Friday, September 25, 2009

西松遙社長のウソ



 今回の鳩山政権の布陣で最も感心しているのが前原国土交通大臣だ。そしてこの人が辻元清美を副大臣にしたというのも興味深いと思う。なぜなら、筋金入りの融通が利かない人たちだからだ。国土交通省というのは利権の巣窟である。扱う予算も莫大だ。既に進行している事業を止めるというのは、言うのは簡単だが行うのはとても難しい。既存の権益が幾重にも絡んでいるからだ。普通は自分の立場が可愛いものだ。だから民主党の議員でありながら既に地域の陳情に応じてすべてのダムが中止ではないなどと言っているやつもいる中、国土交通大臣は大変だなあと思う。これをマニフェスト通りにやっていこうというなら、かなり原理主義的な人でなければ不可能だ。もちろんそれで非難も起きるし、後日ものすごいバッシングや抵抗も起きるだろう。それでも曲がらないという強い意志が必要になるのだ。その是非はともかく、竹中平蔵のように現在、市場原理主義の悪の権化のように言われながらも平気で反論するような、ある種の厚顔ぶりが要求される。これは、小沢一郎の権勢にも折れることなく主義を貫こうとしてきた前原氏こそ適任の役割だと、僕は膝を打って納得した。

 この前原大臣が昨日会ったのが西松遙、JALの社長だ。この人は瀕死状態にある日本航空を立て直そうと必死になるべき立場の人だ。数ヶ月前にCNNだかなんだかで取り上げられた。なんでも、日航の危機に範を示そうと電車通勤をしているということだった。美談である。もちろん社長が電車通勤をしたところで全体の経費削減の規模からすると屁にもならない。しかしながら、そういう姿勢を示すことで、企業年金を減らさなければという交渉にも状況打開の芽が生まれる。全員が我慢をするのだよということをお願いするなら、まずトップが率先するのが当然だ。

 そのニュースは世界を駆け巡り、公聴会に自家用ジェットで乗り付けて批判を受けたアメリカ自動車業界のビッグ3のトップと比較された。美談となった。前原大臣もそのことを知っていたのか、会談の冒頭で挨拶をするかのように問いかけた。「今も公共交通機関で出勤されているんですか」と。それに対して西松社長は「いやあ、最近はインフルエンザの流行もあり、周りも心配するものですから、今は車で」と答えた。相当ばつが悪そうだった。

 そのこと自体もそうだが、僕はこの人はトップとして相応しくないと感じた。そもそも電車通勤もパフォーマンスに過ぎなかったのだと思った。そういえば少し早めに会談の部屋に入った西松社長は椅子に座ることなく立ったまま前原大臣を待っていた。これもパフォーマンスを気にする本能がそうさせたんじゃないかという気がする。注目が集まるところではそういうことが出来るのだ。だが注目が薄れるとそういうことをやるわけではない。そう思われても仕方ないのではないだろうか。

 それと、もっとおかしいと思ったのは、日航とはどんな会社なのかということへの認識が足りなさすぎるのではないかということである。まず、航空会社の経営が怪しくなったきっかけのひとつはサーズの流行である。サーズ流行を恐れた人々が海外渡航を自粛した。一種の風評被害である。先日も新型インフルエンザが問題となって、北米からの帰国便が物々しく消毒され検疫され、疑いある人を隔離したのは記憶に新しい。人々は海外を自粛した。そういうことが自社の経営に影響しているというのに、今ここで「インフルエンザが流行っているものですから」と言う。しかも彼が公共交通機関での移動がインフルエンザ感染の原因になりうると断言しているも同然である。しかし、その日本航空こそ、巨大な公共交通機関である。電車などに比べてはるかに気密性も高く、空気も乾燥している。そして同じ人間が長時間同じ空間に閉鎖されている。感染のリスクは隙き間だらけの電車などよりもはるかに高い。西松社長はそういう空間に多くの人に乗ってもらいたい立場の人である。それが、インフルエンザを恐れて電車を敬遠しているという。なんだそれと思わざるを得ない。

