Monday, June 21, 2010

公平性

 お相撲の話、またまたワイドショーがヒートアップしている。野球賭博問題。このままでは名古屋場所が開けないのではないかと。

 バカじゃないか。どうしてそんなに問題を複雑にするのだろうか。解決方法は唯一でシンプルだと思う。名古屋場所を開くということだ。そして賭博疑惑を持たれた力士と親方はすべて責任を取る。責任の取り方は、解雇もしくは引退(親方は廃業)だ。なにも名古屋場所が悪いのではない。賭博をしていた人が悪いのだ。場所を中止になんかすれば、真面目にやっていた力士がかわいそうすぎる。

 高校野球なんかで部員が不祥事を起こしたら連帯責任で甲子園出場を辞退するような話もよく聞くが、それも変な話だとずっと昔から思っていた。そこまで連帯責任にするのなら、全国の高校球児のたった1人でも不祥事をしたら、甲子園大会そのものを中止する方がまだましで、名古屋場所を中止するというのはそれに匹敵する愚行である。悪いのはあくまで個人で、その個人を罰したら済む話だ。もちろん数十人の力士がいなくなるだろう。そこに新しいスターが生まれるチャンスがある。再活性化する良いチャンスでもある。

 こういうことを言えば、「まだ疑惑であり、確定するまでは推定無罪なんじゃないか」という反論もあるかもしれない。しかしそれは公平ではない。疑惑段階でロシア人力士を解雇したじゃないか。立件されていない(未だにされていない)時点で朝青龍を引退に追い込んだじゃないか。つまり、相撲界のルールは疑惑の段階で辞めさせるというものなのだ。だとしたら、日本人力士の時だけ厳重注意では済まされない。それでは公平ではない。そんな公平じゃない裁きを堂々と行うこと自体が、相撲という勝負の世界を信じられなくさせることを関係者は理解するべきだろう。もうずっと日本人が優勝できないという事態が続いているのも確かだ。だがそれは日本人が弱いからであって、外国人力士に門戸を開いた時点でそれは覚悟するべきだった。憂慮する気持ちが関係者にあるのも頷ける。しかしその対策としては、日本人力士を厳しく指導して強くさせるか、さもなくば今後一切外国人力士に門を閉ざして鎖国状態にするかでなければならない。すでに入れている外国人力士を揶揄して辞めさせ、その一方で日本人力士の不祥事には「厳重注意」という甘い対応をするというのは、フェアではない。いろいろ辛いだろうが、この際辞めてもらうしかない。ドルジだって日本にチャンスを求めて渡ってきて、努力の末につかんだ地位を追われたのだ。その忸怩たる思いが賭博力士の思いと比較して軽んじられて良い訳は無い。


 一方で政治の話。要するに日本人は情緒で他人を判ずる傾向が強いのだと思うのだが、小沢一郎を政治と金の問題で追い落とすことに成功したある種の勢力があって、僕はそれをとても不公平なことだと感じている。相撲の話と違うじゃないかといわれそうだが、そうではない。推定無罪とか、疑惑の問題とかが大切なのではなくて、その業界に於けるルールの公平性が大切なのである。小沢一郎の政治と金の問題、既に最新の状況としては検察が2度目の不起訴を決め、検察審査会という謎のグループがその決定について検討をしている段階だと思うが、問題の争点としては結局政治資金報告書に記載した時期がズレているという点だけしか残っていなくて、それでも政権政党の幹事長を追われる理由にされていて、幹事長を辞任した今もなおメディアはそれを取り上げている。

 この期ズレの問題の出発点は、西松建設からの不正献金問題だったわけだが、それで秘書が逮捕されている。だが同じような献金が自民党の大物政治家達にも複数渡っていて、その人達のことは一切不問にされている。一方は秘書逮捕から始まり任意の聴取、さらには度重なるキャンペーンによって政権党の要職を辞任で、一方は不問。そのアンバランスさが公平ではないと思うのである。小沢一郎が悪いなら悪いで、だったら同様の行為や疑惑があれば公平に批判と対処をすべきなのだ。今は小沢が政権側で自民が野党側であり、政権側に批判的であるべきだと言う人もあるだろう。だが、この問題が起こった時点では自民が政権側だったのだ。むしろそちらに批判的であるべきなのに、そうはなっていない。個人が徹底的にターゲットにされてしまうというのでは、同じ土俵に上がっているとはとても言えないのだ。

