倒的な記録だった。僕にはそんな記録も記録への可能性も今のところないから、日本の歴代1位という気分がどのようなものか想像もつかない。想像もつかないほどの輝かしい気分なのだろう。それが、失われるのだ。割り切るのだろうが、割り切れるのか。気分というものは理性で超えられるものではない。それを超えるのが人間というものだが、しかし人間は機械ではなく、だから超えるには相当な思いとか葛藤があるはずだ。大した記録も持つべきプライドもない凡人でもそういう思いの繰り返しなのだから、日本歴代1位の座を奪われる時の葛藤は、第三者が言葉で解説できるようなものではないだろうと思う。
 
 張本さんはコーチに就任することなく現役引退後解説者などをしているが、近年はサンデーモーニングでのスポーツコーナーが活躍を目にする中心だ。大沢親分との「あっぱれ」「喝」解説はとても面白いが、その歯に衣着せぬ物言いが、傲岸不遜にも映ることがある。清原だって張本さんのことは恐いという。番組中はメジャーリーグのことに触れるのさえ時間の無駄というような態度を取る。
 
 だが、張本さんは別に傲岸不遜ではない。それを象徴的に表したのが、新記録達成の試合後、張本さんとイチローの対面のシーン。球場内と思われる部屋で張本さんがイチローの到着を待っていた。イチローが待たせたことは仕方が無い。試合後の着替えや後片付けは当然あるし、記録達成の試合後だから取材なども普通より多かっただろう。それでようやく張本さんの待つ部屋にイチローが現れると、両手を伸ばして「おめでとう、これからも頑張って、体に気をつけて。いいものを見せてくれてありがとう。またよろしく。」と。部屋を出るまでわずかに13秒。普通なら新旧最高記録保持者の対面なのだ。先輩面して30分くらいその場に居座って「これからどうなの、飲みにでもいくか」とか言ったっておかしくない。すぐに日本に戻るとかいう理由もあったかもしれないが、5分くらい会話を交わしたって誰からも非難されることなどないだろうに。きっとイチローが来るまで長い間待っていただろうに。傲岸不遜のコワモテと思われているきらいのある張本さんの、謙虚で礼儀正しい性格がにじみ出たシーンだったと思う。
 
 その張本さんがシアトルの球場で観戦。電光掲示板に日本最高安打記録保持者として名前を紹介されたときの気持ちを「野球の本場の球場で自分のことを紹介されて嬉しい、これもイチローのおかげだ」と語ったという。素直な人だなと思った。メジャー嫌いで知られているようだが、だからといってメジャーやアメリカのことを否定しているのではないのだろう。それとも今回の経験が、張本さんの思いを変えたのだろうか。明日のサンデーモーニングでは確実に突っ込まれることだろう。どんなことを口にするのか、とても楽しみだ。きっと照れ隠しのような、憎まれ口を叩くのだろうと今から想像しているが、そんな微笑ましい憎まれ口を聞ける機会はそうそうないようで、楽しみなのだ。

Thursday, April 16, 2009

旧交

 学生の頃に仲良しだった友達とは、普通はどういう関係性であるのが多いのだろうか。
 
 僕は友達が多い方では決して無い。知人は多い。多くのバンドマン、ミュージシャンたちと日々接する。僕はそういうミュージシャンとはいい意味で距離を置こうとしている。心を開かないということではない。伝えられることは伝えようと思っているし、耳が痛いことだってズバズバ言いたいと思っていて、そしてやはり毎日そういうことの繰り返しだ。そういう関係は、友人関係であってはいけないと思っている。適度な距離感があって、それで成立するのだと思う。だから彼らとは心交わしても、友人ではない。
 
 友人が少ない僕だが、その少ない友人たちとは深いつながりがあると思っている。学生時代にたまたま同じクラスにさせられたというだけのやつらと、20年とか30年とか40年とか付き合っていけているのはそれだけで素晴らしい。昨日今日出会った知人とは語れないことも、阿吽の呼吸で語れたりする。そういう友の存在というのは他の価値に換算することなど不可能だと思う。小学校中学校、大学に社会人時代と、その時々にもっとも仲良くしてもらっていた友達と、今も通じ合えているのだ。それだけでも、僕のこれまでの人生が無駄ではなかったということを証明してくれているように感じている。
 
 だが、高校時代にもっともつるんでいた友とはこの20年、ほぼ音信不通だった。
 
 その友と、偶然つながることが出来た。メールのやり取りをする機会に恵まれたのだ。嬉しかった。高校時代にほんの3年間毎日のように無駄話をしてきたというだけで、20年のブランクはひとときに解消する。それが旧交というものの力だと思う。お互いの人生は方向を違え、またあの時のように同じ密度で接することはもはや不可能だろう。不可能というか、必要がないのだと思う。当時の距離感が無い、単なるクラスメイトだったら、再び距離感を埋めるために努力を要する。それはまるで初めての訪問先に営業に行って、そこでほんのわずかな共通の話題を拡大に拡大させながら親密度を演出するのと似ていて、共通の話題を既に持っているというだけの話で、そこには努力とか違和感とかが伴うものだ。今回のメールのやり取りはそういうものになるのだろうかとかいう懸念も無かったわけではないけれども、しかし、メール上の言葉を交わすだけで、それが杞憂だったということが判った。
 