 しかも彼はそれを主張したのは周囲だと言う。彼が本当に自社の立場を理解しているならば、周囲を説き伏せても自分は電車で行くのだということを貫くだろう。もちろん電車よりもハイヤーの方が楽だ。その楽を選んでいるだけのことである。周囲の甘言が本当に有ったかどうかは不明だが、有ったとしても、それになびいたのは西松社長自身だ。それを周囲のせいにするようでは、リーダーとして失格だし、今後のリストラ案や組合やOBたちとの交渉で、本当に困難な交渉に当たれるとはとても思えない。

 前原大臣やマスコミは、西松社長の言葉の裏を取るべきである。彼が電車通勤を止め、ハイヤーでの出勤に切り替えたのは一体いつなのか。それがインフルエンザ問題とリンクするかどうか。僕はインフルエンザは単なる口実であって、本当の理由ではないと直感する。そのことを是非とも取材や調査によって明らかにしなければ、安易に公的資金を与えるべきではないと強く感じる。単に公的資金を否定しているのではない。日航の置かれた立場や、これまで国の空港開発に付き合わされてきた事情なども考えると、一方的に日航のことばかり非難するのはどうかとも思うし、将来的に返済されるのならば無駄ではないし、この規模の資金援助は国でなければ不可能だとも思う。鳩山さんも決して否定的ではないというが、やるべき時は予算を使うということも絶対に必要だ。でも、それがもしもいい加減なパフォーマンスの人に騙されて出すようなことがあってはならないし、それは結局日航を救い、国民の利益にはならないのだと思うのである。

Wednesday, September 16, 2009

財源問題と希望論

 鳩山政権が誕生した。これはこれで素晴らしいことだと思う。もちろんこれから平坦な道のりではないだろうと思うけれども、しかしながらこれが新たなスタートだと望みたい。

 そのニュースを見ていて、ことのほか新政権に不安を述べる人が多いように感じる。不安に感じる人がいないというのもおかしいが、不安が渦巻くということでもないと思う。そういう意見を敢えて強調するように報じられているのか、それとも本当にかなりの人が不安に思っているのか、それはよくわからない。だが本当に圧倒的に不安の人がいたのであれば、自民党がこれほど負けることはなかったようにも思うのだが、どうだろうか。

 その財源問題だが、僕は2つの視点で考えてみたい。ひとつは、本当に財源はあるのかないのかということ。そしてもうひとつは、財源問題と意思との関連である。

 本当に財源があるのかないのかということでいえば、僕はあると思っている。というか、ないわけがない。こう言うと極端でかつ無責任に感じられるかもしれないが、そんな立場でもないので無責任で仕方ないだろう。財源はないと言えばないし、あると言えばある。そもそも、無いということで言えば麻生政権での補正予算も、ないから国債発行をするわけで、ではその膨大な国債を誰が引き受けているかというと、国民だ。より正確に言うならば、民営化された日本郵便が、今でもその膨大な資産を国債購入にあてている。当てられるということは、財源はそこにあるということである。もちろんそれは一時的に借金をしているわけで、国債の償還時期が来れば利子とともに返さなければならない。すでに償還時期がきているものもあって、その返済に借金をしている部分もあり、自転車操業、火の車だ。だから大変だと言っているわけで、もう借金はするなよというのが健全な考え方だ。不況の今、税収は減っており、使うお金を増やしてはいけないというのもまともであるし、だから、子育て支援も、高速無料化も反対だというのが一般的な財源問題への不安という形になって現れ、報道されている。

 総予算というものがあって、それが税収を超えれば国債発行や埋蔵金ということになる。その予算の枠の中でいかにやりくりをするかということが問題なのであって、これまでの予算で決まっていたものの上にさらに支援とか無料とかすれば当然追加の財源が問題になるのだが、そうではなく、これまでの予算の在り方に疑問があって、だから政権も交代しなければということになるのだ。民主党が財源論に怯んで子育て支援も高速道路無料化もしないということは、すなわちこれまでの既定路線としてある予算をそのままにするということであり、それは民主党にとって自殺行為である。だから敢えて予算は組み替えるのだ。組み替えによって、期待していたお金をもらえなくなるケースもあるだろう。だが、一部議員が言っているように、母子加算を復活させるような組み替えをもししなかったら、そこで苦しんでいる母子がどういうことになるのかということと、期待していたお金をもらえなくなることで苦しむ誰かがどうなるのかということを比較すればいいのだと思う。それと同じように、子育て支援とか、高速無料化によって出てくる影響を比較すれば良いのだと思う。バランスであって、そのバランスの中で舵を切ることが大切なのだと思う。高速を無料化するということが極端な政策だと、僕も思う。しかしながら、今の料金体系とその料金がどのくらい人件費に充てられているのかというのが逆の意味でとても異常で極端なのであり、それとのバランスを最終的に調整するならば、一度極端なことを言っておく必要があったのだろうと思う。これも一気にやるというのではなく、北海道や九州の、比較的渋滞などの影響が出にくいところから始めるということであり、そういった手法は休日に一斉に1000円といういきなりのやり方よりも随分慎重だと思うのだがどうだろうか。いや、僕も休日1000円は利用させてもらったけれども。