 政治家はクリーンでなければいけない。それはその通りだろう。そのクリーンとダークを分ける境界線というものがあるはずで、それを明確にすることが大切なことなのだ。過去に1点の曇りもあってはならないというのであればそれもよし。法に触れないことであれば大丈夫というのであればそれもいいだろう。たとえ起訴されても最終判決が出るまでOKというのか、それとも起訴された時点でアウトなのか、線引きは判断する人によって微妙に違ってくる。民意とか言うけれども、それは個々に違った様々な人たちの違った意見の平均的なポジションが、民意ということになるのである。そこには当然異論も噴出して然りだ。識者の中にもある基準としての民意に不同意な人が出てきて、メディアで声高に主張反論することだってあるだろう。それらの結果どこにルールが落ち着くのか。それが大切であって、その明確なルールの下に、政治家のクリーンが判断されるのであれば、その基準がどこにあろうとかまわないと思う。だが、現状の政治とメディアと司法の、そしてその結果としての支持率という魔の数字には、基準など無い不公平な状態があるといえよう。それはまさに、突如飛び出した大相撲の問題と根が同じような気がするのである。

 だから、大相撲では比較的新しい過去に、外国人力士達をかなり問答無用で排除した事実がある。だから、日本人力士にも同じ基準を適用すべきだし、それが唯一正しい道だと思うのだ。同様に、政治家にも、小沢一郎が本当に悪いというのなら、同様の行為があった場合にはすべて疑惑段階で悪人のレッテルを貼り、政界からの排除を激しく主張すべきで、さもなければ、献金疑惑で不問にされた多くの自民党議員と同じように、小沢一郎についても不問にすべきなのだろうと思う。ルールの適用を恣意的に使い分けるようなことがあったら、そこに正義は無くなってしまうのだから。

Tuesday, June 15, 2010

主目的

 最近Twitterをやっている。結構やっている方だと思う。だがこれって、やっているとかいないとかいう言葉で定義するものじゃないよね。ブログとかmixiまではやっているという印象だったが、Twitterはなんか呼吸するとかいう感じの部類に入るような気がする。1日中誰とも喋らなかったりするとなんかストレスたまるように、つぶやくことはもう生活の一部にとけ込んでいるような感じなのだ。

 2万人を超えるTLではものすごい勢いでつぶやきが流れる。それでも見ようと思えば見れるものだね。もちろん全部というわけにはいかないけれど、でも見ている時間のつぶやきは結構見れる。自分の認識能力もまだまだ捨てたものじゃないと思えるひとときだ。そんな中で、ある種のトレンドというか、傾向というものは見えてくる。見てる対象が多い分だけ実情にも近いんじゃないかとか思う。僕が最近気になっているのは、みんながフォローを求めているということだ。

 フォローを欲しがる。それは僕だって同じこと。でも、それを声高に言葉にするのはどうかと思っている。これも誤解されそうなので説明してみるが、それが目的だということでガンガン言うのは、まあいいのだ。中にはつぶやきのすべてが「相互フォローお願いします。必ずリフォローします」で、他にその人の生活が垣間みられるようなつぶやきもないという強者もいる。この人はフォローされてどうしたいのか、フォローしてくれた人はこの人をフォローして楽しいのか、まったく理解できない。けれども、それを追求して徹底しているのなら、まあそれもいいだろうと思うのだ。僕がこうして首をひねりながらでも言及していることで、何らかの影響を及ぼしているのなら、それも一種の成功事例だろうと思う。僕はそんな「成功」なんて欲しくないけど。