 たまに会ったりするかもしれない。会わずにまたずっと時間が過ぎていくのかもしれない。でもそれでも10年単位で存在を確認できるだけでも、旧交というのはいいのかもしれないとか思ったりしたのだ。

Tuesday, April 14, 2009

嫌われるものの功罪〜『スティーブ・ジョブス 神の交渉力』


 文芸書ばかり読んでいたので、ちょっと離れてみたくなった。新書というのは読みやすいように出来ているなと思った。
 
 スティーブ・ジョブスはいうまでもなくApple社のCEOだ。このCEOというのが何の略なのかもよく判っていないし、もしかしたらジョブス氏はCEOじゃないかもしれない。肩書きがどうであれ、ミスターAppleであることは間違いない。それは長嶋茂雄がミスタージャイアンツである以上の確実さだ。なぜなら、ジャイアンツには他にもスターは沢山いる。王貞治はミスターとは呼ばれないが、ミスターに負けず劣らずの大スターだ。だが、Appleにはジョブス以外のスターはいない。
 
 そのジョブスが生み出す製品に僕はこの18年ほど魅せられ続けてきた。その間にジョブスがAppleを離れた時期もあるし、だからといってその頃にNEXTのコンピュータを買ったりしたわけではない。だが、やはり僕らはスカリーやアメリオのPCを買ったのではない。例えそうだとしても、僕らはやはりジョブスのMacを買っていたのだと思う。それは、コンピュータというプロダクトではない。未来というビジョンそのものだったのだ。
 
 だから、僕はハッキリ言ってジョブスファンである。だからこの本を読んだといっても過言ではない。そしてこの本に書かれていたことは、ジョブスのわがまま極まりない性格と、そしてその性格によって実現してきた様々な現実だった。とにかく、彼はわがままらしい。自分の思う通りにならないことなどないと心の底から思っていて、周囲の人たちは振り回され、無茶を強いられ、そして捨てられる。その連続だったらしい。それが公平な真実なのかどうかはわからない。が、敵だって多いだろう。それは本当だろう。しかし周囲との和だけを重んじていたのであれば、前例のないビジョンを現実のものにすることは難しい、というか不可能だったと思う。だから嫌われ者であったとしても何の不思議でもない。
 
 常々、思うのだ。嫌われ者であれと。キラキラレコードを運営していて、多くのミュージシャンと接する。その中で、彼らのいうことばかり聞いていたのでは物事は進まない。伸びていきたいと思っている強い気持ちと、無理はしたくないという弱い気持ちが常に誰の中にもあり、弱い気持ちを認めていたのでは、現状から変化することは出来ないのだということを、僕には言う責任があると思っているのだ。だから衝突することもあるし、嫌われることもある。それを恐れていたのでは何も出来ないし、むしろ強い気持ちを多く持っているミュージシャンに貢献することが出来ないのだ。だから、敢えて言うべきことは言うし、それによって衝突が生まれたとしても仕方ないのだと思う。むしろ、衝突を敢えて生むくらいの気持ちでいなければと思う。ミュージシャンが自分は強い気持ちを持っていると自覚している場合でも、それで満足していてはいけないのであって、そんな彼らにはさらに厳しいハードルを提示して、さらに強くなっていってもらいたいのだ。それに食らいつく者もいるだろうし、脱落する者もいるだろう。そのリスクはある。そこまで一緒にやってきた仲間を失う可能性もある。それでも、それでもなのだ。高いところに移っていくためならばそのリスクも厭ってはいけないのだと思う。
 
 だから、ジョブスの姿勢には参考にしたい部分が沢山あった。ジョブスが意識して嫌われ者であれという態度を取っていたのか、それとも本能で、何も考えずに動いていたらそうなったのかは判らない。推測するに、おそらく本能的に自分の求める物を追求してきただけなのだろう。まるで筋肉の動きを意識せずに僕らが毎日歩行行為をしているのと同じように、ジョブスは思うままに生きていたら、わがままと言われたのだろうし、周囲との軋轢を生んだのだろう。その点は問題が全く無いわけではないだろう。しかし、それで彼の功罪が否定されるべきとは思わない。この本にも書いてあるが、ジョブスにとってAppleでの成功は人生の中のほんの一部(それでも凄いことだが)で、大半は苦しい経営の中で綱渡りだった。本当に経営とは苦しいものである。気持ちが切れたらそれで終わりだ。もちろんお金が切れてもそれで終わりだ。それでも気を張って突き進むしかなかったりする。虚勢であっても張らなければならないし、虚勢であることを知っていればいるほど、その虚勢を張るのは大変なのだ。僕も時に負けそうになることもある。多くのミュージシャンもそうだろう。だからこそ、ジョブスの人生は参考になるのだ。もちろんジョブスと同じだけの成功を収められる人なんてそうそういるわけではない。だが、参考にはなる。今が大変な苦労の真っただ中であったとしても、それが永遠に続くと決まったわけではないのだ。それ以外に自分に出来ることがあるというのか。あるのなら、それに転向すればいい。だがそんなものがないのであれば、今の道を貫く以外にないのだ。そしてそこで何かを掴めないようでは、他のフィールドに転向したところで同じことでしかない。まず今のこの道でどう頑張れるのか。それを自らに問いたいと思う。それは僕のようなビジネス側の人間でもそうだし、僕のそばにいるミュージシャンたちだって同じことなんじゃないかとか思うのである。