 2つめの視点、意思の問題とはこういうことだ。自民党がいみじくも選挙前に怪しげなアニメをつくってYouTubeなどで喧伝していたが、そのアニメでは鳩山さん似の男が夜景の綺麗なレストランで「俺についてくれば人生バラ色だよ」とかいって、「じゃあそのお金はどうするの」「それはなんとかなるさ〜」みたいな内容だった。もちろん財源は大切だ。働きもしない男にプロポーズする資格はないだろう。だが、不況と言われる世の中で、将来までも安定することが保証されるようなことは滅多にない。ではどうすればいいのか。そこである男は「何とか頑張って、お金を貯めて、海外旅行に行こう」と言い、別のある男は「将来が不安だから、海外旅行なんて無駄遣いは一切考えないように、堅実に生きていこう」と言う。数年、いや十数年後に結局どちらの家庭も海外旅行に行けない可能性もあるだろう。しかし、後者は絶対に行けないし、希望すら持つことは出来ないのである。もちろん堅実第一の方が老後の蓄えなどは万全になるかもしれない。では万全とはどういうことをいうのか。いくらあれば老後は安泰なのだろうか。そんな保証額なんて決まらない。難病にかかり医療費が想定外にかかるかもしれない。地震にあって家が崩壊するかもしれない。銀行がつぶれて預金がパーになるかもしれない。家族が誘拐されて身代金を用意しなければならない。そんなことを考えていると、安心なんてほど遠い。だから堅実派はとめどなく貯金をするだろう。そして我慢を続けるだろう。それでいい人ももちろんいる。だが、僕はいやだな。そんなことを強いられると、とてもじゃないけれど生きている意味が無くなる。

 今の不安をあおる勢力というのは、そういう存在ではないかと思うのである。堅実旦那に向かって「貯金をしなさい、将来に備えなさい」と休みなく言い続ける。それによって貯めることだけを人生のすべてにしてしまっている人は多いのだと思う。そしてそのお金を金融機関はサブプライムとかに投資したりしてきた。今国が借金している原資である郵貯のお金だって結局は個人が将来の備えにと貯めているお金ではないか。不安を煽って国民に貯蓄させるというのはこの国の基本政策だった。そしてそのお金を国にまわして、天下りの人とか建設会社とかが潤ってきた。その一方で個人の生活が切り詰められ、母子家庭への支援も減らされてきた。働けない支援されないではどうしようもないし、お金をかけられない家庭の子どもは教育もろくに受けられないということであり、一方で潤ってきた側にいる人は子どもも教育され、エリートとなっていき、利権をさらに守ろうとする。まあそういうステレオタイプがどこにいるのかという特定は難しいのだろうけれども、現実はそういうことが広く行われていて、そういう嘘とか歪みの象徴となるものがいくつかあって、それが、教育であり、道路であり、ダムである。それだけのことだろうと思うし、だから、この歪みを正すためにも、多少の無茶があっても、初志を貫徹することがまず望まれているのだろうと、それが民主党への期待なのだろうと思うのである。

 要するに、今の世の中はかなり極端なところに行ってしまっていて、だからそのベクトルを逆の方にちょっとだけ戻す、そのスタート段階に過ぎない。戻すべき方向というのはつまり社会主義的な方向性だ。それを20年前くらいに口にしていたのは社会党や共産党だった。僕はそれを良しとは思わない。だが、現在の状況は社会主義体勢が個人の欲に塗れて失敗して末期的症状を起こし、その結果壁が崩壊したように、今の日本は資本主義という名の下に一部の個人が欲に塗れて、結果として社会主義国家よりも社会主義的な状況に陥ってしまっている。つまり両方の極端な主義は、結局個人の欲によって歪められ、末期的なところに行き着いたのであって、日本の資本主義もまた、壊されるべき壁を築いてきたのだ。それをどうやって打破するのか。ベルリンもかつて壁が崩壊し、いろいろな不安を迎えた。だがその不安を凌駕したのは、希望そのものだったように思う。壁を越えれば撃たれるかもしれないがそれでも向こうの世界への希望で超えようとする。同じようにこの国も、現在不安に押しつぶされようとしている状況で、国民の多くは希望への舵を切ったのだ。だからこそ、僕はこの政権に我慢しながらも期待したいと思うのである。