 だが、結構少なくない数の人たちが、途中から急激にフォローを求めるようになっていくのが、僕の懸念なのである。いや、それは人それぞれだから、僕がなにか意見することではないですよ。そんな資格があるなんて思い上がっているつもりはないです。でも、なんかつまらないのだ。なぜなら、それまで結構毒づいていたつぶやきが面白くて、定点観測的に注目していたような人が、ある瞬間から露骨にフォローを追求するようになって、つぶやきの中でも「フォローお願いします」と言い出し、ハッシュタグとか使い始め、言葉が急に優等生的なものになってしまったのだ。一種の八方美人。誰にも嫌われたくないんだね。野党が与党になったような感じ。そうすることで、面白みが無くなっていったのだ。

 ツイッターの面白いところは、本音が出てくるところにあるように思う。もちろん2ちゃんのような激しい本音が出るわけではない。だけどmixiなんかに比べると、一瞬のつぶやきの瞬発力と、あまりアーカイブ的に残りにくいという特質からか、ちょっとずつ本音が出る。それが見ていて面白いところだと思う。だけどフォローを意識するようになって本音が隠れ、嫌われないようにと思ってさらに上辺の建前になっていくにつれ、面白みは恐ろしい勢いで失われてしまう。もちろん最初から魅力のない人もいる。会社でやっている人のつぶやきなんかはそうだね。それでも「そういう立場」でやっているということがこっちにも判っているから、広告を見るような意識で接するし、失望も特に起こったりはしない。でも個人でやっていて、最初はそうじゃなかったでしょうというような人が仮面を被り始めるのは、本人の意図とは違って、魅力を失うのが、つまらないなとガッカリするのだ。

 僕はこれ、自戒にもなるなと思った。Twitterでの僕のつぶやきもそうだけれど、その前に本業の音楽世界もそうなのだ。バンドマンはインディーズ以前にアマチュアとして活動していて、その頃には基本的に好き勝手なことを歌う。しかし、インディーズデビューして、ある程度の「聴かれている」という意識が芽生え、さらには「売れたい」という思いが大きくなり、リスナーに迎合しようとする。ライブハウスなどでアンケートを配ると、ほとんどは書いてもらえないのだが、時々細かなことを書いてもらうことがある。好意的な意見の時は「良かったです」「頑張ってください」「応援しています」程度の、非常に漠然とした内容がほとんど。しかし批判的な意見のときもあって、そういう時はかなり具体的な点について書かれることが多い。そうするとバンドマンはそういう批判的な意見にひきずられてしまう。結果的に、自分のいいところを伸ばすではなく、自分の欠点を潰していくという意識が強くなっていく。それは八方美人への第一歩だ。

 文化なんて、全員に支持されるなんてことはまずないと言っていいだろう。それは政治の意見を聞かれた時に「自民党も民主党もいい政党ですよね、もちろん社民党も共産党も公明党も良いこと言ってるし、みんなの党とか、後なんでしたっけ、名前覚えてなくてすみません、でも政治家の人たちはみんな良い人で、仲良くやってほしいです」みたいな意見を言うようなものだ。それだと、反感は買わないが、何も言っていないのと変わらない。意味がないし、共感も得られない。個性を発揮するというのは、その個性を理解しない人からの非難を覚悟するということだ。つまり一定層からの支持を得るためにはその層以外からの支持を捨て去ることも必要なのだし、それ無しには支持を集めることなんて出来ないのである。音楽でいえば、トンがるということだ。特徴を出して、自分の初期衝動に誠実であること。これが大切なことだ。だから僕は例えばハードコアのバンドなんかに、そのジャンルは多くの支持を受けにくいかもしれないよと最初に言う。でも、それが好きでやっているのなら、それを貫き通せとも言うのだ。好きなことをやって売れないなら仕方ないじゃないか。もし嫌いな音楽を売れるためにやってみて、それが売れたって面白くないだろう。そもそも売れ線ジャンルを好きでやっているバンドに、売れるためにやってみたくらいで勝てるわけがないのだ。