Monday, April 13, 2009

BANKー堕ちた巨像


 クライブオーウェン主演のサスペンスドラマ。結論から言うと、面白かった。
 
 クライブオーウェンをスターと見るかどうか、ナオミワッツをスターと見るか、その辺の判断はいろいろあるだろうか、僕は、ハリウッドスターというには地味すぎるという感がある。だから、この映画にはスターがいないと思うのだ。スター不在の映画。それはそのまま内容勝負であることを余儀なくされるといえるだろう。そして、その内容での勝負に見事に勝利したといっていいのだろうと思う。
 
 表面的にはこれはクライムサスペンスである。世界的メガバンクの不正を暴こうとする捜査官サリンジャーの戦いを描いている。インターポールに籍を置く彼はロンドン時代にも同じ戦いをして、破れている。彼にとっての正義とは何なのか、同僚や証言者たちが殺された。それに対する復讐なのか。
 
 本来正義とは社会正義を指すべきだ。捜査機関の捜査官であれば、そこは揺るぐべきところではない。だがその社会正義を構成する要因についての認識が揺らぐと、社会正義の実現の方法も変わってくる。それは揺るぎなのか、変節なのか。そして実現しようとして狙うべきターゲットの設定自体にも意義の揺れから揺らぎが起こってきた場合、結局は自分にとって大切なものとは一体なんなのかということが見えなくなってしまう。
 
 社会正義は、一人の力で解決されるものではないのかもしれない。解決されると思ってしまうと、その考えの行き着くところは独裁の肯定だ。もちろんそれでいい場合もあるかもしれない。だが、独裁の殆どはうまくいかない。どんなルールも歪みを生むのだとしたら、その歪みによって虐げられざるを得ない人は恨みを抱く。その恨みが、別の社会正義を欲するようになるだろう。だから、社会の正義は民主主義によってしか成立しないのだろうと思うのである。
 
 この映画でも、そういった正義とは何かということ、そして個による活動の限界、そして、決断というものの重みということが描かれる。派手なアクションや銃撃戦はそれを彩るおまけみたいなものだ。映画だから、そういう部分もないといけない。最大公約数の満足を得なければ収益は上がらない。だが、この映画が描いているのは、社会と個のせめぎ合いなのだろうと僕は思う。そのせめぎ合いの中心にいるのは主人公のサリンジャーである。彼は操作機関の一員として社会正義を実現するという大義の元に活動する。だが、社会正義を実現させる立場の捜査機関自体が彼の操作に疑問を持ち、サリンジャーの抵抗組織となっていく。サリンジャーのチームは追いつめられながらも、証拠に迫り、追い、追われ、戦っていく。だがサリンジャーが初めて知る事実や、考え方に、彼自身が翻弄され、自らの立脚点を見失いそうになる。それは最後の最後までそうなのだ。なぜなら、彼は自らのモチベーションの根源がどこにあるのかということについての認識が甘く、正義のためだと口にするものの、実はそれが私怨であったり、仲間の死への復讐であったりするということを正面から理解しようとしていないのだ。そして、チームを大切にするといいながらも、根拠がチームのメンバーに対する情が大きな要素だったりするから、一緒に取り組んできたことをひっくり返したりするし、それが結局はチームとして一緒に運命をともにするという覚悟を、相手にさせないという美名の元に、実は自分自身がチームへの信頼を欠いているということを隠してしまったりするのである。正義の実現のためにはルールを越えてもいい。それは本当に正義を理解している行為ではなく、自分がルールなのだということをどこかで思っているわけだし、結局は自らの中に他者を尊敬しない独裁の芽を持っているということになるのではないだろうか。
 
 独裁がいけないのではない。そのことに気がついていないということが恐ろしいことなのだ。この中には悪者のように描かれている登場人物がたくさん出てくる。だがもしも彼らの中に悪が存在するとしたら、それは彼らのルールが「自らの正義」に由来しているということに他ならず、だから主人公サイドの正義から照らしてみた時には悪なのだろうが、だが、彼ら「悪」のモチベーションは非常に明快で、だから、一つ一つの行動に躊躇がない。それは結構素敵なことだと思ったりする。社会がどう思うかなんて関係ないのだ。それは危険な思想のように感じる部分もありながら、でも、実際にはルールという公正さを必要以上に信じて、結局は自分の中にある私の部分を押さえきれずにいる、さらには都合のいい時だけ個と社会というダブルスタンダードを使い分けることによって生まれてくる歪みというものに較べれば、私に徹底して行動するということは、あながち悪いことではないのではないだろうかという気がするのだ。
 