 
 今日注目すべきは鳩山さんの挨拶ではない。官邸を去る麻生前首相の挨拶だ。締めくくりに「日本の未来は明るい」と述べた。この1年間経済が不安だと言い続け、政権を手放そうとしなかった麻生さんだが、本来はべらんめえで明るい性格の人だったはずであり、今日の挨拶でその持ち前の性格が再び見えたような気がした。そう、日本の未来は明るいのだ。少なくとももうしばらくの間は、「もしかすると海外旅行に行けるかもしれない」というような希望に心を寄せながら、前を向いて進んでいきたいし、行くべきだと心から思う。

Thursday, September 10, 2009

リマスタリング

 ビートルズのデジタルリマスター版が出たそうな。世界同時発売で深夜0時から販売すると世界で最も早く買えるというのはWindows95の発売あたりからの通例となった。銀座山野楽器でも多くのファンが並んだという。タワレコではなく山野楽器というのが、ファン層の年代を物語るという気がする。

 さて、僕の机のスピーカーからも今ホワイトアルバムがガンガン流れている。このニュースに誘発されて棚から出してきたわけだが、昨日のニュースを見ていると、どうやらデジタルリマスター版の音は妙にクリアで、まるでビートルズがそこにいるように聴こえるらしい。それを聴いた後で以前のバージョン(今僕の前で流れているやつ)を聴くと、「ビートルズが遠くに行っちゃった」ようになるらしい。

 まあこれがマスタリングというもので、一般の人からすればあまり馴染みもなければ理屈もチンプンカンプンなことだろうが、音楽をやっている人なら避けては通れない作業でもある。レコーディングをして、複数の録音トラックをLとRの2トラックにバランス調整してまとめるのがミックスという作業だが、基本はここでいろいろな思いを込める。マスタリングの時にいじるよりもミックスの段階でいじった方が自由度が高いからだ。例えばボーカルだけにエフェクトを掛けたいと思っても、ボーカルだけのトラックが独立しているなら可能なことも2トラックにまとめられた後では、どうしても他の楽器にもエフェクターの影響は出てきてしまう。だからミックスの時にやるのが基本だし、簡単なのだ。

 しかしながらミックス済みの2トラック音源をいじるしか無いことだって多い。ミックスの時に忘れていたとか、後から気付いたとか、そんなのは論外だ(でもこういう事態も少なくない)が、例えばベストアルバムを作るとき、レコーディングの時期も場所もエンジニアも機材もまったく違うような音源がそこにあるのである。コンピのように違ったアーチストが混在するならそもそも違っても当然だが、同じ歌手の曲が並んだ時には同じように聴こえないと違和感が生じる。というわけで、全体の調子を合わせたりするためにはマスタリングは不可欠だ。近年はそういう作業のためのテクノロジーは格段に進歩している。機械的な進歩に僕ら音楽業界人の耳がついていっていないというのが多くの場合実情だろう。プラグインというソフト的なものがセットで100万円を超えるというのもざらである。それでも10年前ならその100倍出しても手に入らないようなものだったわけだから、テクノロジーの進歩というのはありがたいものである。

 ビートルズの今回のリマスタリングは実に4年の歳月をかけたという。関わったスタッフは大変だったろうなあと思う。全アルバムに対しての作業だとはいえ、4年間ビートルズの音ばかりをいじりまくるって、大変なことだ。それに作業が終わっても全部を聴いてちゃんと判断するというのは今期と体力が不可欠である。こうして発売の日を迎え、ホッとしているであろうエンジニアたちにはご苦労様と心から言いたい。