 そういう意味で、最初から徹底して「相互フォローお願いします」とだけつぶやき続ける人(?)は凄いと思う。気に入られるためにいやいや日常生活をつぶやいてもらったって、それはきっと面白くないだろう。だから、既に面白い個人的つぶやきを展開している人が、突然八方美人的に変容してしまうのは、同じように面白くないことなのだ。それを含めて人間の心の変化と言ってしまえばそれまでなのだが、そう割り切るには惜しいなあと思っている人が、僕のタイムラインには少なからずいるのだ。

Thursday, June 10, 2010

闘いの本旨

 遅ればせながら菅総理の就任おめでとう。それとご苦労さま。オレどんだけエラいのかって口調ですけど、まあ、選挙民さまですから。1票の重みはとても重いよ。その重みを選挙の時だけでなくいつも感じながら仕事しとくれ。

 で、鳩山さんもご苦労さま。小沢さんもご苦労さま。辞されても、闘いは続くよ。それは何のための闘いだ? 正しい社会への闘いなんだと思う。時に人は矢折れ力尽き、精も魂も尽き果て、休みたくなる時もあるでしょうよ。でも休みは禁物。適度の疲労回復以上に休んだら、それは後退であり、それまでの努力が水の泡だ。もちろんどんな偉人も歴史の駒の一つに過ぎず、一つの駒が役目を果たしたら、今度は次の駒が登場だ。そうして大きな将棋は展開されるのであり、激烈な攻防が展開されて、いつ終わるとも知れずに時間だけが過ぎて行く。その攻防に庶民は翻弄されるけれど、それはもう仕方ないのだね。その翻弄を否定したら、どんどんと沈下して行くことを甘受しなければいけなくなる。問題は、その沈下が時代の流れによって起きる悲劇なのか、権力者達の搾取意図によって起きる悪意なのか、そういうことなのだと思う。

 だから、政治が何をもって行動を起こしているのかを注意して見なければいけない。僕はそう思うのだ。

 この数日での世論調査の変化で、参議院選挙の行方も大きく変わってきたらしい。2人区での2人擁立について、「共倒れだ」と叫んでいた人たちも「2人とも当選が予想される」と笑顔に変わったという。だが、その考えそのものが間違っているのだと、僕は思う。なぜか?選挙とは民意を反映させるためのもので、政治家が仕事を確保するためのものではないからだ。民意とは何か。それはどのような政治状況を期待するのかということそのものである。かつての中選挙区では、3人区で8人くらい立候補するが、自民1人社会1人その他1人とか、あるいは自民2人社会1人という感じで決まっていた。自民3人も無ければ、社会3人もない。それは単なる談合である。当事者はそうは言わないだろう。だが立候補する人数を調整することで結果を操作しているとすれば、国民の意思を明確にするための闘いを候補者側で排除していると言わざるを得ない。それでは永遠に政権交代は起こらない。交代の可能性がないから政治に緊張感が生まれないし、国民のための政治を行おうという気持ちが政治家に起こってこない。それではいけないというのが小選挙区の導入だったはずだ。参院選は小選挙区とはまた違っている。だが、この2人区に対する行動というのは、小選挙区導入の精神がどうで、それに対して関係者がどう考えているのかということのひとつのリトマス試験紙になるのだ。

 つまり、2人区に2人を立てるというのは、勝つか負けるかではなく、国民に結果を委ねるということそのものなのである。共倒れを恐れるというのは、政治家や政党、支持団体の側の論理であって選挙民の論理ではない。もしも共倒れを恐れて1人確実に勝とうというのであれば、それは独占していくということを望んでいる選挙民の希望を最初から奪う行為であって、選挙民への裏切りそのものだと思う。ずっと中選挙区でやってきた談合と同じである。大切なのは、2人区に2人を立て、2人とも勝つためにより良い政治を展開して行こうということである。それが支持されれば2人とも勝つし、支持されなければ2人とも負ける。それでいいじゃないか。負けたら再び臥薪嘗胆して捲土重来を期すのである。いい政治のために努力するのである。政権交代可能が制度的に担保されていればそういう態度も可能になる。勝った側も次に負けないようにいい政治をしようと努力する。その繰り返しが政治を良くして国を良くするのであって、2人区に1人立てるという行為は民主主義の自殺行為に他ならないのである。