 ただし、人間はそういった理屈とか原則論などに無批判に従えるものではない。たとえそれによって生まれる結果がより難しい方向に向くとしても、そしてその結果自らのダブルスタンダードに気付かされて呆然としたとしても、それ自体を責めることが出来るような人もいないのではないかとか、思った。主人公のサリンジャーは、チームの人たちの大義を本当に理解することなく、突き進んだ結果戸惑い、そして立ち尽くす。一方でサリンジャーの大義と自分の大義のずれを認識しながらも、チームの一員としてのサリンジャーの決断を容認した友人は、やがて追うところの社会正義を求め得る立場になっていく。もちろんそれで何か決定的な変化が起こるわけではないだろう。だが、そういう人たちの小さな積み重ねによって、社会の正義というものはちょっとずつだが実現につながっていくのかもしれないと、ちょっとだけ思いたくなった。

Friday, April 10, 2009

3打席連続


 仕事しながらつけていたテレビからのアナウンスを聞いていて、リプレイかと思った。「3打席連続、3打席連続、3打席連続ぅぅぅぅ!」という絶叫。一昨日3打席連続ホームランを打った金本がベースを一周している。ああ、リプレイをなぜ流す? それほどに好調だということを印象づけたいのか? だから盛り上がりましょうといいたいのか? そんな感じで見ていた。金本がベースを一周する映像にインサートされるのはジャイアンツの山口の悔しそうなアップ。ん、一昨日3打席連続ホームランを打ったのは巨人戦だったっけ? 今日は金曜日だし、今年初めての巨人阪神戦のはず。
 
 理解した。これは生の映像なのだ。
 
 昨日のスポーツ新聞の記事を偶然読んでいたのだ。金本は2本打ったことは32回(だったと思う)あるけれど、3本というのは1度もなかったらしい。40歳を超えて初めて1試合3本のホームランを打ったのだ。金本自身、素晴らしい経験だとコメントしたらしい。
 
 それが、1日置いてまた打つなんて、どういうことなんだろう。でも、すごい。プロだと思う。敵ながらあっぱれだ。こういうプレイをぜひ重ねて欲しい。それがプロ野球を面白くする唯一の方法なのだから。いや、もちろんのことだが、今日はもう打たないで欲しいのだけれども。でももう1打席回ってきても何の不思議もないし、阪神ファンだけでなく、それを期待したりするのだろうなあ。テレビ中継は途中で終わってしまったりするのだろうか?

首相会見


 5時から麻生首相の記者会見が行われた。というか、今テレビで流れている。見ていて、なんか笑っちゃう。なぜなら、この会見というか演説は、対処療法の説明であってビジョン提示ではないからだ。これなら総理大臣でなくても官僚のトップでも出来る。
 
 政治家に何を期待したいのか。それはビジョンである。その頂点である総理大臣がビジョンを語らずしてどうするのか。それを問いたい。これほどの大ばらまき予算を実施して、これは恒常的なものではなく臨時の措置なのだという以上は、それをしなければいけない現状についてどのように考えているのか、未曾有の経済危機というのであればなぜそれが起こったのか、誰がどのように危機に直面しているのか、予算対策によってどのような状態に持っていきたいのか、臨時の対処ではなく、この先にどのような社会を目指そうとしているのかということを、語らなければならない。それがまるで語られていないから、笑っちゃうし、官僚にやらせておけよと言いたいし、だから官僚に優しい対応しかしないのかと言いたいのだ。
 
 例えば、「国民の痛みを和らげたい」と言うが、痛みを和らげた後にどのように治療するつもりなのか。死を待つだけの不治の病の人の痛みを和らげるという治療もある。だとしたら、日本はまさに死を待つだけだということになる。そうでないのなら、日本の痛みとはなんなのか、それを和らげた後にどのような治療に取り組むのか。それが語られていないのは残念だ。
 
 北朝鮮に対する制裁措置の延長も決定したというが、制裁して、どうするのか。今でなくても良いが、将来的に北朝鮮にどのようなことを働きかけていくつもりなのか。どのような極東アジアビジョンを持っているのか。それがないのであれば、ただただ拉致被害者たちが歳を取って死に絶えることで、この問題の時効を待っているのかと疑われても仕方がない。
 
 現在小泉元首相の政治に対するバッシングが始まっている。これは当時押さえつけられて恨みを持っている人たちが、この経済危機による不幸の連鎖の原因を小泉政治のせいにすることでわあわあ言っているだけだとしか思わないのだが、なぜあの時の小泉さんに熱狂したかというと、そこにビジョンがあったからである。枝葉末節のことではなく、対立軸を明示し、国民に小泉的ビジョンを示し、「さあ、選ぶのは国民だ。どうする」と問うた。枝葉末節のことは(ほぼ)すべて竹中氏に任せてあった。そしてそれを国民が選んだ。今回の経済危機はなにも小泉ー竹中ラインが押し進めた政治によって起きたのではないが、もしも仮に小泉政治の結果が現在の経済危機だったとしても、それを選んだのも国民なのだから納得できると思う。
 