 だが、僕は今回のリマスターを苦々しい気持ちで見ている。聴きたいかと問われればもちろん聴きたい。だが、それは一体何を聴くためのものなのだろうか。ビートルズがすぐそこにいるようだということは感動なのだろうか。だとしたらその感動は何なんだろうか。ビートルズの本質を、近くに行くことでより判るというのだろうか。それとも、エンジニアの人たちの技術と根気を賞賛するための作業だったりするのではないだろうかと、僕は思うのである。

 テレビのニュースにはビートルズを一気に聴くイベントに会社を休んできたというおじさんたちの列が映っていた。音楽に対する情熱なのか、それとも青春時代への邂逅なのか。既に伝説となり、個人の中でも唯一無二の存在になってしまったビートルズ。彼らの音楽をその伝説抜きに音楽史さえ知らない幼児に聴かせた時に、はたして今の新人たちと比べて圧倒的な差でビートルズを支持するのだろうか。いや、そんなことは無いと思う。若いバンドたちの音楽にもいいものはたくさんある。時代を超えられるかという問いへの答えは時間が経たないと出てこないだろう。だがその可能性を秘めた素晴らしい音楽はたくさんある。だが、それを知るにはその倍の、下手すれば10倍100倍の駄作と偽物を聴き、失意に塗れる必要があろう。それは大変な努力でもある。だが、だからこそそれに巡り会えた時の喜びは大きいのだ。そういう音楽との触れ合いを日常的にしている人は、ビートルズリマスターのために深夜に並んだり、9時間イベントに参加した多くの人たちとなかにどのくらいいるというのだろうか。まあ僕は特殊な立場故に、まったく無名のミュージシャンの音楽や、音楽もどきさえも聴きまくっていて、そこまでする必要はまったくないと思うが、しかしながら1枚目が認められて2枚目がスマッシュヒットするとか、武道館クラスのライブを出来るとかでもいいし、それを全員とかではなく、年に1組くらい聴いてみるとか、そのくらいのことをしているオッサンはどのくらいいるのだろうか。誤解なら謝るが、まあほとんどのオッサンは聴いていないだろうと思う。となると、新しい音楽との出会いを放棄した音楽ファンが求めるビートルズリマスターというのが一体なんなのか、それがまったくわからなくなってしまうのである。

 僕は、ビートルズがすぐそこにいる必要はまったくないと思っている。それを買うくらいなら、もっと別のものに手を出したいと思う。いや、ビートルズがいけないわけではない。選択をするというのは、別の可能性をひとつ葬るということでもあるのだ。だから、僕は既におおかた知っているビートルズのさらに細かな部分を知るための選択よりは、もっと新しい、今自分の道をさまよっている多くの現役バンドたちの音楽に耳を傾けたいと思うのだ。

 それは同時に、キラキラレコードの姿勢でもあると思う。マスタリングとか、レコーディングの技術というのは既述の通り素晴らしい。だが、それに比重を置きすぎると、本当に大切な、ロックな何かが失われるような気がしてならないのである。例えば、オートチューンというプラグインがある。これは音程を変えることが出来るものだ。つまり歌入れの時の実際の歌唱が多少音を外していても、後から調整して上手く歌っているように修正出来るのである。これはとても重宝だ。僕だって使うことはある。限られた予算の中でどうしても満足な結果が得られないことだってある。そういうときのための最後の策である。だが、それがあると判れば人は頼ってしまう。あまり練習しなくてもいいよね、息継ぎの音も消せるし、タイミングがずれたら一部の音だけずらせるし、テイク1とテイク2のいいところだけをあわせることも出来るし、声の強弱だっていい感じに出来るし、音程だって外しても大丈夫。そんな気持ちでレコーディングしていたのでは、感動なんて生まれない。今年の24時間テレビで盲目のスイマーが津軽海峡をリレーで泳いで感動を生んだが、あれはあの人が本当に大変な思いをして、昨年は失敗して、それでもリベンジを誓い再チャレンジするから素晴らしいのだ。仮に今年も途中で失敗していたとしてもそれでも僕らは納得するだろう。しかし、もしもこれ、テレビに映っていない時に船でバーッと先に移動して、「まあゴールだけそれらしくやってればいいんじゃない」って気持ちで、スタッフはもちろんリベンジをする彼女も同じ気持ちでインチキをしていたとしたら、そこに感動はあるだろうか。それはロックなんだろうか?