 僕が小沢さんを支持し、今の民主党を支持するのは、政治の選択権を国民に委ねようとする姿勢という一点であって、細かな政策の云々についてはどうでもいいと思っている。今はまさに移行期であって、今の制度をもう少し改善し、それが定着していく中で、ようやく細かな政策について議論できる下地ができてくるのだろうと思う。今の2人区に2人という戦略は、目前の闘いに勝利するための戦略であると同時に、国民に選択を委ねていくための不可避の行動なのだと思う。ここで談合して勝負を避けるのでは、そもそも民主党が本当に政権を獲得する意味がない。ここで勝負を避けて勝利を目指したら、結局は権力だけの闘争ということになってしまい、かつての自民党や社会党となんら変わらなくなってしまうのである。

 スポーツだったら勝利が何より大切だ。だが、武道はそうではない。礼に始まり礼に終わる。礼の精神が無ければ、勝ったところで無意味なのだ。同じように政治もスポーツとは違うのである。やろうとしている政治的理想というものがあり、それの実現に向かって努力をするのが政治だ。その過程で選挙もある。選挙で負ければ理想の実現は出来なくなる。だが、選挙で勝っても理想に反した行動をとったのでは意味が無くなる。世の中には理想もなく権力に固執して選挙を闘っている人たちがいる。むしろそういう人がほとんどだろう。だからこそ、2人区に2人立てようとすることにはとても意味があるし、内閣支持率が際限なく低下していながらもなおその姿勢を崩さずに進もうとしたのは、それこそ選挙の勝利よりも全勝か全敗かの判断を民意に委ねることを優先したということであり、権力よりも理想を優先したということなのだろうと感じているのである。

 そして今、菅総理に変わったことで民主党の支持率が回復した。その回復ぶりもどうなんだろうと思うが、それを受けての政治家の人たちの豹変もどうにかしていると思う。ここに来て「2人区に2人立てることは間違ったことではない」と言っている人がいるらしいが、それが小沢さんの意図を最初から理解した上で言っているのだとすれば、その人は本来非小沢の人であるはずがない。だがもしも、勝てそうだからその戦略に乗っかろうとしているのであれば、非小沢親小沢に関係なく、利権屋さんということなのだろう。本当はどういうことなのかは知る由もないが、お願いだから後者じゃないことを祈りたいのだ。

Wednesday, June 09, 2010

パラダイムシフト

 HMV渋谷店の閉店のニュースが駆け巡る。驚いたなあ。

 といっても、閉店したことが驚きなのではない。それに対する多くの人の感想があまりにも的外れで、驚いたのである。

 感想にもいろいろあって、大きく分類すれば次の2つに分かれる。「いつも通っていたお店がなくなるのは残念だ。」というものと、「CDはもう売れないんだなあ」というもの。前者は、それは理解できる。馴染みの店が無くなるのは哀しいものだ。大規模店であれ小さなお店であれ、自分の記憶が剥ぎ取られるような気持ちになる。僕は通っていた大学の近くにオフィスを構えているのだが、学生時代から続いている食堂なども次々と閉店して、もはや残っている方が少数だ。別に売り上げが落ちたわけではないだろう。単に後継者がいないだけだ。おとうさんおかあさんがおじさんおばさんになり、おじさんおばさんがおじいさんおばあさんになる。そしていつか突然シャッターが開かなくなる。時が経ったことを思い知らされる。ああ、自分という人間の閉店はいつなんだろうとか、まだ漠然だが、しかし強制的に思わされる。HMV渋谷店も同じだ。あの店も所詮キラキラレコード20年の歴史ほどもなく、だから僕からすれば開店したお店が閉店するだけであり、学生街の定食屋の閉店ほどの衝撃はない。でもそこで渋谷で青春を過ごした若者にはそれは有って当然のシンボルであり、それが無くなる衝撃は想像に難くない。