 一方で、今日の会見で示されたのは、国民全体で15兆円の借金をしますよ、そして国民全体にバラまきますよ、借金は将来の国民が返しますよ、ということに過ぎない。それを決めたのは誰だ? 言うまでもないが、小泉氏のビジョンに賛同した国民である。だが小泉氏の首相退陣以降、3人もの首相が登場したが、その決定に国民は関与していない。そんな基盤にある人が決める15兆円の借金とはなんだろうか? 誰がそれに責任を持てるのだ? いや、誰も持てない。だから選挙をいい加減にしようよと誰もが言ってきたのである。麻生首相もそもそもはそのつもりだったのか、それともそんな顔をしながらも、心の中で「バカ言うなよ、人気いっぱい総理の座に固執してやる」と思っていたのか。今日の会見でも「話し合い解散とか言われているけれども、何を話し合うんでしょうか、言われている意味が分からないから何ともコメントの仕様が無い」なんて言っていた。それが判らないというあたりが、すでに国民主権ということの意味を理解していないということであり、制度上は不備はないのかもしれないが、彼にリーダーの資格はないということなのだろうと思う。そもそも国会議員とは立法府の一員である。立法府とは、既にある法律だけで良いうちは良いのだろうが、やがて歪みが生まれ、新しい事態が起こり、それに対応する法律が必要になるから存在する社会の機能なのである。そこに籍を置く人間は、既存の法律を鵜呑みにすることなく、社会正義のためには法を改めることに躊躇せず、だからつまり法を超えた正義とはなにかについての感覚が鋭敏でなければならないはずである。それが、制度上間違っていないという理由で総理の座に固執し、国民が将来を選ぶ権利を踏みにじっているのだとすれば、大きな認識違いだと言わざるを得ない。解散権とは、制度とか法律とかで行き詰まってしまった状況を一気に改善するために総理に与えられた伝家の宝刀でもあり、制度上間違っていないことを盾にその刀を抜かない、あるいは抜けない人に、そんな権限を与えていても持ち腐れでしかない。

Wednesday, April 08, 2009

世論

 ニュースを見ると平壌の市民という人が「この打ち上げは我が国の技術力の素晴らしさを世界に誇る出来事です」とかなんとか、とにかく北朝鮮は素晴らしいということを誇らしげに語っている映像が流されていた。それをみてどう思うべきだろうか。恐怖政治に押さえ込まれているから仕方なく言わされていると見るべきか。いや、そうではないだろう。その表情はとても誇らしげだ。自信を持って、北朝鮮の国民で良かったと思っているようだ。それはWBC優勝の報に触れ「日本サイコー!」と叫んでいる日本人の誇らしさとあまり変わらない。
 
 では彼はなぜそういう誇らしい気持ちになれるのか。そういう報道がされているから? おそらくそうだろう。諸外国の様々な意見に触れること無く、始終流され続ける大将軍さま万歳(マンセー)というスローガンにさらされることによって、この国は素晴らしいという気持ちになっているのだ。怖いなあと思う。人間は意見を持っているようで、本当に自分の意見を持つというのは難しいのだ。得られる情報の中から結果的に触れた情報を真実と思い込み、それをベースに考える以外に術は無い。生きている中で得てきた情報と思考方法がどれだけ柔軟なのかということも結果の思考に影響を与えるだろう。批判精神というものがどれだけ醸成されているのかも意味がある。北朝鮮の人も批判精神を持っていれば、もっと国の在り方に対して疑問を持ったりもするだろう。しかし残念ながらそういう精神を持つことが許されていないのだろう。そういう教育がされていないのだろう。だから批判精神も持たないし、本当に北朝鮮は素晴らしいと心の底から思うようになる。怖くて表面上の演技をしているのではない。本気で思っているのだから、それが怖いと僕は思う。
 
 ただ、それはなにも北朝鮮国民だけの状況ではないと思う。確かにそこはかなり極端だとは思う。だが、日本だって程度の差こそあれ、冷静な分析をすっ飛ばして感情とか、思い込みだけで意見を持ってしまうことは少なくない。そしていわゆる世論というものを見ていると、いかにそういう思い込み意見が多いのかということに驚く。しかもその世論醸成はマスコミによって行われ、そのマスコミは、時節の論拠を世論調査に求めている。これは「駅はどこですか?」「本屋の前です」「では本屋はどこなんですか?」「駅の前です」というコントにも似て、それがいかにバカらしい論調なのかというのは火を見るよりも明らかだというのに、平然とそのような報道が成されまくっているのが面白い。というか、哀しい。それでこの国の行方が決められようとしているのが、とても怖いような気がする。それは北朝鮮の市民が「我が国は素晴らしい」と誇らしげに語っている姿が恐ろしいのと同じ種類の怖さなのだ。
 
 現在発売中の週刊文春の記事で、櫻井よしこ氏と郷原信郎氏と上杉隆氏による対談のようなのがあった。小沢一郎の秘書逮捕についての話だ。まず断っておきたいのだが、僕自身は小沢一郎を稀代の政治家だと思っているし、次期選挙では小沢一郎による政権交代を願っている。それは彼個人についての信頼ということもあるが、それしか日本に将来は無いと思うからである。そのためには清濁併せ飲んだとしても結果を出すことが何よりも大切だと考えている。そういう前提でこの先を読んでもらうのがいいと思うのだが、だからといって、僕は論理的にメチャクチャなことを言うつもりはないし、僕はこう考えるが、人は別の考えを持つべきだとも思う。ただし、その考えというのが論理に裏付けられていないのは誤りだと思うし、同時にそういう考えによって国は滅びる可能性があるのだということを知ってもらいたいと思うのである。
 