 僕は、音を良くする技術があることは知っている。自分の作品としてリリースする立場のアーチストが出来るだけ綺麗で完璧なものを出したいと思う気持ちも十分に判る。だが、それを優先させてしまったとしたら、本当に大事なものが失われてしまう。綺麗だが価値などないものが生まれてしまう。どうせ価値がないのだったら、本音でチャレンジしたものの方が、多少なりとも意味はあるのではないかと、僕は思うのである。

 ビートルズは素晴らしい。今聴いても素晴らしい。そもそも僕だってリアルタイムではないし、それでも素晴らしいなと心から思う。だけれども、それを評価する方法というものは、きれいな音を求めるということではないように思うのだ。それに、本当にいい音を聞きたいのなら、スピーカーとかアンプとかをいいものにすることの方が先じゃないかと思うし。

Monday, September 07, 2009

有刺鉄線ライブ

 有刺鉄線のライブを見るため、土曜日に池袋に行った。ワンマンライブだった。会場は池袋チョップ。手刀と書いてチョップと読む。それほど大きくはない会場だが、それでも近年はライブハウスが満杯という光景は珍しくなっていて、寂しい思いをする昨今ではあるが、今回のライブは満員だった。熱かった。暑かった。息苦しかった。

 息苦しいのは酸素の欠乏もあるが、それとは別に彼らがこのライブに賭ける想いが漂っていたからだろう。ライブというのは面白いもので、同じメンバーで同じ会場で同じ曲をやったとしてもライブによってまったく別の様相を呈する。それはライブのブッキングがされた時から違うわけで、当日の会場の雰囲気などにもそれは如実に現れる。もちろんそれは僕のようにもう何年もそういうことをしていて、バンドたちがいろいろな悩みを抱えながらも夢に向かって邁進している事情も知っているからではあるが、きっとそれは普通にお客さんとしてきてくれたファンやメンバーの友達にも大なり小なり伝わっていただろう。緊張感と、その緊張を通過することで生まれる充実感。そういうものがライブを良くしていくのだ。

 ワンマンになると自分でチケットを売らなければどうしようもない。しかもワンマンだから売れなければライブそのものも寂しいものになるし、自分たちの経済事情も寂しいものになってしまう。バンドを始めるとメンバー内にそういうリスクを避けたがる人がどうしても出てくる。だから、多くのバンドはその安易な弱気になびいていって、チケットノルマがあるライブには出ないという方向に行ってしまう。確かに経済状況的にはリスクがないだろう。バイトで稼いだお金を放出しないですむだろう。しかしそれでは結局向上しないのだ。向上しないということは未来がないということであり、それこそ人生における最大の危機なのではないだろうか。だから僕は常にバンドたちにはリスクを恐れるなと言う。リスクはハードルであり、バネなのだ。そのハードルを超えることで自分たちは高いところに行くことが出来る。一時的に縮むエネルギーでジャンプするのである。

 今回のライブはとても盛り上がった。その盛り上がりの状況そのものがお客さんの喜びにつながる。それは体験したものしか判らないことだろう。だから多くのミュージシャンが懐疑的にリスクを恐れる。だが意外にもリスクを通過してきたミュージシャンたちはさらに高いハードルへと挑もうとするのだ。それは既に基礎力が高まったということであるし、そういうとき、僕はバンドをそこに追い込んで良かったなあと思うし、彼らの今後にさらに期待したいなと思うのである。もちろん、リスクに挑んですべてが成功するわけではない。リスクに挑んでいるんだということに酔っているだけのケースもある。その時の気持ちは本当だったりするから、周囲にいる僕らもそのことに気付かず、ふたを開けてみたら何にも成長していないということが露呈したりする。唖然とするし、それまで賭けてきた僕らの気持ちや行動や投資が無駄になったと愕然とする瞬間だ。もう何度もそんなことに遭遇してきた。今も同時並行していくつものバンドと仕事をしているわけだが、成長していくバンド、そうでないバンド、やはりいる。仕事って簡単ではないなと、知っているつもりでもあらためて思い知らされたりする。

 だからこそ、有刺鉄線の着実な進化が嬉しいし、昨年の解散の危機を思うと今が如何に幸せな状況なんだろうとあらためて感じるのである。


有刺鉄線/『分岐点』:The Barbed Wire "Turning Point" Live at Ikebukuro (2009.9.5)