 後者の「CDはもう売れない」というのはどうなのか。もちろん総出荷量は落ちているのだろう。だからあながち間違いではない。だが、それでお店が潰れるのではない。HMV渋谷店をCDが売れないことの象徴として捉えるのは明らかに誤解だし、シンボル的なお店でもあったが故に誤解はさらに大きな誤解へとつながっていく。まあ多くの人が誤解したところで僕の仕事にはほとんど影響しないのだが、音楽業界でCDを売ることを生業にしているものとしては、ちょっとだけ私見を述べておきたいと思ったのである。

 まず、CDショップが閉店になるにはいくつかの理由がある。1つには売り上げが下がり、経営が成り立たなくなったというもの。もう1つは経営の形態が変化して整理統合の対象になったというもの。簡単にいえば、第一勧銀と富士銀行が合併してみずほ銀行になったら、駅前に競合して2店ある必要はないよね、だから1店は閉店しようねというものである。HMVは今年3月にTSUTAYAを経営するCCCの傘下となった。それは銀行の合併のようなものであって、渋谷駅前に大きなTSUTAYAがある以上、そのすぐ裏にHMVが競合する必要はなくなる。当然の話だ。飲食業会では同じ会社が別ブランドをいくつも平行して経営しているケースがあるが、それは居酒屋と牛丼屋とイタリアンとカフェなど、同じ飲食であっても業態も提供する料理もまったく違うから成立するわけで、CDショップで売るものは基本的に同じものである。よほど特色を出して「ウチはラテンの輸入LPだけしか扱わないとかなら成立するだろう。だがHMV渋谷とTSUTAYAでは、基本は他社が製作したヒットものを大量にさばくというものであって、そこに違いはほとんどない。だとすれば渋谷の一等地でほとんどビル1棟借りきりの状態のお店2店舗というのは、真っ先に効率化の対象になる。これはCD業界特有の話ではなく、生き残りのための買収や合併はどの業界でも繰り返されていることであって、たまたまHMVがそうなったというだけの話である。感傷がつきまとうのは当然だが、それをCD業界全体の落ち込みにイコールの形で投影するのはナンセンスである。

 それと肝心の「売り上げの減少」だ。これはもちろんCD全体の売り上げが下がっているというのは事実だろう。だが、HMVの売上げの落ち込みはそんな全体の数字以上のものがあるはずなのだ。それはHMV特有の事情ではなく、タワーもその他のCDショップも免れられない現象である。その大きな理由は2つ。1つは通販の台頭であり、もう1つは趣味の多様化である。

 通販の台頭は、まさにamazonのことである。現在新しい情報を得るソースは雑誌や店頭からネットに移った。そしてそこからダイレクトに通販サイトに誘導される。各メーカーのサイトはもとよりメンバー自身のブログにだってamazonへのリンクは貼られる。YouTubeの映像はブログにダイレクトに埋め込まれ、そのすぐ下にamazonがあれば、普通そこが最大の購買機会になる。今もネット通販は不安だという人も少なくない。だがそれはもはや少数派で、多くの人は気軽にポチッと購入するようになっている。僕などもそうだ。むしろ以前に増してCDを買うようになってきているし、第一、今やキラキラレコードの売上げは、ショップ経由とamazon経由ではほとんど同じになってきている。だとしたら、かつてのショップでの売上げの5割をamazonに持っていかれてしまっているとしても不思議ではない。売上げが全盛期の5割を切れば、当然経営は難しくなってくる。もちろんショップはショップでいろいろな策を講じているだろうし、ショップの面白さというものは決して無くならないと思いたいので、もっと頑張ってもらいたいとは思っているし、一般のリスナーにもショップでの出会いをもっと体験してもらいたいと思う。だが、現実には通販の伸びにショップが押されているというのが現実で、それがHMVの経営を圧迫しているというのが最大の要素なのだろう。