 で、その文春の記事だが、櫻井よしこ氏はまず「今回の一件で小沢一郎の金権体質がはっきりした、数年前もマンション購入疑惑が起こったが、それは個人蓄財以外の何物でもなかったでしょう」と語る。典型的な論理のすり替えだ。氏の中には小沢一郎に対する決定的な嫌悪があり、それを裏付けるために今回の事件を論拠として採用しているというロジックがあるようだが、それこそ検察の思うつぼだ。一般的に論客としての立場を持っている人がこういうことを語ってくれれば、検察はやはり正しかったということになるだろうが、自らの正当性を示したい検察と、小沢憎しという意見の正当性を示したい論客の利己的な利害が一致しているだけで、そこに客観的にも正しいと思われる論理は見当たらない。
 
 一方で郷原氏は「今回の問題で立件するのはいかにも無理筋だ」と、法的な立証の難しさとか、西松の不正送金事件に取りかかったけれど大きな事件が出てこなくて、そのまま終わる訳にもいかずに無理な捜査に突入してしまったようだとかいう検察の事情などを語った。上杉氏は「これまではこの程度のことは指摘されれば訂正をしたり返金すればよかった事例であり、いきなり逮捕ということになったのは大問題。これで逮捕されるのであればすべての事務所は同じような処理をしてきているはずで、したがってすべての事務所や秘書は検察からお目こぼしをしてもらっている状況になる。つまり、今回のことが正義だとして認められたとしたら、検察はどの事務所に対してもいつだって捜査、秘書逮捕をすることが出来るということになってしまい、検察は政治の上に立つということになってしまうので大問題」だと指摘する。さらに郷原氏は「今回小沢一郎側にこういう捜査をして、批判が出ているからということでバランスを取ろうという考えが出てくればさらに問題。本来は個々の事案に対して個別に捜査がなされるべきなのに、民主党側にだけやるのではバランスが悪いからといって自民側の議員に、本来しなくてもいい捜査や逮捕をするようになったら、それこそ本末転倒だ」ということを語る。
 
 この両氏にも、それから櫻井氏にも政治的な立場はあるだろう。郷原氏は元検察だし、上杉氏は元議員秘書という立場を持つ。そういう経歴から、政治的に自民民主どちらかの勢力に加担するような気持ちなどがあったとしても不思議は無い。だからすべての論評や意見に対して、それこそ僕らは批判精神を持って当たる必要がある。その時にどの意見を受け入れ、どの意見を拒絶すべきなのか。僕は一つの指針として、どれだけ論理を筋道正しく話しているのかということを基準にしている。そういう視点で見た時に、郷原氏がもしも民主の応援団として発言をしているのであれば、検察の政治的バランス感覚を攻撃して「自民の側も捜査せよ」と言うのが普通だろうに、彼はそう言わず、バランス論は捜査として本末転倒だとしているところに着目したいと思うのだ。つまり、他のことはどうかではなく、この事件、捜査や逮捕に無理があるということのみを語っている。その言葉の裏に何があるのかを、僕は真剣に読んでいきたいと思うのだ。
 
 そして上杉氏にも政治的立場はあるわけで、だが、やはりこの人の今回の発言も「これが許されるのであればすべての政治家が検察におびえなければいけなくなる」と、党派の別を越えた政治全体の危機ということを指摘している。上杉氏の発言や著作には詰めの甘さがあるケースも少なくないと思うが、今回の記事に限っていえば、非常にニュートラルな発言に終始している。そこに多少の信頼が持てるんじゃないかとは思うのだ。
 
 そういう2氏のニュートラルな発言に接して、櫻井氏は途中から自説のトーンを下げ、質問ばかりするという姿勢に変わった。さすがに論理のすり替えをしていたら立場を失うということ、対抗が出来なくなるということを悟ったのだろうか。その辺は面白かったし、単なる馬鹿でわあわあ言っていたのではなく、ある種の計算をして、論理のすり替えを展開していたのだろうなということがわかる。それだからタチが悪いという気もするのだが。
 
 こういう記事はたくさん出ている。そしていろいろな論客が自説を展開している。もちろんそれらをすべて見ることは出来ないし、だから僕らも一部の偏った情報に基づいて自分の意見を形成するしか他無く、そういう自説に基づいて、いわゆる世論は形成されるのだ。一体どのくらいの論客が論理に基づいた意見を述べ、どのくらいの論客が感情的な非論理を述べているのかはわからないが、感情による非論理の方がインパクトは強いし、感情にダイレクトに響いてくるのも事実で、だからそれに基づく「世論」がどのくらい正論なのかは非常に怪しいと思う。だが、そういう世論が世の中をリードし、国の方向性が定まっていくのだというのもまた事実。たとえそれが、ミサイルを国の誇りと自信もって語る平壌市民の意見と大差ないものだとしても、それが事実であるのだ。残念なことだが。