 趣味の多様化。これはどういうことかというと、まさにキラキラレコードのようなインディーズの音楽ということなのだろうと思う。インディーズのCDは、なかなかショップに置いてもらえない。もっともっと力を付けなければと自らの反省にして頑張っているのだけれど、それでもショップで置いてもらうというのには高い壁が有るのも事実である。でも、だからといってインディーズの音楽が内容として劣っているわけではない。もちろん玉石混淆であり、ダメなものだってたくさんあるのは事実である。メジャーの方が厳選されているといえるだろう。だが、そんなインディーズの中でも良いものはたくさんあって、そういうものをちゃんと発見して支持してくれている人たちも多い。そういう人は、近ければタワレコ渋谷か新宿に行くだろう。この2店は特にインディーズの在庫が豊富で、他所になくてもここにはあるというケースが多い。だが100%ではない。行って無ければ注文できるが、通勤途中にそれがあればまだしも、わざわざそのために出かけるのだとすれば、注文に1往復、届いたと連絡が来て取りにいくのに1往復。片道の電車賃が250円だとしても、2往復では1000円かかる。CD1枚買うのに電車賃1000円は無いだろう、普通。それしか方法が無いのであればそうするしかないが、amazonでポチッで送料無料とくれば、まあ普通はそちらを選ぶ。しかもほとんどのインディーズCDがそこにはあって、ジャケットと曲目が簡単にチェックできる。キラキラレコードのamazon売上げが上がってきているというのもそういうことが大きな理由なのだろうと思う。20万枚の在庫数を誇るタワー渋谷店でも、現在流通しているCDをすべてそろえるのは難しいだろう。ましてやタワーの平均在庫数は8万枚程度だと聞いている。デパートなどに入っているCDショップの在庫は1万〜2万枚だ。それではメジャーのアーチストでも代表作くらいしか置くことができない。インディーズの商品を全部揃えるなんて夢のまた夢だ。10年くらい前なら、それでもインディーズのCDを欲しがる人は少なく、それを売り逃しても誤差の範囲でしかなかっただろうが、趣味の多様化によって相対的にメジャーアーチストのCD売上げを食うようになってきて、結果としてメジャーアーチストのメガヒットが出なくなり、一方でインディーズの総売上が上がってきているといえよう。世の中で発表されるチャートでは今でもインディーズは泡沫に過ぎないだろう。しかしライブ会場での売上げとamazonでの売上げは全体として伸びてきており、それを反映しないショップ売上げのチャートにはほとんど意味がない。それはつまり、「100万枚が出なくなってきた→その他のアーチストたちも売れていない→ショップの売上げも下がってきている→HMV渋谷も閉店になる→CD業界は厳しい」という見方が実に表面的で、本当は「リスナーが多様な音楽を好むようになってきた→その嗜好に対応するには極めて幅広い商品対応が必要になる→1店舗に置ける在庫数には限界がある→ショップではリスナーの嗜好に対応しきれなくなってきた→通販がそれをカバー→インディーズの入手がますます容易に→リスナーの選択肢が広がり、相対的にメジャー的な人たちのCDが選択される確率が減る→商品の多様化&タイトルの分散化→メガヒットが出にくくなる→チャート上位でも小枚数に→CDは売れなくなったという誤解」というのが正しいということなのだ。
 
 これからはますます多様化が進むだろう。かつてのメジャーアーチストたちも続々と自主レーベルを立ち上げるようになってきた。これは彼らが「このくらいの売上げをキープできればいいか」という割り切りをするようになったということであり、それは決して向上心からとか野心からではなくて、自分たちの限界を自ら規定するという動きなのであって、決して褒められるものではないのだが、だが人間には限界はあるし、かつての名声で食って行こうという思いは誰も止められないし否定も出来ない。かつてはそれが環境的に許されなかったけれども、現代のようにダイレクトな情報伝達がどんどん容易になってくるにしたがって、それが可能になってきているというだけのことである。それはつまり、インディーズという在り方がかつては非常に存在しにくかったけれども、現在は比較的容易に自由に存在できるようになってきたということと似ている。かつての常識は既に非常識となり、その中で絶望をするのか、希望を膨らませるのか、それは個々の考え方に委ねられているのだろうと思う。