Tuesday, April 07, 2009

聡明さ

 ミュージシャンとのミーティングは続く。
 
 キラキラレコードはレーベルだ。基本的にはCDを製造して流通させる。それだけである。だが、それだったら単なるプレス会社とか、有象無象のレーベルもどきと変わらない。19年続いているには理由がある。ミュージシャンたちは現状に満足せず、なんとか上に行きたいと願う。だが、どう打開すればいいのか。それがわからずに周囲に意見を求める。その求める先が先輩筋にあたる、やはり売れないミュージシャンだったりするものだから、始末が悪い。失敗例に学ぶことがないわけではないが、藁にもすがりたい立場でそういう失敗例を見た時に、すがってしまっては結果は火を見るより明らかだ。失敗への道をまっしぐらということになる。
 
 小さなレーベルにトップヒットを獲得するようなアーチストと同じ規模の宣伝を期待しても意味が無い。それには応えられない。もしも現在の所属アーチストがブレイクして、そのアーチストによる売り上げによって潤沢な資金が出来たとしても、それを売れていないミュージシャンたちの宣伝に使うわけにはいかない。それは、ヒットを飛ばしたアーチストをさらに延ばすために使うべきだ。それは道義的に見てもそうあるべきだし、同時に効率の面を考えても、売れているものをさらに延ばすために使うことがもっとも効率的だ。レーベルに頼ることしか知らないミュージシャンにいい夢を見せるために使うあぶく銭はどんな状況下に置いてもあり得ないと思う。
 
 では、なにがレーベルとしての存在意義なのか。それはノウハウである。現状をどう打破していけばいいのかの、戦略である。それが一体なんなのかは、こんなところで公にするわけにはいかない。なぜならそれがレーベルの生命線であり、一線を越えてキラキラレコードに飛び込んできたミュージシャンにだけ伝えるべき宝なのだと思う。契約をする前のミュージシャンたちといろいろな交渉をする。その時には伝えないことなので、彼らはそういうノウハウがあるということの具体的内容を知ることなくサインをする。もちろんそういうものが無くても十二分にミュージシャンの利益につながる仕事をしている自負はある。だから、それ以上のことをする必要も無いかもしれないが、せっかくだから売れて欲しいし、そのためには惜しむ必要なども無い。隠すところ無くそのノウハウを伝えていきたいし、現に伝えている。
 
 だが、ノウハウといっても決して魔法の扉などではない。そのノウハウを使って、戦略に基づいて、彼ら自身が努力をしなければならない。その努力は何のためなのだ? それはまさに彼らの音楽が売れるための努力なのだ。努力と書くとものすごい苦労を伴うように思われるかもしれないが、じゃあその戦略が無ければ彼らはどうするのか。やるべきことがわからずに何をすることも出来ずただ立ちすくんだままでいるか、さもなくばもっと苦しくて見込みの無い、失敗バンド先輩の後を追うことだけだ。だからそれはもしかすると魔法の扉なのかもしれない。だがそれは地道に着実に動くことによって結果を求めるというだけの、正しい方程式でしかないのだ。
 
 それを、契約後のミュージシャンに伝えると、2通りの反応がある。1つは「目のウロコが落ちたようだ」というもの。もう1つは「うーん、とりあえずやってみますぅ」というもの。当然後者はそれが正しい方程式であるということにさえ気づいていない。だから一生懸命にやることもない。もったいないと思うが、それが彼の感性であり、理解力であるから、仕方ない。往々にしてそういうバンドが成功をつかめなかった時に「キラキラレコードはダメなレーベルだ」という言葉を発する。結果を得ていないという感触でしかないから、そういう感想に至ったとしても不思議は無い。だが、やっているミュージシャンはコツコツとやっているのだ。そのことになぜ気がつかないのだろうかと思うが、それは僕にはどうしようもないことなのだ。
 
 前者は「これはすごい、他の人には言いません」と言ってくれたり、「どこかで講演とかしたりしてるんですか」とか言ってくれる。別に褒めてもらいたい訳ではないが、そう言われて嬉しくないことも無い。それは自尊心をくすぐられて嬉しいというのではなく、アドバイスが役に立ちそうだという喜びなのだ。もちろん戦略を伝えたつもりで、それを相手も理解したつもりでも、細かな運用の過程では微妙な誤りを犯すことも多い。だから時に応じて軌道修正的なアドバイスを繰り返すことになったりもするのだが、それにしても、やはりそれなりの理解力がなければ、そういった戦略を実行していくことは難しいのだろうと思う。宝は、持ち腐れてしまうことも多いのだ。いかにして活かしていくのか。それが問われる。音楽だけで勝負するのではなく、人間力全体でぶつかって勝負をしていくのが、音楽での勝負の正体なのだろうと思う。
 
 ミュージシャンにも聡明さが問われる。それがあれば音楽の世界でなくとも成功に近づけるのだろうし、それがなければ目の前のチャンスをみすみす逃してしまうのだろう。

Thursday, April 02, 2009

禁煙拡大

 ちょっと怖いなと思う。禁煙拡大。昨日からJR東日本では駅での喫煙が全面禁止になったらしい。
 
 これまでもホームの隅に喫煙コーナーがあって、その周囲だけもうもうと煙が立ちこめていた。臭かったので、その周辺には寄らないようにした。その近辺の車両に乗り込むと、ギリギリまで喫煙していた人が駆け込んできて、彼らの呼吸で車内にタバコ臭が広がっていた。喫煙コーナーだったら空気はそのうちに拡散してしまうが、車内は密室で、一度臭いにおいが立ち籠むともう逃げられない。最悪だった。
 
 だが、それと喫煙の権利とはまた別の話だ。喫煙は違法ではない。それをなし崩し的に禁止していく動きには違和感を覚える。それが健康とかいうキーワードをベースに広がっていくと、なんか抵抗することが悪だという雰囲気が広がる。それは、自由な社会に於いてとても危険なことだと思うのである。
 
 かつて18世紀フランスの哲学者であり文学者のボルテールは「あなたの意見には賛同しないし、私は命がけで反対する。しかし、あなたが自分のその意見をいう権利については、私は命がけでそれを守る」と言ったらしい。それは要するに、自分にとって不利益を生む意見であっても、その意見を言う権利そのものを否定することは出来ないということで、言論の自由という考え方の根本的かつ決定的な発言なのだと思うのである。ボルテール自身言論弾圧にあい、パリを追われた経験を持つ人で、理不尽な攻撃をたくさん受けていた。言論弾圧なんて、彼自身の「言論の自由」とは全く対峙する考えであって、そういう理屈に基づいて弾圧・追放を受けたら、自分だって同じルールのもとで対抗するしか本当はないのだ。しかしながら、それをやったのでは自分が自分でなくなる。大変な思いをしながら、ヨーロッパを放浪しながらも、自分のルールを曲げることなく生涯を貫き通した姿は美しいし、我々が寄って立つこの自由主義の社会というのは、そういう理想に支えられているはずなのである。
 
 そういう考えからすると、喫煙する人の自由というのはどうやって担保されればいいのだろうかという問題は持ち上がる。しかし、公共のスペースで煙草を吸うということは、周囲にも受動喫煙を強いるのだという主張によって、どんどん隅の方に追いやられている。そして今回、JRでの全面禁煙という事態に至っている。それが正義だという風潮になっている。だが問題は正義とか言うことで語られるべきではない。むしろ、彼らの自由を制限していくことに、正義と反対の方向があるように、僕には思えて仕方ないのだ。
 
 もちろん、昔のようなタバコ吸い放題という時代は復活しないだろう。それは煙草を吸う人の無作法、傍若無人ぶりというのがもともとあって、だから怒れる非喫煙者たちの反撃が、現在の禁煙拡大につながっているといえる。そして今の時点でも、やはり喫煙者が本当に周囲を気遣って喫煙しているとは思い難い。つまり喫煙者たちがもっと周囲と共存する方策を探っていけていたとしたら、今のような禁煙拡大にはつながらなかったのだろうと思う。だが、不躾な振る舞いには強硬な抵抗をがセオリーだ。だから、禁煙拡大派はどんどんと喫煙者には住みにくい社会を作っていく。そこには対立以外の何者もなく、両者が共存できるための知恵などはない。
 
 だが、その対立に於ける他社排斥こそが、自由を脅かす根本になるはずで、だからこそ、こうやってJRのような大きな組織での全面禁煙という現実が、僕になんか恐ろしいなあという気分を起こさせるのである。

Wednesday, April 01, 2009

YES MAN

 

 ジムキャリー主演の新作映画。ネガティブで引きこもり的な人生を送っていた主人公がすべての問いかけに「YES」と答えるようになるとどうなるかという物語だが、とても面白い。ジムキャリーがすべてにイエスというようになるきっかけは新興宗教のような気味の悪さだが、例えそうだとしてもこの「すべてにイエスという」ということは、ある種のネガティブシンキングな人には有意義ではないかと思う。
 
 映画だからの都合のいい展開。それも心地よく感じられるほどのジムキャリー節が炸裂している。ここしばらくの彼の映画はなんか突き抜けている感じが薄かったのだが、これはとてもいい感じで、しかもヒューマンな感じが満載で、いい。個人的に特に好きだったシーンはポジティブな生き方になってから習ったギターによって活躍するシーン。このとき歌う曲のことを僕は知らないのだが、アメリカ人なら誰でも知っているくらいの有名な曲なんだろうか。全体に選曲が良くて、サントラも買ってみようかとか思うくらいの感じだった。でもエンドクレジットにはものすごい数の曲が入っているにもかかわらず、サントラは一部のアーチストの曲が並んでいるだけで、どうも偏りがあるような気がして、躊躇する。そのかわりといってはなんだが、ジムキャリーの相手を務めている女優ズーイー・デシャネルが参加しているユニットShe & Himのアルバムを買ってみようと思った。ズーイー・デシャネルの演技はとても好印象で、映画の中で組んでいるバンド『ミュンヘハウゼン症候群』ではとてもヘタクソな歌いっぷりなのだが、ジムキャリーと深夜の野外ステージで歌うビートルズ「Can't buy me love」などはとてもいい感じで、本当は歌がうまいんじゃないかとか思ったりするのだ。いや、実際に買って聴いてみなければわからないのだけれども。
 
 映画はストーリーだ。ネタバレするとコメディーは笑えない。だが、本当にいいコメディーは何回見ても面白くて、泣けたりするものだと思う。そういう意味で最近見た映画の中では秀逸だと思う。同じような心地よさを感じたのは「リトルミスサンシャイン」であり「アイアムサム」(コメディかどうかは疑問だが)であった。